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新藤兼人 > 情報/プロフィール

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日記
2007/08/17
画像/壁紙関連商品
直近発売の商品: 2008/06/27 ():安城家の舞踏會 \2,800
193件: 売上順/新着順
3004
DVD:安城家の舞踏會

参考:\2,800
2008/06/27
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1.時代の流れ、、、そして華族制度の崩壊を描いた名作です。
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VHS:讃歌
参考:\13,598
1987/06/01
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1.新藤&谷崎ワールドの絶妙さ
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VHS:お嬢さん乾杯
参考:\3,990
1991/05/29
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VHS:完全なる飼育
参考:\16,800
1999/08/27
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1.なんだかなあ
4081
VHS:ブラックボード
参考:\14,700
1990/03/15
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6606
VHS:午後の遺言状
参考:\16,590
1996/05/17
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VHS:安城家の舞踏会
参考:\3,990
1991/05/29
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1.懐かしの安城家の舞踏會
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DVD:激動の昭和史 沖縄決戦

参考:\4,725
2007/07/27
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1.この映画で考えらされること。
9167
DVD:しとやかな獣

参考:\4,725
2005/09/23
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1.60年型「家族ゲーム」
10025
DVD:愛妻物語

参考:\1,000
2008/02/25
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読み仮名(平仮名)しんどうかねと
英語名Kaneto Shindo
生年月日1912/04/22
出生国日本
出身都道府県広島県
出身地佐伯郡大字石内村(現・広島市佐伯区五日市町〉
性別
職業監督 脚本 文筆家
経歴/説明日本のインディペンデント映画の先駆者である。広島県名誉県民。孫の新藤風は映画監督、新藤力也はDDTプロレスリングのリング・アナウンサー。

豪農の家に生まれるが、父が借金の連帯保証人になったことで、14歳の頃に一家は離散。高等科に進むと広島市内へ活動写真を見に通い、夜遅く提灯を下げて山を越えて帰宅した。1933年、尾道の兄宅に居候中見た山中貞雄の映画『盤獄の一生』に感激して映画を志す。1年半のアルバイトで金を貯め、なんのあてもないまま京都へ。助監督への道は狭く1934年、入ることが出来たのは新興キネマ現像部でフィルム乾燥雑役から映画キャリアをスタートさせる。満州国が帝制に移行した年であった。目指す創造する世界とはかけ離れた長靴を履き辛い水仕事を一年ほどする。撮影所の便所で落とし紙にされたシナリオを発見、初めて映画がシナリオから出来ているものと知る。

新興キネマ現像部の東京移転に同行し美術部門に潜り込む。美術助手として美術デザインを担当。仲間からは酷評されても暇を見つけてシナリオを書き続け投稿し賞を得るが、映画化はされなかった。家が近所だった落合吉人が監督に昇進し、脚本部に推薦され『南進女性』で脚本家デビュー。1941年、溝口健二の『元禄忠臣蔵』の建築監督として1年京都に出向。これを機に溝口に師事した。シナリオを1本書いて溝口に提出するが、「これはシナリオではありません、ストーリーです」と酷評され大きなショックを受ける。劇作集を読みあさり再出発を誓う。

1942年、情報局の国民映画脚本の公募に応募、佳作に終わる。当選は東宝の助監督、黒澤明の『静かなり』であった。翌年『強風』が当選。これを知った溝口から連絡があり生涯ただ1度だけ祇園で御馳走にあずかる。1944年、所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され脚本部へ移籍。同年4月、1本も書かないうちに召集され二等兵として呉海兵団に入団。既に32歳ながら10代の若者に扱き使われ、彼らの身の周りの世話をする。上官にはクズと呼ばれ、木の棒で気が遠くなる程叩かれ続けた。兵隊は叩けば叩くほど強くなると信じられていた時代だった。同期の若者は大半が前線に送られた。 1945年、宝塚海軍航空隊で終戦。宝塚歌劇団の図書館で戯曲集を全部読み終え松竹大船に復帰。同年秋書いた『待帆荘』がマキノ正博によって映画化され1947年のキネマ旬報ベストテン4位となり初めて実力が認められた。1946年と1949年に溝口のために『女性の勝利』と『わが恋は燃えぬ』を書く。1947年、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表。大ヒットしベストテン1位も獲得、シナリオライターとしての地位を固めた。 その後は吉村とのドル箱コンビでヒットを連発。木下恵介にも『結婚』、『お嬢さん乾杯』を書く。

1949年、『森の石松』の興行的失敗や初監督作『愛妻物語』に会社首脳が「新藤のシナリオは社会性が強くて暗い」とクレームをつけるに及んで作家性を貫くため1950年、松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立。1951年、『愛妻物語』で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。主演した大映の看板スター乙羽信子がこれをきっかけに近代映画協会へ参加する。また大映に持ち込んだ『偽れる盛装』が1951年大ヒット、新藤=吉村コンビの最高傑作となった。1952年、原爆を直接取り上げた初めての映画「原爆の子」を発表。翌1953年、カンヌ国際映画祭に出品。米国がこの作品に圧力をかけ、受賞に外務省が妨害工作を試みた。また西ドイツでは反戦映画として軍当局に没収されるなど各国で物議を醸した(現在はヨーロッパでよく上映されている) 。以降は自作のシナリオを自ら監督する独立映画作家となり、劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表。しかし芸術性と商業性との矛盾に悩み失敗と試行錯誤を繰り返した。1960年に撮った台詞のない無言の映画詩『裸の島』はお金が無いため、近代映画協会の解散記念にとキャスト2人・スタッフ11人で瀬戸内海ロケを敢行。スタッフ一同で1ヶ月ロケしたこの映画を550万円で作り上げた。作品はモスクワ国際映画祭でグランプリを獲り新藤は世界の映画作家として認められた。また世界中に上映権を売って売りまくり世界62ヶ国で売れてそれまでの借金を返済した。

以降は放射能を題材とした『第五福竜丸』、『さくら隊散る』、連続拳銃事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』、家庭内暴力に材を取った『絞殺』、死と不能をテーマにした『性の起源』、老いをテーマとした『午後の遺言状』など多くの問題作を発表。また頼まれた仕事は断らない、を信条に自作の制作と平行に日本映画の数多くの作品の脚本を手がけた。中には映画史に残る名作、話題作や評価の低い作品と色々あるが、「優れた芸術家は多作である」という観点からいくとこれも秀でた才能といえる。評価の高い作品としては川島雄三監督/『しとやかな獣』(1962年)、鈴木清順監督/『けんかえれじい』(1966年)、神山征二郎監督/『ハチ公物語』(1987年)などがある。怪作としては江戸川乱歩の原作をミュージカル仕立てにした『黒蜥蜴』(1962年)などがある。TVドラマ、演劇作品も含めると手がけた脚本は370本にも及び、数えきれない程の賞を受賞した。「ドラマも人生も、発端・葛藤・終結の三段階で構成される」というのが持論である。現在も現役で活躍、70年の映画キャリアを誇り、世界最長老の映像作家と思われる。また池広一夫神山征二郎千葉茂樹松井稔金佑宣田代廣孝田渕久美子ら多くの門下を出した。尚、近代映画協会は一時100近く有った独立プロのうち唯一成功し現在も作品を送り出している。結婚は3度経験して、1994年に死去した女優の乙羽信子は3度目の妻。

長年の映画製作に対して、1997年に文化功労者を、2002年に文化勲章を授与された。 また、映画を通じて平和を訴え続けた功績により2005年に谷本清平和賞を受賞。 1996年、日本のインディペンデント映画の先駆者である新藤の業績を讃え、独立プロ58社によって組織される日本映画製作者協会に所属する現役プロデューサーのみが、その年度で最も優れた新人監督を選ぶ新藤兼人賞を新たに創設した。
作成者有線KKK
最終変更者/日時宇宙刑事ジャンギャバン / 2007/04/22
その他更新者: ラマンチャ / 羽幌炭鉱
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