=>古記事 その他最近のコメント 1. 2012/05/18 「短編アニメ > 短編アニメ『JAM』」 [この書込みのみ表示 (記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け) ]拍手:6個 ■今年のイメージフォーラム・フェスティバルで特に注目すべき作品の1つは、水江未来氏による『And And』でしょうか。 もちろん、ベルリン銀熊賞を受賞した和田淳氏の『グレートラビット』の凱旋上映も目玉の1つであるに違いない。 幸い、『グレートラビット』については(たぶん『フミコの告白』よりも)広くニュースで報道されていたと思うのですが、 短編アニメーションを取り巻く環境は依然として厳しいようですね。僕も積極的に円盤を買うようにはしてます。 それはともかく、今回は若きアニメーター水江未来氏の作品『JAM』について。2009年制作。 水江未来『JAM』 しかし、何か作品の外に取り出して語るべきものは見当たらない。 純粋にアニメーションのダイナミズムが素晴らしく、体感的な感動を得られる作品となっていると思う。 躍動的でリズミカルな動き、緻密な画面構成、細胞や幾何学模様の生成と変容など、めくるめくアートワークに目を奪われる。 とは言え、この作品は、画面上の盛り上がりばかりが強調され過ぎている気がしないでもない。 つまり一貫した反復というモチーフはたしかに見事だと思うのだけれど、やや単調でメリハリが感じられない気がする。 この作品は2009年制作ですが、近年では作品全体の構成力が感じられるなど、目に見えて進化しています。 彼の作品が気になった方は、公式HP、またはイメージフォーラム・フェスティバルへ足を運んではいかがでしょう? ♯1:水江未来ウェブサイト これまでの作品の一部が公開されています。 ♯2:Image Forum Festival2012 東京日程は終わってしまいましたが、来月には京都・名古屋などで上映されます。 ★ ■水江氏のインタビューを見つけました。 http://public-image.org/interview/2011/10/24/mirai-mizue.html >>物語性はあえて排除しているところがあるのですか? >>例えば絵画にしても、抽象画ならではの伝わり方というものがあると思っていて、 >>アニメーションでもそういうことをやりたいというのがありますね。 >>物語のあるアニメーションの場合、基本的にその動きというのはキャラクターたちの演技じゃないですか。 >>それを否定するつもりは全然ないですが、本当の動きの自由さというのはそういうところからは表現しづらいと思うんですね。 >>物語から離れた時に初めて表現できる自由な線の動きというのがあるんじゃないかなと。 >>僕が子供の頃に見たチェコアニメなんかも、見たことのない動きにゾワゾワするところがあったので、 >>そういう驚きを自分でも表現していきたいと思っています。 もう記憶は残っていないけれど、「絵が動く」ということ自体に初めて感動したことはあると思う。 時間芸術としての、より原初的な感動というのは、理性的なものではなく身体的な、つまり「動き」に対するものである。 そして本当に優れたものとは、言葉にすることが出来ない。何度も言うが、言語化を拒絶する体験こそが本物の体験だろう。 ♯ 田中廣太郎氏による抽象アニメーション『Varfix』 Varfix from kotaro tanaka on Vimeo プロップやコンテクストを徹底的に削ぎ落とし、アニメーション言語の形態素レベルにまで解体すると、こういう抽象アニメになるのだろう。 記号表現は乱用されると飽きてしまうが、クリシェを異化するタイミングの妙が実に見事であり、批評性を兼ね備えた作品でもある。 >>古記事: 『黒の正方形』という絵画を御存知であろうか。御存知ない。それは大変残念である。そして(ry ★ ■宮崎駿研究所の叶精二さんが、メビウスの死に際してツイッターで以下のように語っておられました。 https://twitter.com/seijikanoh/statuses/179206105803661313 より。 >>メビウス、ミュシャ、イヴァン・ビリビンやヌーヴォー派の諸作に触れると、 >>線で括り、色面で塗り潰す、セル的様式の静止画には無限の可能性があると感じています。 >>動画になると線の魅力が動きに溶解してしまうケースが多く残念です… 興味深い。線の魅力が動きに溶解してしまう、というのはやや難解な表現であるけれど、 静止画としては完成度が高いにも関わらず、映像となると線の魅力が活かされていないということかな。 現在ではコンピュータ技術の発達によって、アニメで緻密な画を描くことは、かつてほど難しくないことになりつつある。 これは必然的な「進歩」であり、しかしこれがどこに行きつくのか、何を目指しているのかは、あまり見えてこないように思われる。 いかにコンピュータ全盛の時代だろうと、たしかにコンテなどから描き手の個性は見て取れるけれど…。 そうではなく、表現技法そのものに何か思想のようなものが見えるような作品が僕は好きだな。 ★ アニメーションにおける線に関して、アレクセイエフやドゥルーアンによるピンスクリーン技法はその次元を超えている。 光と影によって織りなされる白から黒に至る無限の連続的な諧調には、明確な線による輪郭が存在しないと言えるかもしれない。 おそらく、これほどメタモルフォーゼに適した技法は無いだろう。 『展覧会の絵』 VIDEO ★ ■アート・アニメーションを取り巻く環境について 再び、水江氏のインタビューより。 >>日本でアニメーションを作っていく環境については、どう感じていますか? >>環境はやっぱり厳しいと思います。 >>僕が国際映画祭で発表しているようなインディペンデントなアニメーション作品は、スポンサーになってくれるところもないですし、 >>テレビやイラストの仕事だったり、講師をやったりすることで得たお金を制作費にまわしているというのが現状です。 >>もともとそんなにお金がかかるような作り方はしていないので、映画祭の賞金が入ったり、 >>海外で放送されて放映料をもらったりすればある程度回収はできますが、 >>映画祭に出そうとすると上映用のテープを作ったりしないといけないし、お金が結構かかるんですね。 >>もともと自分のインディペンデント作品だけで食べていこうとは思っていないからいいのですが、 >>海外から評価されて国際映画祭で発表する時に発生するお金なんかについては、もう少しサポートがほしいなというのは正直ありますね。 アート・アニメーションという呼称は、一種の「権威付け」であって、アニメーションの本質を見失わせてしまう気がしなくもない。 アニメはアニメであって、社会学や心理学やらの難解な言葉や概念で理論武装しなければならない訳ではないのだ。 それから、こうしたアニメーション作品と、深夜枠アニメを隔てる分水嶺のようなものが措定できるのか。 あるいは「それは芸術性だ」という人もいるかもしれないけれど、この言葉が何を意味するのかというのは決して自明ではない。 何か絶対的なものの存在を信じていられるのは19世紀的である。そしてノルシュテインもまたそうなのだろうか。 それはともかく、こういう記事は、出来る限り多くの人と感動を分かち合いたいという、僕個人の勝手な理由で書いているに過ぎない。 ★ ■作画厨がまだ生きているということに驚き! 未だに「作画崩壊」なんてドヤ顔で言うのは、恥ずべきことである。 そして、このような言葉は乱用された結果、もはや言葉としての効力を失ったクリシェでしかない。 それはともかく、作画に不安のある『夏色キセキ』ですが、作品として大きな欠陥を抱えているようには思えない。 しかし一様に「作画はスゴイ」と言われる『氷菓』は、むしろ語り過ぎる映像が、アニメ的な誇張表現と齟齬を起こしている気がする。 まだ上手く言葉に出来ないですが、何か違和感のようなものを感じるのは事実です。たぶん『日常』から。 さらにキャラクターの演技の間を詰め、ニュアンスを変えてゆくことが求められるでしょうか。 しかし、相変わらず身体的な生命感やダイナミズムを感じられる映像は流石ですね。 >>古記事: 京都アニメーションの挑戦―アニメをアニメ足らしめるために 記号的、クリシェ的―アニメ『日常』と京アニの作家性について シャフト×新房作品が評価される理由の一つとして「省略の巧さ」があると思うけれど、 しかし手法は全く違えど、どちらも写実に迫ろうとするという意味では京アニと通底していると言える。 ■ももへの手紙 大学の友人によると、なかなか良かったらしい。ここの評価板は賑ってないけれど。 今日は久々に色んな作品の評価板を覗いてみようと思う。わくわく。
canadadry さんのコメント (2012/05/26) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] herba さん コメントありがとうございます! >>ゲーム映像を想起します >>避けゲーとかにありそう BGMや動きはパターン化されてますが、何だか身体を動かしたくなる映像ですね! ほんとゾワゾワする…herba さんのコメント (2012/05/26) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] JAM のアニメーション、パッと見、ゲーム映像を想起しますね。 パターン的に(避けゲーとかにありそうなパターン)。canadadry さんのコメント (2012/05/20) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] お二方、コメントありがとうございます!>>アマンドの木 さん >JAM 日記本文の方では「生成と変容など」と、いつもの言葉を無頓着に使ってしまったのですが、 この作品では変容はあまり見受けられないように思いました。やはり単調過ぎます。 でも動きのゾワゾワ感は見事で、ほんとに細胞がゾワゾワしてくる感じ。 >氷菓 映像出力が高いのに、キャラクターの芝居に違和感があるから尚更だと思います。 特に、灰色の高校生活と省エネ主義者を気取る、折木奉太郎という人物の芝居とか。 彼が感情や本音を隠そうとしたとき、それでも表れてしまう仕草や表情。 よく描き込まれた映像だからこそ、アニメの省略的手法と喧嘩してしまう感じでしょうか。 あの綺麗な絵が活かされてないばかりか、むしろそのことで別の問題が生じてる。 そして彼と違って陽気でおしゃべりな、福部里志という人物。 奉太郎の心情を暴露し続ける彼は、しかし奉太郎の仕草や表情の機微を観ていない。 いつだって独り言のようにしゃべり続ける。何だかなぁって思います。 >>またおまえか さん >「作画崩壊」 今回の日記は硬い文体で書いちゃいましたが、深刻なお話ではないです。 実は僕も心の中では使ってます。でもやっぱり茶化す程度。 スケジュールの厳しさや予算の低さなど、アニメ制作環境がまだまだ悪いのでしょうね。 最近は公式がネットで公開したりもしてますけれど、そういう所のコメントで 作画についてツッコむのは・・・ちょっと出来ないや。スゴイと褒めるけど。 違法でUPされた動画でさえ、そういうコメント書いてる人はどういうつもりなんだろう? まぁそれはおいといて。 記号的でない何かをどうにか表現しようとした果てに、キャラの設定画から崩れるとか、 動きを表現するために敢えて歪ませるとか、そういう意図的なものまで十把一絡げに 「作画崩壊」なんて言われてしまう場合は、非常に残念なことだと思います。 >線の魅力 複数の人が絵を描くのだから個性が邪魔になるというのはその通りでしょう。 それでもレイアウトとか色彩なんかに個性が表れてると、やっぱり嬉しい気分になります。 作監の人は大変だろうけど、もっと個性出してみて欲しいなって思います。 アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレスエイト」は多くの人から非難されましたが、 ほとんど同じ内容に対して8通りの映像を創り出したということに、僕は感銘を受けました。 結局、細かな差異を見出せない鑑賞者の感受性が鈍いだけ、とまでは言いませんが、 似たような作品ばかりだと辟易してる人が、映像の細かな違いにまで文句を言うのは 何だかなぁって思ったりする訳です。 >「金田光」 すげー、かっこいい! これも優れた古典のよい一例ですね。またおまえか さんのコメント (2012/05/19) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] おじゃまいたします。 >>線で括り、色面で塗り潰す、セル的様式 これを一言でなんというか、昔 調べたんだけど、忘れてしまいました ! 再度 検索をかけてみて「クロワゾネ」に当たったんだけど、これとも違ってた気がする。 どっちにしろ、聞いたこともない用語だったんだけど ・・・ 例えば「クロワゾネ」だと5文字で済むから 楽できていいな。 くらいな感じ。 >未だに「作画崩壊」なんてドヤ顔で言うのは、恥ずべきことである。 ギャー 恥ずかしい >< ・・・ わたしは よく使いますね「作画崩壊」って言葉。 ― なんか4文字で済むし、楽かな と。 でも、深刻な意味合いで使うことは、まず無いですね ― 茶化す程度。 アマンドの木 さんの言う「ヤシガニ」は、作画崩壊というより「放送事故」と言いたくなります。 >>動画になると線の魅力が動きに溶解してしまう BSアニメ夜話で、大地丙太郎監督が「アニメはイラストじゃねえ !動かしてナンボの世界じゃ !」と 吠えていました。要は、線にこだわる暇があったら、動きにこだわれってことなんでしょうけど ・・・ 線は大きく「筆の線」と「サインペンの線」の 2つに分けられます。 「筆」は、書く者の加減で 線に「強弱」が生まれ、メリハリ、タッチが付き「個性」が出ます。 「サインペン」は、誰が使っても 線は「均一」で、メリハリはなく「無個性」です。 漫画家は「筆」を選び、アニメーターは「サインペン」を選びました。 漫画家は「個性」が売りですが、アニメは大人数で制作するので個性が邪魔になるせいだと思われます。 ただ、原画も動画も同じ人がやれば、描線(タッチ)にこだわることも可能です。(インデペンデント作家と同じ)http://youtu.be/kfMxXQqz_38 http://youtu.be/ztfTLOV36dw >田中廣太郎氏による抽象アニメーション『Varfix』 こりゃ「金田光」ですね ! ― 金田伊功(80年代を代表するカリスマ・アニメーター)http://youtu.be/-Su2s28z0Lc アマンドの木 さんのコメント (2012/05/18) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] 最初の動画、ほんとゾワゾワしますね。願わくば、その高まったゾワゾワ感を爆発的に発散させてくれるオチであって欲しかった。 アニメの作画には特に興味を持たないのですが(ヤシガニをリアルタイムで見た人間としては、今のアニメに作画崩壊などと騒ぐ要素がどこにあるのか全く分からない)、氷菓は自分も違和感を覚えます。あれだけ綺麗な絵を描いているのに、描かれている主人公がちっともゾワゾワしていない。女の子の顔が眼前に近づいた時に生じる男の子の心のゾワゾワ感を描いてこそ、あの絵は生きると思うのだけど。
2. 2012/01/26 「短編アニメ > 短編アニメ『The Bead Game』」 [この書込みのみ表示 (記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け) ]拍手:5個 忙しい…。という訳で(?)、短編アニメの紹介でも。 超名作の紹介というのも変ですが、イシュ・パテルによる『ビーズ・ゲーム』。 VIDEO ビーズのみによって表現されたストップ・モーションによるアニメーションです。 アート・アニメーションには素晴らしい作品が多いですが、その中でも本作はノルシュテインの『話の話』に比肩しうる数少ない作品の1つだと思います。 アニメをアニメ足らしめる最大の特質の1つはメタモルフォーゼであり、1つのビーズに始まり、それが線となり、面となって自由に横溢する生成と変容のダイナミズム。 打楽器によるリズムもまた非常に躍動感を与えています。まさにアニメーションの鼓動であるかのよう。Animaの息吹が感じられる作品です。 さらに、1つのビーズ(細胞)に始まるめくるめくメタモルフォーゼは、すなわち生物の進化の歴史そのものとなっています。 その果てにあるのは神であり、地上における生物たちの営為は全て、神があやとりのように行っていた「ビーズ・ゲーム」であったことが明かされる…。 このラストの衝撃は無類のものです。生命の起源に迫りながら、この作品はアニメーションの根源に迫っているかのようでもあります。 イシュ・パテルなら『The Afterlife』もおススメ。さて、僕は量子物理学の試験に行って来ます。
canadadry さんのコメント (2012/02/25) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] またおまえか さん、はじめまして。コメントありがとうございます。 かなりレスが遅れてしまって、本当に申し訳ありません。 アレクセイエフと言えば、ピンスクリーン技法ですね! 初めて知ったときは驚愕しました。光と影の作る無限の連続体による刻々とした変容は、間違いなくメタモルフォーゼに適していると言えるでしょう。さらに、訂正手段が無いという意味で、時間芸術であることの本質に肉薄した技法でもあると思います。『展覧会の絵』の他にもゴーゴリ原作の『鼻』も素晴らしい。 マクラレンも良いですね。アニメ祭などでプログラムに組まれるところからも人気の高さが窺えます。やはり彼の作品も軽やかな変容であったり、幻想的な雰囲気が魅力だと思います。特に『線と色の即興詩』は、古今東西ありとあらゆるアニメーションの中でBEST10には入るでしょう。 『夜の鳥』暗いですね…。でもこういう「暗い」作品は個人的に大好きです。繊細な動きと緊張感に、戦慄さえ覚えました。どうやらフランスのベルナール・パラシオスという方の作品のようです。アヌシー出身だそうです。『夜の鳥』は74年制作。どことなく不条理や怪異っぽいところはそのせいでしょうか。作者が分かってホッとする一方で、この作品は「作者不詳」と書かれていた方が不安で、逆に楽しめたかもしれません(笑) アニメと一言で言っても、こうした「アート・アニメーション」と日本のオタク社会における「アニメ」とは分けて論じられたりしますね。そこに何か「絶対的なもの」が分水嶺として存在しているのかと問われると難しいですが。(そういうものの存在を信じていられたのは20世紀まででしょう。) 出来れば今回のような有名な作品よりも、マイナーな作品を紹介していこうと思います。canadadry さんのコメント (2012/02/25) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] skさん、返信ありがとうございます。 またしてもレス遅れて本当に申し訳ありません。 >日常生活にありふれてしまっているが故に輝きを失ってしまい、映画というレンズを通すことで輝きを取り戻すことが出来る 新海監督が、日常の風景さえも美しく切り取りとるのはこのためだという発言をされていることを思い出しました。大成建設のCM制作のインタビューだったと思います。世界の圧倒的な風景美を描きながらも、すぐ身近にあるにも関わらず僕たちが簡単に見落としてしまっている美しさを再発見したい、とのことでした。そして、風景が救いになることもあるのではないだろうか、という発言をされていたのは『星を追う子ども』でのインタビューでした。http://www.hoshi-o-kodomo.jp/report_05.php >>島田荘司の「夏、19歳の肖像」 是非読もうと思います。僕が「秒速5センチメートル」を観て、まず思い出したのは村上春樹の『スプートニクの恋人』でした。 風景美とは関係ないですが、人と人の距離や言葉について考えさせられました。是非。またおまえか さんのコメント (2012/02/20) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] はじめましてcanadadry様。またおまえかと申します。「アート・アニメーション」に思わず反応してしまいました。 >「アニメをアニメ足らしめる最大の特質の1つはメタモルフォーゼ」 マンガの神様手塚治虫氏が、NHKのドキュメンタリーで、同じような事を熱く語っていたことを思い出しました。 自分は、とある「海外短編アニメ上映会」で初めて「アート・アニメ」に触れ、ものすごい衝撃を受けました。 なぜなら、その頃の自分はまだ「アニメ=萌えアニメ」という認識しか、持っていなかったからです。 後の人生には何の影響も及ぼさなかったのですが、その時確実に自分の脳味噌の厚みが増した気がしました。 自分が死ぬ前に見たいアニメNo.1は、その時の上映会で知ったアレクセイエフの「展覧会の絵」なのですが その後NHK-BSで「話の話」を見た時、ああこれは「展覧会の絵」見てなかったらNo.1だったなと思いました。 イシュ・パテル(だったと思う)はNHKで、非常に奥行ある美しいビーズアニメを見た記憶があります。 上記の作品は、どこかしらノーマン・マクラレン(大好きです)の諸短編を思わせますね。 アレクセイエフのは有名ですが、上映会で見てずっと探してた「夜の鳥」もよろしかったらご覧になってみて下さい。 (※かなり自分の趣味入ってます。かなり精神分析的に「暗い」作品ですので、その点ご留意ください) ―「展覧会の絵」アレクサンドル・アレクセイエフ(10分)http://youtu.be/kXbBB4pNPaI ―「夜の鳥」作者不詳(8分)http://youtu.be/OwZvn9qD7Uw それでは、これからも素晴らしい短編アニメの世界を堪能させてください。楽しみにしています。 (個人的には「Out of Sight」「Box Animation」「Bad News 」が良かったです) 非論客 プロバイダ: 37691 ホスト:37634 ブラウザ: 7804 canadadry様 たびたびのご返事ありがとうございます。 確かに社会性の回復うんぬんというのは導き出されるもので、主題で据えられたものでは無いですね。 つい巷間に溢れる「男の恋愛は『名前をつけて保存』女の恋愛は『上書き保存』」的な感想への反論を意識してしまいああ云った書き方になってしまいました。 確かにあの映画は「恋愛」が主軸なのですから。本末転倒です(笑) あの映画が多くの人の心を動かすのはcanadadry様のおっしゃる通り「人生における人と人の邂逅やすれ違い、触れ合うのは一瞬に過ぎないという心細さや寂寥といったくさぐさ」を多くの人が共感できるからでしょう。そして我々は日々意識的にしろ、無意識にしろ「届かない言葉」というのを伝えようとして生活しています。 そしてそれは日常生活にありふれてしまっているが故に輝きを失ってしまい、映画というレンズを通すことで輝きを取り戻すことが出来るのだと思います。 これは余談なのですが「秒速5センチメートル」を観終った時に一番最初に頭に浮んだのは島田荘司の「夏、19歳の肖像」という小説の冒頭の文でした。 「波間に照り返す夏の陽の、瞬時のきらめきにも似た青春の危うさ。しかし夕映え時の、時間にすれば一瞬にすぎぬその短い光を、人はなぜこうもはっきりと憶えているのだろう。その刻印は生涯消え去ることなく、折に触れて痛みも甦える。それはこの夏の陽が目を射る、強烈な痛みゆえにほかならない、そう私は思う」 「秒速5センチメートル」という映画をここまで深く分析している方とやり取りが出来てとても楽しかったです。twitterだと文字数の限界があり某巨大掲示板では中々議論というのは成立しませんから。 現在編集中の「秒速5センチメートル」の記事が投稿されるの楽しみにしています。 それではまた。 skcanadadry さんのコメント (2012/02/19) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] skさん、返信ありがとうございます。 レス遅れてすみません。ちょっと体調崩して臥せってました。 さて、本作が通常のラブストーリー、あるいはその変形としての「男の恋愛は『名前をつけて保存』女の恋愛は『上書き保存』」的な映画であるという見方は極めて皮相的であると思います。彼が追い求めていたものがもはや明里ではなかったということは確かでしょうし、明里に渡すはずであった手紙には、彼女との別れの決意が記されていたのだろうと推察されます。さらに、カナエは貴樹のことを忘れられないだろうということが語られていましたし、明里は第3話において他の男性と結婚することになったことが明かされますが、ふと電車の窓から外へと目をやる仕草、ふと空を眺めて物思いにふける様子がしばしば描写されます。これらを、男性的なロマンチシズムの押し付けとは思いません。恋愛が作品の軸に据えられてはいますが、それはストーリーの体裁を整えるために設えられたものに過ぎないでしょう。人生における人と人の邂逅やすれ違い、触れ合うのは一瞬に過ぎないという心細さや寂寥といったくさぐさこそ、本作が切り取った感情だと思います。人生を力強く歩んでいける人々には無縁のものでしょうか…。 >>貴樹が本当に喪失し執拗なまでに追い求めていたのは何だったのか? 正直に申し上げるなら、僕には分かりません。むしろ、彼自身にも分かってなかった、ということが本作の核心ではないかとも思います。彼はどこか「今現在」に生きていないというか、没入していないように思えました。思い出の中に生きるというよりも、むしろ思い出から逃げていたと言いますか。ただ闇雲に遠くへ行きたいという、始めから目的を欠いたものだったのではないでしょうか。社会からの断絶も、彼自身が自ら他人を拒絶し、孤独であり続けようとしていたからなのかもしれません。 根拠のない抽象的な感想のような話ばかりになってしまいましたが、この作品ってモノローグも多いし、絵から読み取れることも多いのですが、映像やイメージの折り重ねによって出来た作品だと思うのです。言葉(知)に還元され得ないこと、理解から零れてしまうくさぐさや無意識の流露のようなものを、美しいイメージの中に盛り込んでいるのだと思います。なんだか身も蓋も無い意見で申し訳ないのですが、言葉が多い割に言葉で表現され得ないものが映像によって語られている作品です。これは本作が映像作品としていかに見事であったかということの証左でしょう。 そうした意味において新海作品全般について、「届かない言葉」というモティーフを見て取れると思います。ノイズによって「好き」という言葉が届かなかった『ほしのこえ』、「好き」という気持ち自体を忘却してしまった『雲のむこう、約束の場所』。そして『秒速5センチメートル』では、明里も貴樹も手紙を渡すことが出来ず、カナエは「好き」と伝えられませんでした。人の感情や言葉が激しく湧出しようとする瞬間の美しさ。あるいは当て所もなく、儚く漂う不安定さ、頼りなさ。そうしたくさぐさを、雲であったり、ロケットやその白煙といった風景や、あるいは進路希望調査の紙飛行機などに仮託されているのではないかと思いました。 以前、新海氏が制作された信濃毎日新聞のCMですhttp://www.youtube.com/watch?v=_qvyCvi9mb0 社会性の回復というテーマは、このような文脈を経て作品の最後に控えめに提示されているように思えます。「再び人間社会の側へと回帰することを示唆」などと自分で書いておきながら言うのもアレですが、こうした側面から本作全体を真正面に語ることには少し戸惑いを感じてしまうのが正直なところです。テクスト的に貴樹を分析するならば、skさんの仰っていることに反対するような箇所は特にありません。しかし、そもそも明里との別れ以降の貴樹自身は何か明確な目的や目標を抱いている訳ではなかったのではないかと個人的には思います。彼自身がそのことをどれほど分かっていたのかは分かりませんが、第2話「コスモナウト」の時点ではすでに分かっていたと思います。 非論客 プロバイダ: 37691 ホスト:37634 ブラウザ: 7714 canadadry様 早速のお返事ありがとうございます。 やはり「背景分析」というものは理論・方法論として確立していませんでしたか。映画分析や評論などを読んでいると小道具や演出、背景をメタファーとして解釈し、映画全体へと還元してく手法(欧米の映画だとキリスト教図象学を用いる等ありますよね)をたまに見かけるので何か理論化されているのかと思っていたのですが、よくよく考えてみれば映画やアニメという個別的なものを一般化する理論というのは難しいものです。 canadadry様のおっしゃる通り実写映画などの映像理論などもう少しあたってみます。 またいくつかの参考サイトや文献ありがとうございます。特に柄谷行人の「日本近代文学の起源」は前々から読もうと考えていたのでこの機会にあたってみます。 ###### canadadry様のおっしゃる通りあの映画の大きなテーマは「断絶」でありそこからの回復であると思います。背景についてはおっしゃる通りであり、またあの映画で「現在」がクライマックスの踏切のシーンだけであり、残りは貴樹のモノローグによる回顧と花苗の視点からの語りであるのですが、それゆえに通常ラブストーリーでは無いことが逆説的ですが分かります。 もし分かりやすいラブストーリーにしたいのであれば、モノローグを観客に聞かせるという自己弁護的な構造などにせず、過去から現在までを貴樹と明里の目線で単純に観客に追体験させればいいのですから。 しかし貴樹の行動が他者や未来の自己から語られることによって、過去の出来事ゆえに決して取り戻せないという断絶感を観客に与えるのと同時に、貴樹は初恋を引きずり「男の恋愛は『名前をつけて保存』女の恋愛は『上書き保存』」的な映画との解釈を惹起させます。 そもそも私が今さら「秒速5センチメートル」を考えるきっかけとなったのもそうした批判的なレビューにありがちな、ボーイミーツガールのなれの果てをただリアルに描いた映画なのかと疑問に思ったからです。 つまり貴樹が本当に喪失し執拗なまでに追い求めていたのは何だったのか?ということです。仮に貴樹が喪失したモノが明里やそれに伴う初恋の衝動だとしたら、まさにボーイミーツガールのなれの果ての映画です。 しかし貴樹が喪失したものはそういったモノでは無いのではないかと私は思うのです。確かに貴樹はストーリー展開上明里を失いますし、第2話冒頭でも明里の幻想のようなものまで登場します。さらに第3話の「one more time one more chance」が流れる中のカットでも貴樹の目線の先のカットから、他の登場人物の女性がいる中でも、明里のカットへと移行します。 しかし貴樹は第1話のキスシーンの後「この先もずっと一緒にいることは出来ないとはっきりと分かった」と述べています。(その直後にそれは「氷解」したとも言っていますが)ここで貴樹は明里の存在とその関係の終焉の予期を通して「巨大すぎる人生や茫漠とした時間」といった「社会」を感じ取っており、そして今までの明里と貴樹だけの閉じた社会から、その開かれた巨大な社会へのコミットの必要性を自覚します。だからこそ第1話の最後で明里は貴樹に対し「この先も大丈夫だと思う」と伝えるのです。明里がその時点で貴樹と同じことを考えていたかは明言されていませんが、少なくとも二人の関係の終焉は予期していたはずです。 そして電車の中で貴樹は「彼女(明里)を守れるだけの力が欲しいと強く思った」と述べます。これは2人の閉じた社会を巨大な開かれた社会から守りたいとのことですが、もはや彼はそこから開かれた巨大な社会へと移行しなければならないことも自覚しています。 こうして第1話が終わるのですが、閉じた2人だけの社会と開かれた巨大な社会というアンビバレンツな事象へのコミットの方法を、第3話によれば彼はひたすら努力し高みを目指すというやり方で解決しようとします。しかし同時にその2つのアンビバレンツな社会へのコミットは彼に混乱をもたらします。明里を失い1人で社会との関係を作っていく。それを象徴的に表しているのが、中学時代の部活はチームプレーのサッカー部でしたが、第2高校では個人技である弓道部へと変わったことだと思います。また貴樹に好意を寄せる花苗に対して見向きもせず、貴樹のその眼差しはひたすら遠くにあります。第1話ではバランスの取れていた社会との関係性がやがてそのバランスを欠いていくのが第2話なのです。そもそも2人の閉じた社会を守りたいというのは明里の存在が前提であり、その関係の終焉も理解している以上、やがてその目標を欠いた努力は自己目的化され貴樹を混乱へと陥れます。そして同時にそれは貴樹を先の2つの社会からの断絶をもたらします。 そして第3話に移り貴樹は自身の努力が自己目的化していたことに気付くことにより、2人の閉じた社会を守るという目的を放棄し、断絶していた巨大な社会へと移行することを決意します。それを象徴的に表しているのがあの踏切のシーンなのでしょう。 こうして長々と書いてしまったのですが貴樹が喪失し断絶したモノは「社会」であり、明里はそのメタファーであり亡霊と言ってしまってもいいかもしれません。明里という存在は結局明里自身によって語られることは無く終わってしまいました。もし通常のラブストーリーであるなら第2話で明里の語りが入った方が、どういう結末になるにせよ物語としてのカタルシスは大きくなります。 背景、分断という話から脱線してしまいこんなにも長く書いてしまい申し訳ございません。なにかご意見ご批判頂ければ幸いです。 前のコメントと共にこちらのコメントも公開してかまいませんので宜しくお願い致します。 skcanadadry さんのコメント (2012/02/15) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] skさん、はじめまして。コメントありがとうございます。 とても懐かしい記事ですね。久々に読み返してみると、随分と適当なこと書いてしまったな、と猛省しています。また時間があれば書き直しておきます(現在、編集中)。まず最初に申し上げておかなければならないのは、「背景分析」という理論とか考え方がある訳ではありません(多分、無いと思います)。単純に背景の分析というだけの意味です。作品が作られた背景という意味ではなく、背景美術(あるいは音景)ですね。念のため。 >>過剰なまでに描き込まれた背景とそれ比べるとお粗末といっていいほどの人物描写との対比 たしかにこれが重要なポイントだと思います。浮いてますよね、人間だけ。孤立してるようにも見えます。 美しい風景の中に、しかしどうしても馴染めない人間達。世界と同化できない人間達。圧倒的な風景を前に、言葉を失う人間達。 アニメアニメしていないキャラデザが、しかし効果的だったのかもしれません。 >>ストーリーを追うよりも背景を追った方が本質を掴める その通りだと思います。新海氏は単なるストーリーテラーではないでしょうね。ただ『秒速5センチメートル』のみを分析するのでなく、新海誠氏の作品全般について読み解いていくことが必要であると思います。とりわけ代表作である『ほしのこえ』については、アニメ評論家をはじめとして多くの人が論文や記事を書いています。それらのテクストや新海氏のインタビューなどを参照するのが、おそらく最も有効なのではないかと思います。 新海作品において風景描写に注目した人物は多く、例えば有名なアニメ評論家である藤津亮太氏などが挙げられます。藤津氏は、柄谷行人氏の「風景の発見」と「内面の発見」という観点から批評を行っており、アニメーションを批評する理論ではなく日本近代文学を参照しています。このことについて色々と思うことはありますが、しかし新海氏の最新作『星を追う子ども』のインタビューにおいて、新海氏が大学で柄谷行人のテクストに感銘を受け、それがアニメーション表現に活かされている、ということが明かされています。 (こちら→ http://www.hoshi-o-kodomo.jp/report_01.php ) やや遠回りである気もしますが、柄谷行人氏のテクストや『ほしのこえ』の批評などに当たられてみてはどうでしょうか。文学理論をアニメ分析に用いるのは難しいようですが、新海氏自身が言及したことですし、参照する価値はあるのではないでしょうか。ただ僕は文学の専門ではないのでここで語るのはやめておきますが、外部のブログや掲示板などで藤津亮太氏の批評に言及なさっている方もおられるようですし、そういう方向で調べてみてはいかがでしょうか。skさんの意図にそぐわない返信になってしまったかもしれませんが、その点、申し訳ありません。単純に映像表現の技法や心理的効果などについての分析であれば、探せばいくらでもあるのではないでしょうか。実写映画の映像理論とか、あるいはアニメ監督も色々書いてるでしょうし。 **** 以下余談ですが、前の記事が古いですし、あれから少し考え方も変わったようにも思うので新海作品ついて数言。 新海氏の風景描写から僕が感じたものは断絶感でした。例えばジブリ作品も非常に緻密な風景描写ですが、新海作品の風景描写はジブリ作品のように温かくないように感じます。むしろ非常に冷たく、人を突き放すように立ちはだかっている。あまりに圧倒的に美しい風景ですが、人間はそこに到達できない。作品内ではいくつかの恋が描かれましたが、想いも届かなければ、言葉も届きませんでした。これらは新海作品において共通するモティーフとなっています。人と人との間に跨る断絶が、人と風景(あるいは世界)との断絶に仮託されて描かれているようにも思えますし、あるいは前者と後者の複雑な関係性を見て取ることも出来ると思います。いずれにしろ、新海作品では風景描写はもはや単なる背景ではないですね。 一方で、人と人のつながりや社会性の回復というテーマも描かれているように思われます。『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』では、非常に狭い人間関係しか登場しませんでしたが、それにも関わらずコミュニケーション不全が描かれました。前半の2作については、セカイ系とも言われていますがしかし、最終的には新しい世界に向けて旅立つこと、社会への参加というものが描かれていたのだと思います。 ゼロ年代初期は、エヴァを発端としてセカイ系作品が非常に流行りました。これは社会や歴史といった中間項無しに、世界と個人とが直接的につながっている作品であると説明されます。新海作品では世界の美しさがしばしば描かれ、しかしそれらが人間と世界との断絶を描いているのだとすれば、それはむしろセカイ系からの脱却を促すものであると言えます。したがって、セカイ系を解体し、再び人間社会の側へと回帰することを示唆しているのではないかと考えています。 **** ところで頂いたコメントですが、公開してもよろしいでしょうか? 非論客 プロバイダ: 37691 ホスト:37634 ブラウザ: 7714 はじめまして。skと申します。 以前canadadry様が「『秒速5センチメートル』 ミメーシスの先へ、人と風景の交流」として記事に書いていたことでお聞きしたいことがあったので不躾かつ場違いなのですが、コメントさせて頂きます。本来ならそちらの記事の方にコメントすべきなのでしょうが2010年と昔の記事だったので、場違いなのですが一番新しい記事であるこちらに投稿させて頂きます。その不躾お許しください。 さてお聞きしたい事を単刀直入に申しますと、先の記事でcanadadry様が「秒速5センチメートル」を分析するのに用いた「背景分析」に関する理論的背景というか参考文献は何かということです。 一応私もそれらしいキーワードで文献を探したりやインターネット検索をしてみたのですが、これといったものが引っかからなかったのでどういった書籍や人物の理論を用いたのかを教えて頂きたいのです。 私も「秒速5センチメートル」を観て心の中のざわめきを想起させられたありがちな人間の1人なのですが、そのざわめきの根源は何かとを考えるとあの過剰なまでに描き込まれた背景とそれ比べるとお粗末といっていいほどの人物描写との対比であると思います。あの平板なキャラデザインによって一般化を獲得し、そしてリアル以上のリアルである緻密な背景(リアルと言うよりむしろ幻想性と言ってもいいかもしれません)によって観客の映画の中への投入を促すのものであると思います。 あの映画を「初恋を引きずる男のセンチメンタルなモノローグ」というありがちな物語として切り捨てることも簡単なのですが、私にはそれは表層的なものでありもっと抽象的な「距離」や「分断」といった点から読み解いていくべきなのではないかと考えています。 canadadry様も記事で指摘している通り、この映画は状況を登場人物に物語らせるという通常のアニメの文脈をとっておらず、一枚一枚のカットに意味を持たせるという絵画的な手法を用いているのではないかと思います。 長々と書いてしまいましたが「秒速5センチメートル」という映画はストーリーを追うよりも背景を追った方が本質を掴めるのではないかという事です。ただ私にはその為のツールとしての「背景分析」の理論が無いのでそれを知りたくこのようなコメントを投稿してしまいました。 見当違いのことを書いているかもしれませんがご笑覧いただければ幸いです。 突然のコメント失礼致しました。canadadry さんのコメント (2012/01/29) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] herbaさん コメントありがとうございます。 終盤でモーション・ブラーっぽい映像効果が確認されますが、あれもビーズでやってるんでしょうかね。 そういえば少し前に、ハイゼンベルグの不確定性原理が破れた、なんてニュースでやってましたが、 解釈と観測を巡る問題系が依然として残っていますね、量子物理学って。herba さんのコメント (2012/01/26) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] 神のあやとり、か。言われてみれば(スルーしてしまった…) ビーズの粒度、光は波でありつつ粒子、と似たような。
3. 2011/11/30 「短編アニメ > 短編アニメ『赤い糸』」 [この書込みのみ表示 (記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け) ]拍手:1個 奥下和彦さんによる自主制作アニメです。ちなみにこの方、まだ26才だそうです。VIDEO かなり素晴らしい出来じゃないでしょうか。 たしかに古典的な手法かもしれないけど、完成度はかなり高いです。 有為転変と続いていく、人との出会いと別れ、人から人へ、人と人とのつながり…。 なんだかすごく温かい気持ちになれます。 特に今年は、こうしたテーマは切実なものとなっているように思う。
canadadry さんのコメント (2011/12/01) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] 白うにさん コメントありがとうございます。 良いですよね。短編アニメの世界の豊饒さが伝わる作品の1つだと思います。白うに さんのコメント (2011/12/01) [編集 /削除 (書込み者/所有者が可能)] いいですねえ 思わず見入ってしまいました。
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