[asukaの闇沼]
動物たち、人間たち
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1. 2009/01/12 「動物たち、人間たち」 分類: 体験談
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9歳のとき、母親に斉藤惇夫氏の「冒険者たち」を読むように薦められた。                 
                
小さな命の尊さをわからせるという情操教育だったと思う。              
                    
わたしは本を読むのが嫌いな子供だった。                   
                
本は内省させる。                   
               
本は感じさせる。

本は考えさせる。

わたしのタブー領域に触れる。

わたしは、人間でも生物でもない機械なのだから、親に機械だと思われているのだから、

考えたり感じたりしたら、親に逆らうことになるのだから、機械のようでいなければならなかった。

本なんか読みたくなかった。

機械は本なんか読まない。



わたしは母の要求をはねつけた。

母は、いい本だから読みなさい、一度騙されたと思ってと、感動するからと、執拗に勧めた。

わたしは感動なんかしたくなかった。

毎日、毎時間、毎分、毎秒、感動しないように、何も感じないように、何も考えないように、びくびくしていた。

親に逆らわないために、一秒たりとも自分を人間だとか、生物だとか思わないように、

何も考えないよう、何も感じないよう、秒刻みで戦々恐々と、機械であるのに必死だった。



でもその母の命令なので、私は「冒険者たち」を読んだ。

感動して泣いた。

母の言うとおり感動したと。

あまりに感動し、あまりに母の言う通りなので、「冒険者たち」の主人公、

ガンバにみたててネズミを飼うことにした。

げっ歯類なら何でもよかったのだけど、ネズミは害獣なので、ハムスターで妥協することにした。

わたしはそのときの級友チヒロにも、母と同じように「冒険者たち」をすすめ、感動しろと迫った。

とても感動したから、小さな生き物の命を大事にする精神で、ガンバに見立てた小動物を飼おう。

彼女を私のストーリーに巻き込み、彼女と二人でお年玉の残りを出し合い、

二匹のハムスターをペットショップで購入した。




初めてペットを飼うという、親の了承のない背信行為に、罪悪感を感じた。

なんであれ、わたしが親の命令でないこと以外のことをしたら、

誰が私の主人かわからせるために、親に目にものをみせられる。

だから親には内緒で飼うことにした。

でももしばれても、お母さんが薦めてくれた物語に感動したから、

だからその影響なのだと言い訳して、うまくまこうと画策した。



わたしは、お小遣いをもらっていなかったので、一年をお年玉でやりくりしていたので、

出費には細心の注意を払っていた。

そのころはまだハムスターブームが来る前で、一匹500円か1000円くらいだった。

親への背信感覚と、今まで経験したことのない、命を購うという行為に、

やましいような、どきどきしていたわたしは、

ひとつの命がたかだか、500円なのかと拍子抜けした。

これが猫、犬ならそうはいかないのだろう、

体の大きさに応じて、命の値段は変わるのだろう、

これだけの大きさしかない命だから、

これだけの値段の命なのだろう、と思った。



わたしは親の目を盗んでペットを手に入れた高揚と、

そんなに興奮する程度でもない数百円の命という落差に、なんだかがっかりした。

親に背くような大それたことをしている、でもそれは親が私にしてくれたことに、

いかにわたしが感動しいい影響を与えられたか、いかに親が正しく崇高で尊いか、

を証明するための行動なのだ、と、

もし親にばれても、自分を貶めながら親に賛美的な言い訳をすることで、

かえってほめられるかもしれない、という興奮が一気に冷め、早くも飽き感がした。

住む場所をどうしよう、ケージは、というピクニックの予定を立てるような、

わくわくした気持ちも冷め、とりあえず彼女の家にあった、

プラスチックの虫かごの中にハムスターを閉じ込めることにした。




わたしが初めて触った、別種の生き物の命、500円分の命。

あたたかくて、もこもこして、くるくるしていた。

わたしと彼女は、子供が動物と関わる際の典型的な反応、

「わあ、かわいー。」を連発し、スキンシップをとりまくった。

わたしも、「わぁ、かわいー」を連発していたが、

自分がそれを、かわいいと思っているかはわからなかった。

それよりも、げっ歯類らしく、じっとしておらず、常にせわしなく、

くるくる動く様が、気に触りさえした。

これでは始終どこかに勝手にいかないように捕まえておかなければならず、

「小動物の命を尊く愛好する、高邁で愛らしい子供の図」がぶち壊しだ。

そろそろ夕暮れてきたので帰ろうと、ハムスターを虫かごに戻した。

ハムスターの虫かごは、彼女の家と、私の家との中間ほどにある、空き地の茂みの中に隠すことにした。

一匹の500円分の命は、私と彼女の共有財産なのだ。




私と彼女は毎日、学校帰りにハムスターとスキンシップした。

なんだかそのわたしたちの姿は、よくそこらへんの薄暗い雑木の中に捨ててある、エロ本みたいに、

後ろ暗いものに思えた。

薄暗い雑木に、人目に隠れて捨ててある、エロ本みたいな、

あるいはそこで人目に隠れて、エロ本でマスターベーションする、誰かみたいな、

何か後ろ暗い陰があるように思えた。

ハムスターは、虫かごのプラスチックの壁の中を空しく彷徨って、うろうろしていた。

わたしたちはエサのひまわりのたねも購入し、

ハムスターの頭の上からひまわりの種をぱらぱら降らせた。

季節は冬で、雨が降ろうが、雪が降ろうが、霙が降ろうが、

ハムスターは虫かごに閉じ込められ、野ざらしにされていた。

わたしは、寒い屋外でのスキンシップが億劫になっており、時々様子を見る以外、そこにいくのが間遠になった。

エサやりや掃除をさぼった。




年末だったか、田舎に帰省したため、一週間以上もハムスターの虫かごに行かなかった。

彼女のほうは、私よりもハムスターの様子を見ていたらしく、

それを伝えてきたのは彼女だった。

ハムスターが死んでいるという。



霙交じりの雪が降る日急いで行くと、虫かごの中は、ハムスターの命の体温だったのか、

まだ温かかった呼気だったのか、内側から細かい水滴がつき、雲っていた。

曇ったケースを通して、ハムスターの体の茶色と白の小さな塊がぼやけて覗いていた。

なんだか私にはそのことが、わたしへのハムスターの弾劾に見えた。

ハムスターの命を蒸発させたことへの、暖かな命の呼気を冷たく結露させたことへの、

声のないハムスターの、最初で最後の、蒸気のような、弾劾に思えた。

曇りを通してハムスターの茶色と白の毛玉が縮こまっているのがぼやけて見える。

あれほど騒がしく動き回っていた体は厳かなほど静かに、じっとして動かない。

死は厳かなものなのだ。



おそるおそる虫かごを開けてみると、外的から身を守るように四肢を縮め、

団子虫のようにこちらに背中を向け、丸まっている、茶色い背中が見えた。

よくハムスターが眠る際にとる格好で、彼女の服の中や、私の手の平の中で暖をとり、

眠りについて丸まる姿勢だった。

でも今は、どこにも暖のない、暖の奪われた虫かごの中で、

眠っているわけでもないのに、眠っているのと同じ格好で、

永遠に目覚める機会を奪われて、目覚めるために眠る機会も奪われて、

一切の活動的生の機会を奪われて、ただ、死んでいる。



私はなんだかその雰囲気に怯えた。

どれほど騒がしく暴れるハムスターよりも、厳然としたなにか、

もっと雄弁で、もっと声高ななにかが、その背中から、暗黙に発せられているような気がした。

すべてへの拒絶、という、静止と沈黙での、わたしへの告発を。




虫かごの中は、雨と雪が入り込んで、びしょぬれだった。

ほとんど飼育放棄だったから、糞尿まみれかもしれないと思ったけど、

どういうわけか、そうした汚れはなかった。

餌があまりに供給されないため、出るべきものも出なかったのかもしれないと思った。



敷き詰めた白いティッシュが、泡だったホイップのように、ハムスターの周りで波打っていた。

ひまわりの種の殻のかけらが、申し訳程度に、ぱらぱら散らばっていた。

実の入った種はひとつもなかった。

サテンのようだったハムスターの毛並みも、塗れてはりついて、ハムスターは一回り小さくなっていた。

そっと、厳かなまでに持ち上げると、すべてに抵抗するような、硬い反発を感じた。

死後硬直を起こして固まっていた。

死に顔は、ネズミらしい、苦悶に満ちた表情。

わたしは動物界で、死に顔が一番苦しそうなのはネズミが一番なのではないかと思う。



わたしは、ハムスターが死んでいることを認めた。

名前もろくに定めず、今、死んでいるそれの名前を呼んだことは一度もなかった。

まるで、生きているうちから、生きていることを否定したように。

わたしによって、否定されたように。




彼女は、私より動揺していた。

彼女は泣いていた。

泣くという情緒は、わたしにはなかった。

泣いてみようと思ったけど、うまくいかなかった。

これはすべて、いかに親が正しいかを証明する、虚構の舞台設定でしかなかった。

彼女は自分の親に知らせたという。

わたしはそのことのほうに、死んだハムスターを手に持ったまま、血の気が引いた。

余計なことをした彼女を殴ってやりたかった。



冷たくなったハムスターに、彼女は自分の体温を移そうとして、抱きしめ、なでた。

わたしは、その物体の意味が、わからなくなってきていた。

意味のわからない不気味なものに見えてきていた。

私も彼女の真似をして、別れを惜しむようになでた。

このハムスターが、私に別れを惜しまれて、喜ぶとは思えなかった。

私たちは別れを済ませ、ハムスターを土に埋めた。

彼女と私は墓前に手をあわせた。



その後、あるテレビ番組で、ハムスターも気温が低下すると冬眠することを知った。

だとしたらあれは、餓死、もしくは凍死ではなく、

ただの冬眠だったのかもしれない、

わたしはハムスターを殺しはしなかったのかもしれない、

と、都合良く考えることがある。

でも、だとしたら、冬眠しているだけのハムスターを、

わたしは、今度こそ土に生き埋めして、窒息死させたのだろうと思う。



この一件が、彼女の親からわたしの親にばれた。

他人を介したからか、親の反応は時々そうなるように生気のないほど薄く、

飼いたかったら親に言って家で飼いなさいとだけいった。

私はハムスターを飼う事に親の容認を得たことに喜んだけど、

この一件で、自重としての気分もあり、もうほとんどハムスターを飼う気にはならなくなっていた。




その後、母が、自費でハムスターを買ってきた。

わたしが動物の小さな命に関心を持ち始めたと思ったのかもしれない。

母の「冒険者たち」の推奨のおかげで。

わたしの暗示的なパフォーマンスが母に伝わり、

ここでこうして、私にあだとなってふりかかっている。



母は嬉々として、ケージ、水飲み、ねずみがまわす車、ハムスターの飼育に必要なひとそろいを買って来た。

これほど準備万端なら、今度はハムスターを殺さなくてもよくなるかもしれないとわたしはどこかで思った。

同時に、わたしが、この家が、何か、命を生み、育めるとは思えない、とも思った。

この家で、自分がいるだけでも限界なのに、さらにこの家から、

私以外の生き物を守り、育てる余裕などない。

母はわたしの責任で飼育するように申し付ける。



最初は興味本位で、このハムスターは親のものでもあるだろう。

親がハムスターの関心を離れ、飽き、わたしひとりの責任でまかされるとき、

このハムスターは、わたしの同類、わたしの仲間として押し付けられるということだ。

わたしの仲間、わたしの同類、親の敵。



親の敵のように親から憎まれ、

虫かごに閉じ込められているような孤立無援の状況に、

このハムスターもわたしと同じように、閉じ込められるのだ。

親の興味を引きとどめられず、親の関心を離れ、わたしひとり、子供ひとりの、

自己責任で、とは、

子供が持たず、親だけが持っている生活力のパイプラインから、

拒絶され孤立化すること、それが自己責任で、自立する、ということなのだから。



今後、ハムスターが、怪我をしても、病気になっても、餓えても、死にかけても、

何があっても、親に知られてはならない、助けを求めてはならない。

感情、思考、自己、存在を、表現してはならない、わたしが、そうあるように。

それが、他者の存在を認めない、自分の存在だけを世界に認めて生きる、

自己責任、自立する、ということなのだ。

わたしと、ハムスターは、同じひとつの虫かごに、閉じ込められたのだ。

私自身が檻の中にいるのに、

どうして、もうひとつ、別の檻の中にいる動物の世話をすることができるだろう。




案の定、最初は、物珍しさから、ハムスターを弄って遊んでいた親の手元にいるときは、

ほとんど親の管理下で餌やりや水やりをしていたのだけど、飽きられて親の手元を離れると、

臭いから、汚いから、家が汚れるから、という理由で、

ハムスターの檻は犬小屋みたいに、家の外、玄関の脇に置かれることになった。

私がよく、汚いからという理由で、玄関から締め出され、家を追い出されたように。



親の関心が見離したハムスターをかまうことは、

親の意識に逆らうことになるのではないかという防衛感情がわたしに湧く。

それは、汚くて臭いから、家主である親に家を追い出されて当然の子供、

わたしと、同じ立場なのだ。

汚く、図々しく、他者の世話を要求するろくでなしのわたしが、

家から追い出し、閉め出し、憎まれ、親の現実から抹殺されて、当然であるように、

わたしと同じ立場になったハムスターを、わたしが可愛がり、世話を焼くことは、

暗に、親の意識に、反逆している気がする。

わたしも、わたしをそうする親と同じように、わたしであるハムスターを見放し、

苛め、殺さなければならないような気がする。



それを親に期待され、待たれ、見張られているような気がする。

これは、テストのような気がする。

いかに親の意識が作る現実に従えるか、

いかにわたしが勝手に自分の意識で作りあげた現実に従って単独行動を起こし、

親の現実に従わなくなり、親を裏切らないかの。



わたしは、ひたすら親の意識に抵触する、

親が作る現実のルールだけからはブレないように、一切から心を閉ざす。

ハムスターをかわいがるのは便宜上、

それが、「幸せで何も問題のない普通の家庭」の「幸せで何の問題もない普通のこども」がする行動だから。

ハムスターへの好意が親の現実のルールを上回ってはならない。

親に気を使う以上に、ハムスターを大事にしてはならない。

親の機嫌に抵触した場合は、即刻、ハムスターの命を絶つ必要がある。

即刻、ハムスターの命を絶つことに躊躇しないほどの、

自分のハムスターへの執着を絶つことに躊躇しないほどの、

親への恭順の意思を示す必要がある。




最初は、親の歓心をかうための、定型的な「小動物を愛する愛らしい子供」らしく、

「わあかわいいー」を棒読みで連発し、ハムスターと遊ぶというより弄っていた、

知的障害の姉も、そんな空気を察したのか、親の感心がハムスターから離れると同時に、

「親の敵は自分の敵」とばかりに関心をなくし、

檻から出して遊ばせているハムスターが、自分の膝元でうろうろしていても、

注意を払わなくなる。

ハムスターが勝手にどこかへ行ってしまうので姉には任せていられなくなる。

姉は、自分で皮を剥く自分の指先に、自分の指先の痛みに、自分の指先の血に、

自分の血の味に没頭し始める。

兄はこのイベントに、皮肉めいた雰囲気を漂わせて、距離を置いている。




ハムスターの存在を知っているのは世界でわたしだけという状況のような気がする。

だれもそこにいてほしがっていない、誰もそれに生きてほしがっていない、

幻のような、影のようなハムスターの世話を焼く役目は、

誰の相手にもされなくなった、ハムスターの相手をするのは、

誰にも相手をされないわたししかいないと、家族に見下されている気がする。



わたしはハムスターの餌やりを怠る。

掃除を怠る。

水遣りを怠る。

ハムスターは、たまに与えられる餌に、目の色を変えて飛びつく。

糞尿まみれになる。

親の言うように、汚く臭い、家を汚すものになっていく。

一度、母が与えた、人間の食事のあまりもの、

野菜の切れ端を与えたのに、ハムスターがっついているのにわたしが誤って手を触れると、

エサを取られると勘違いしたハムスターに猛然と攻撃され、すごい勢いで噛み付かれた。




つがいで買ったので、ハムスターは子供を生む。

10個ほどの、ぴくぴくうごめく、小指の先ほどの赤い肉塊だった。

気持ち悪かった。

子供が生まれるという余興に、親の関心はまたハムスターに向く。

わたしは、ハムスターを世話する許可を、親から向けられた関心によって得たように感じ、

こまめに世話をするようになる。

子供は成長して、何匹もの小型のハムスターの形になる。

今度は親に飽きられているどころか、

「このまま成長したらどうするの」と、

親の厄介に、荷物になり始めているのを感じる。

不安がもたげる。

いっそ、と思う。




夏休み、年末、いつも、一、二週間、休みいっぱい田舎に帰省する。

そのときハムスターは置いていかれる。

車が臭く汚くなるから。



父が大型の水槽を引っ張り出してくる。

ほかにもアルミのお菓子の空き容器のようなものを探し出してくる。

ハムスターの檻、空容器、大型水槽に、増殖したハムスターをべつべつに別居させる。

共食いしないようにするため。



母は子供と接触しないため、

わたしと父でハムスターが共食いしないための準備をする。

多めに餌を与える。

「この程度でいいんじゃねえか。」 父が言う。

父がいいというなら、それはそれでいいのだ。

それでよくなければいけないのだ。

わたしはただ、父の意見の絶対的な賛同者として、いつもそこにいるだけだ。

それがわたしの役割だから。



檻の中の親ハムスターには、餌容器いっぱいのひまわりの種とビスケット。

アルミの空き容器にいれた子供たちのほうにもひまわりの種とビスケットと果物をいれ、

蓋を閉める。

高さ30センチ幅50センチくらいもある大型の空水槽に入れたのは、

親指二つ分くらいにまで成長した、2匹のきょうだいハムスター。



父はなぜか嬉しそうに、今までになくハムスターに関心を向ける。

わたしは内心、父にどこかにいってほしい。

わたしの不在中にハムスターの身に起きることは、私の責任になるのだから、

今にはない時間と、わたしの不在の中にある責任を、

今、ここで、負うために、ハムスターの管理を、

わたしの考えと行動に、今ここで、一任してほしい。

父とわたしが何かを一緒にやるということは、

私がわたしの意志と、感情と、思考と、決定権と、選択を放棄して、

すべての決定を、父に譲渡するということだから。




新聞紙を敷き詰めた殺風景な水槽の中を、かさかさ音を立てながら、

不毛にくるくる歩き回る2匹の子供ハムスターを、

父はなぜか、妙に嬉しそうににやけながら水槽の上から覗き込み、

「お別れだから、奮発して、チーズでもやりゃどうだ」。

チーズを投げ入れる。

2匹は今まで見たこともないような食べ物へのがっつきを見せる。

わたしは、ああやはりねずみだからチーズが好きなんだなと、妙に腑に落ちる。

夢中でチーズをほおばり始めたハムスターを見届けて、

何かやり遂げたように、わたしと父は、家を後にする。

親ハムスターの檻は家の外、玄関の脇に、

子供たちの空き容器と水槽は、家の中に。




長野から帰省すると、真っ先に親ハムスターの檻に駆け寄る。

檻を覗き込んで、わたしは一瞬、自分が見ているものを言語化できない空白に向き合う。

次の瞬間、総毛立つ。

後ろ足で立ちながら、おやハムスターが両手で抱えながら食べている、

つぶしたイチゴのように、不自然なくらい真っ赤なもの。



家族が留守中に、再び生んだ子供を、餌がなくなって飢えた親ハムスターが食べていた。

軟骨を噛み砕くような、薄いセロファンをへし折るような、

ぺきぺきぺちゃぺちゃという音が甲高く響いていた。

親ハムスターは、2週間ぶりに帰ってきて、檻を覗き込んでいるわたしを、

自分が生んだばかりの赤い子供を食べて、さらに赤くしながら、見つめかえした。

ひと時も食べる口を休めることなく、一心不乱といってもいいくらいの勢いで租借しながら、

にらむように、告発するように。



わたしは大声を上げてケージを開けて、親の口から、ひき肉状の肉塊になっている子供を取り上げようとした。

親は食べ物を奪われるのに抵抗した。

取り上げようとするわたしの手を体でさえぎって、自分の手でかいこんで、

食べ物を奪われる前に、一心不乱に子供の肉を噛み砕いて、必死に飲み込んだ。

わたしは一瞬、それが、

子供と自分のどちらかが生き残らなければならない選択に追い込まれたとき、

自分が生き残ることを決断した親の、子供への弔いのために、

自分の罪を噛み砕き飲み込む行為、

子供を、自分の一部にすることで生きさせようとする、

親の必死の贖罪行為のための抵抗に思えて、たじろいだ。



わたしは一瞬、自分の手が、

子供を食事する選択を下した親の、

唯一の贖罪行為を取り上げるという罪深いことをするようで、

親の口元から子供の肉片を取り上げようとする手をためらった。

また、わたしは一瞬後、それはただ単に、ハムスターの、

唯一の食料を奪われまいとする、動物本能でしかないと思い直した。



親は、わたしの手に食料を取り上げられることに激しく抵抗しながら、

子供の肉を完全に食べ終えて、飲み込んだ。

いまさら、肉片となったこどもを取り戻しても仕方ない、

わたしはなすすべなくそれを見つめながら、とりあえず、

まだ生きている生まれたばかりの子供を親から非難させた。

親は、飢えたぎらぎらした目で、次の獲物を物色しているように見えたから。

わたしに、親ハムスターを非難し、子供ハムスターを救う資格など、あるわけがない。

その状況を作り、許したのは私なのだから。

とりあえず親には餌を与えた。

家の中の子供の様子を見に行った。



お菓子の空き容器の蓋を開けると、こちらも、共食いをしていた。

子供は大きくなっていたため、サバンナ状態のような、

死体の有様が無残なことになっていた。

腹をかっさばかれ、はらわたを剥き出しにされた死体が仰向けに、ごろごろ転がっていた。

その脇に、かすかすになって干からびた、

茶色く変色した果物の成れの果てと思えるものが転がっていた。

5、6匹いたうちの、2匹ほどしか残っていなかった。

今まで真っ暗闇の中にいたためか、役目をなくした目を諦観したように瞑りながら、

こちらもやはり、必死なほどの勢いで、きょうだいの肉を貪っていた。




あの親ハムスターの妙な、自分のしていることがなんであれ、

相手が誰であれ、客観者、部外者に邪魔され、環境を変えられまいとする、

自分を貫こうとするような、没我的な依怙地さは、こちらの子供にはなかった。

親のように、

きょうだいの肉をわたしに盗られまいとする行動もなく、

むしろ自分から進んで兄弟の死体から離れて、わたしのほうに寄ってきた。

子供の、この環境が変わることを望んでいた期待と一致する事態を歓迎してのことだろう。

だとしたら、あの、事態を変えるわたしの存在を歓迎しない、

むしろ、告発する目つきをしてわたしを撥ね付けた、

親の心理はいったいどういうものだったのだろう、という思いが過ぎった。



あらためて親の様子を見に行くと、わたしが与えたひまわりの種や餌用ビスケットを、

子供を食べていたときと同じ、一心不乱さで食べていた。

脇に転がって啼いている子供のことも、自分が食べているものが何かも、

念頭にないように。

だとしたら、あの、憑かれたように子供を食べる姿が、

何か決意的なもの、意思的なものに見えたのは、わたしの錯誤で、

ただ飢餓感からきた、やはり動物本能的なものだったのだろうと思った。

ただ、わたしの存在を拒み通すようにケージの奥にうずくまって、

一心不乱にビスケットを食べるハムスターの硬い背中が、

子供を食べることになろうが、ビスケットを食べていようが、

わたしがいようが、いまいが、ここにいる限り、どちらも同じことなのだと、

慣れ、適応していかなければならないだけのことなのだと、

諦めきった悲愴な決意を感じさせるようなのが、

わたしの気のせいなのかは、わからなかった。




この修羅場で半ば忘れていた、残りの二匹が入れられていた、もう一つのハムスターの巣を思い出し、

おそるおそる水槽のほうへ様子を見に行った。

ぐちゃぐちゃの赤い肉塊、造詣を破壊された体、そんなものを予想しながら水槽の中をのぞきこむと、

そこには、一瞬、敷き詰められた灰色の新聞紙の乾いた海の中に、淡い色のハムスターの姿を見失った。



一瞬逃げたかと期待して、目を凝らすと、すみっこに、

小さい棒状のウンチのように転がっている2匹の死体があった。

どこも欠けていない、破損していない。

共食いはしなかった。

不思議に思って一匹の死体をもちあげてみて、ぎょっとした。



苦悶の表情で目を瞑っている顔。

わたしと父が分かれの手向けに奮発して置いていった、食べかけのチーズの欠片、

小指のつめの先ほどの大きさになったそれを、

執念さえ感じられるほどしっかりと、片手で握り締めていた。

その死にざまに自分がしたことのだいそれたことを思い知らされるようだった。

もう一匹はとくにダイイングメッセージ風のものを手にもつこともなく、

行き倒れたように、前のめりに倒れたようになってうつむけで死んでいたのでほっとした。



親も、他の子供たちも、共食いをするほど飢餓ていたのに、

どうして水槽の中に入れていた彼らだけは、食べ残しのチーズを大事そうに抱えたまま、

共食いをするのではなく死んだのだろうと不思議に思った。

ふと思い当たったのは、わたしと父は、この空っぽの、

水のない水槽に閉じ込めた二匹に、餌をやりはしても、一滴の水も与えないままだった。

命には水が必要だということを、父と私は、知らなかったのだ。

父とわたしは、命のことを知らないから。




飢えよりも2匹は、水のない水槽の中で、水に渇えて死んだのだろう。

だとしたら飢餓感を覚えるより、もっと早く、

共食いをする、食べるという本能よりもっと先に、水に渇えて死んだのだろう。

だからチーズを食べ残したまま。

チーズだからなおさら水に渇いて、死んだのだろう。

けれど唯一の生命線であるチーズを、無邪気に一生懸命手放さずに。

チーズはねずみの一番の好物だから。

小さいハムスターの、小さい手の中の、小さな歯で、小さくかじりとられて、

ちっぽけになったチーズは、からからに干からびていた。




わたしたち家族は、ハムスターの共食いという久しぶりの話題を見つけて、大騒ぎだった。

姉はあからさまに「いやあ、いやあ」といいながらきゃあきゃあはしゃいだ。

父も母もイベント的な余興のようにはしゃぎ気味だった。

このころから家族と別行動をするようになっていた兄は自室に引きこもって何の反応も起こさなかった。

わたしたちはマンションの庭に死んだ子供たちを埋めて木切れの墓標を作り手を合わせた。



そのとき生まれた子供たちも、その後に生まれた子供たちも、

栄養不良かストレスなのか、年々小さくなり、生まれたそばから死んでいき、

あるいは親兄弟に共食いされ、とうとう一匹も生き延びなかった。

そのうち彼らが共食いすることにも慣れ、

またやってる、後始末をしなけらばならないのが面倒、だけを考えるようになった。

そのとき生き残ったハムスターも、親も、みんな、結局、死に絶えた。

ガラスケージの中で鑑賞され、こちらに何も干渉せず、こちら側から干渉されない、

わたしたち家族にとって、動いて遊べる人形以外の意味を持たないまま、

檻の枠組み以上に育つことも、産み増やすこともなく、飢え、渇き、糞尿まみれになり、

共食いし合いながら、死に絶えた。



その後何度も、まるで壊れたおもちゃを買い換えるようにハムスターのつがいを買うことになるけど、

結局彼らはみんな、檻の中に限定された生命を檻の枠組み以上に飛翔させることなく死ぬ。

マンションの庭には、わたしたち家族が購い閉じ込めた檻の中から、

ついに飛翔できなかった、小動物たちの死体が、最期までその生命を封印されるように、

わたしたちの手によって、累々と土中に埋められた。




わたしたちが可愛がっていたのは、自分の思い通りになる命だったのだ。

だから、可愛がる振りをして、握りつぶし、つつきまわし、放り投げ、弄んだのだろう。

自分の手のひらの上に乗る命を、自分の手が思い通りに左右できる、

支配欲と優越感だけが満たされていた。

飼育するふりをして、殺していた。

相手にはなくて自分にはある力を感じて優越の恍惚感を感じるために。

親が、人間の本質が、そうしていたように。

だけど、彼らは確かに、わたしの中の空白を、何かで埋める存在だった。



人間が、単純な命以上の欲や思惑で強権を働かせ、分け前を溜め込むのと違い、

食欲、排泄、住環境、まっとうな基本的人権以外の何ものも必要としない、

ただ単純に生きることに必死の命を見ていると、物珍しさという他者への関心を呼びおこされ、

何かうらやましく、見ているだけで飽きない。

ただ生きるだけのことにまっすぐで、ただ生きること以上を欲する人間に目をつけられ、命を切り売りされる。

ただ生きる以上を欲する人間の欲望の杯に注がれる贖罪の血。

彼ら動物はわたしにとって、人間よりは愛しかった。

彼らの温もりは人間よりはリアルだった。



お互いの存在を否定し合い、お互いの音を消音しあう静まり返る家の中で、

家族の誰かが、微かにでも物音を立てたると心臓がつねられるように慄き、

お互いの虫食まれた神経に疼く痛みを引き起こすのに、

ハムスターが檻の中を忙しなくくるくるかさかさ動いている物音を聞くのは、

誰の命も否定しない、自分の命も否定しない、ただまっすぐに生きる命の確かさを感じさせる音で、

胎音を聞くような安心感とリアルの存在の温もりがあった。




わたしの家族の中で、戦士し斃れた死屍累々のハムスターのうえに、

何代目かのハムスターのつがいを購入したとき、

わたしはそこに、今までついぞ認めたことのないもの、ハムスターの個性のようなものを感じた。

あるいは、感じたいと思ったのかもしれない。

こちらから一方的に干渉するだけのお人形では物足りなくなり、

相互干渉する他者としてのお人形がほしくなったのかもしれない。



そのころには、親の関心は完全にこの話題から離れ、慣れ、わたしが買ってくるハムスターは、

わたしが唯一持つことのできた一人遊びの道具に等しかった。

そこで自分だけの世界を醸成できたのかもしれない。

まったく親の関心を離れ、そのために親の「こうしなければならない」のない、

わたしだけが見届けわたしだけのやり方で運営する現実、

親のやりかた感じ方考え方でものごとを進めなければならない、他者のリアルではない、

わたしだけのリアル、わたしのリアルだという。

わたしはそのとき初めてハムスターの存在に心を開いて、

自分なりに感じ考え主体的に関心を持ったのかもしれない。

親の感じ方考え方ではなく、自分なりのだから、親に反逆することになるから、

こっそりとばれないように、密かに、わたしはそのハムスターに心を開いた。




彼らは子供を産んだ。

わたしはそのとき、初めて驚嘆した。



数百円で買える命、だから、数百円分の価値しかない命、でしかなかったものが、

どこからも、何によって購うこともなく、値段のない命を産むという驚嘆、

値段のつけられない命のあることの驚嘆。

命は人間が世界に付けた価値値段を超えた以上のところから生まれてくる発見の驚嘆。

わたしは初めて親ハムスターに畏敬の念を覚えた。

親ハムスターはわたしの感動とは無縁に餌をあさっていた。

その無頓着な命の創造行為にすら感動した。



それでも親の下敷きになって死んだり、親が共食いしたり、

不十分な世話のための栄養不良で子供は次々に死んでいき、

やっと親指くらいの大きさになった子供が、2匹だけ生き残った。

日々体毛が濃くなり、大きくなっていく。

金銭に購われることなく、命はパン種のように、未来に向かって膨らんでいく。

命が尊いのは、命が「今」だけではなく、

今にはない、これから起こりうる未来の可能性を開くものだからかもしれない。



命は、前に進みはしても、後ろに戻ることはない。

それが、命が生きるということ、命が本来的に望むことなのだ。

だから、前に進もうとする命を断ち切ることは、罪なのかもしれない。

命を奪うことそれ自体が罪なのではなく、

生きようとする命の、「自由な意思」を奪うことが、罪になるのかもしれないと思った。

わたしがやっていたこと、私の家族がしていたこと、

わたしたち、人間たちがしたかったことは、いつも自由な意思の殺害、

自由のコントロールだったのだと思う。




だからこの二匹は、わたしにとって特別だった。

メスと思える、母親譲りの、茶色と白のぶちの小さいのと、

オスと思える、一回り大きい、父親譲りの薄茶色一色の大きいの。

二匹とも、今までのハムスターにない人懐こさがあり、

今まで多くのハムスターを毒牙にかけてきたわたしの手中に、

無抵抗に身をゆだねる弱々しさ、生命力のなさが、かえってわたしは不安だった。

人懐こいというより大人しく弱々しく、あるところから大きくならないようなのが気になった。

体毛も薄く線が細くガラス細工のように今にも壊れてしまいそうに繊細そうなのが心細かった。

わたしは親に食べられないように、2匹の兄妹ハムスターを、

以前共食いしたきょうだいハムスターを入れていたアルミのお菓子の空き容器にかくまった。




小学5生のとき、学校から帰ると、真っ先にハムスターのかごの前に行く。

玄関脇の、打ち捨てられた犬小屋のようにうらびれ、

さびれるままに放置されている、檻の中に閉じ込められた命を、わたしは覗き込む。

学校帰りにひきむしってきた猫じゃらしの柄の部分で、

団子虫のように丸まって眠り、

暇さえあれば眠り、わたしを否定し、わたしの相手を十分にしない横着なハムスターをつつき、

恐慌的な反応を見せるのが面白く、くつくつ笑いながらハムスターの眠りを邪魔し続ける。

彼ら動物たちは、わたしが誰にも見せることのできなかった、

わたしのわがままの相手をさせる唯一の相手だった。




ハムスターは、植物の鋭い茎につつかれるたびに、団子蟲状態から素早い反応で腹を見せて仰向けになり、

相手を引っかき噛み付けるように歯をむき出して、四肢を突っ張る攻撃態勢をとる。

しつこくつつくと、植物の茎にさっと噛み付く。

憎々しげに、ぽりぽり茎を噛み砕く。

そのうちに、ほんとうにただ茎を食事にする。

ぽりぽりしながら、また寝入ってしまう。

動きがないとつまらないので、わたしはまた突つく。



息を強く「ふっ!」と吹きかけ、それにも恐慌反応を見せるのが面白く、哀しい。

哀しみを吹き飛ばすよう、残酷になりきるよう、何度もハムスターを苛める。

ハムスターはそのうち眠るのをあきらめて、もぞもぞと起き出す。

今までのわたしの虐待を水に流すように、

無邪気な瞳をして餌をねだったりする無知が、可愛くて、哀しい。

わたしがどんなに攻撃しても、親のように、わたしを攻撃し返さない。

わたしがどんなにダメ人間でも、親のようにわたしを責めず見限らず、わたしに頼る。




わたしが親にしてしていたこと、

底なしの空白に水を注ぐように親に注ぎ込んでいたわたしの労役、わたしが親に分捕られ生じた空白、

それを、

体面は親に信頼し従い、心では親を裏切り殺していた、

親に憎みながら従っていた私以上に、裏切ることと憎しむことを知らないその命で購ってくれたのは、

彼ら動物たちだった。

その無知な愚鈍さと、生きることへの必死さ。

どんなに命を守るために攻撃しても、痛々しく必死になっても、

意味はないのだということを動物たちは知らない。

所詮、わたしの、人間の、家族の、親の手にかかれば、

動物たちの命などひとひねりなのだということを。

哀しくなる、

愛しくなる。




その日も学校から帰ってきて、真っ先にハムスターのケージに行く。

ケージの上にぞんざいにおいてある、容器の中の子供たちとその日は無性に遊びたくてたまらない。

ランドセルをケージの脇、玄関前に放り出す。



一度こうと決めたらわき目を振らない一心さ、子供らしさというのかわからないが、

酩酊したような夢中さにその日に限って取り憑かれた。

いつもなら、用心深く母の動向を監視し、機械的にいつもの学校帰りの手順を踏んでいた。

ランドセルを廊下に放り出しているのが見つかったら、ただじゃすまない。

母に見つかるとまずい、まずい、という声が他人事のようにぐるぐると頭に響いていた。

ちょうど、ゲームやテレビの一番面白い興奮時と重なって、ものすごい尿意を催し、

それを無視しなければならない、妙な使命感のような、高揚感のような。

とりあえずランドセルはその辺に放置、ではなくて、

廊下の壁にぴったり付けて誰にも邪魔のならないように、

見つけられて母の攻撃の材料にならないように、浅はかな努力をした。

空き容器の中の子供ハムスターと戯れた。

この日はいつにも増して、彼らが可愛く、哀しく思えた。




背後からの、わたしを串刺しにするような視線の気配で振り返った。

母が買い物から帰ってきて、

ハムスターのかごの前にしゃがみこんでいるわたしを見つけた。



「こんなところで何やってるの 。 」

わたしは凍りついた。

いつも、すでに母が自分の中で答えを出している、

誰の返事も期待しない問い。

だからわたしは答えない。

すでに判決は下っているのだ。

わたしはゆっくりと立ち上がって母と対峙した。




「こんなところにランドセル置いて、誰かが踏みつけたらどうするの ?

こんなところにおいて、邪魔でしょ ?

汚いでしょ ?

誰が家の中掃除すると思ってるの ?

誰があんたのランドセルの金払ってると思ってるの ?

誰があんたのせいで金を払うと思ってるの ?

あんたじゃないのよ ?

お母さんとパパなのよ ?」



わたしは廊下の壁にくっつけて置いてあるランドセルを横目で見た。

3戸しかない部屋の前、ハムスターのケージ以上にはでしゃばっていないランドセル、

人通りのないマンション、

誰かが思いついて意図的にここにやってくるのでない限り、

ランドセルが踏み潰される危険はない。

けどそれは問題ではない。



母が何を言おうとも、何をしようとも、母がいいたいことをいい、

母がしたいことをするために、わたしは存在してるのだ。

まちがっても、存在することのないよう、

母の存在を妨げる、わたし自身として存在しないように、存在する。

母の思い通りのものをぶつける、

わたしは空白の壁でしかない。

足元からすかすかした隙間風のような空虚な諦めが立ち上ってくる。

母はわたしを責める告発の金きり声に、自分で舞い上がり激昂してくる。

わたしは母のしたいことが見えてきた、

やりたいようにやらせていた。



母は、金のかかる、世話を要求する、手間を取らせる、母の人生の時間と労力を奪う、

母の頭の中の、機能的な計画通りの行動から外れ、

世界のルールと、

ルールに従っていさえいればいい人間の機能の仕方というものをすでに知っている、

母の仕様から逸脱し、異端するわたしを責め、告発し、糾弾し、非難し、指弾し、絶叫した。



どうして、ちゃんとできないんだ。

どうして、ちゃんとした普通の人間になれないんだ。

どうして、親が知っている、

全世界の、全人類と、一般的な、外れない、過ちを犯さない、

世間と、世界と、普通と、常識と、他の人と、

おまえは、同じでいられないんだ、同じことができないんだ。

なんでおまえは、親を苦しめるんだ。




母が一瞬の早業で、子供ハムスターの入った容器をひっつかんだ。

わたしは先ほどから彼らを注意しながら、

でも決して、わたしが彼らを気にかけていることを、

母には気取られてはならないと思っていた。

でも母にはいつも、私のことが何でもお見通しなのだ。

そして、私を最も痛めつけるためには何が一番効果的なのか、その驚異的な察知力でかぎつける。



「 こんなものと関わってるからだらしないことをやるんでしょ !」

蓋の開いた空き容器の中で、激震に見舞われている2匹の子供の、

パニックに目を見開き、四肢を突っ張らせ、

揺れ動く地面に足を踏ん張っているのがちらと見えた。

いくら彼らが倒れまいと地面に足を踏ん張っても、無駄なのだ。

今激震しているのは、彼らの運命をなぎ倒そうとしている人間の手、

2匹の運命そのものなのだから。




母は容器を持った腕を振り上げた。

わたしは目で追わなかった。

その行く先はわかっていた。



音を立てて内臓が一気にずり落ちるように、

わたしの中から何かがごっそりとこぼれ落ちていった。

わたしの中にうずくまっていた闇が膨張して、

わたしの中身を食らって去っていった。

わたしはわたしのなかに、しんしんとした闇だけを感じていた。



母は容器を持った腕を伸ばし、廊下の柵を越して、

下のコンクリートの地面に思いきり叩きつけた。

わたしの罪を声高に裁きながら、

真っ直ぐ、わたしの目を見つめながら。

わたしも、真っ直ぐ、母の目を見つめたまま。



母が興奮するといつもなる、魚のように真円になるほど見開かれた、薄茶色の瞳。

爬虫類よりも表情のない、まばたきしない透明な視線に、

わたしの何もかもが透明に呑み干され、

わたしは、ただ、透明な一対の目玉になっていた。

魔性の力を秘めた白イタチ、ノロイの視線に魅せられた、ネズミたちみたいだった。




真夏の太陽に反射して、勢いをつけて落下する容器の内側のアルミの銀色が、

ぎらりと光るのが視野の片隅に見えた。

世界が無音になった一瞬後に、アルミの容器が地面にたたきつけられる、

世界が粉々に砕け散る音が響きわたる。

命が砕ける音。

わたしは、形骸だけ残してわたしが内部崩壊し、崩れ去った後の闇を見つめ、

虚空に吹き渡る風のような、わたしのなかの闇の、虚ろな音にただ耳を済ませていた。



気がつくと母がまだ何か言っていた。

わたしを糾弾していた。

わたしを責めていた。

母の苦しみの根源がわたしにあること、

わたしの罪を暴いていた。

母のいわんとすることは、見事なほど、

そのパフォーマンスで、十分わたしにわからせた。



母のルールが作る現実、母がどう思うか、母の存在、

わたしの人生の中で、何よりもそれを優先させる意識を持たず、

一度でも母を度外視し、母のルールを忘れ、

自分本位の欲求を優先させれば、すぐさま母の天罰が下り、

母の手の中で、わたしの命はひねりつぶされるのだ、と。

ハムスターの命は、その見せしめのために、

わたしの身代わりに、ひねりつぶされたのだ。



わたしは、わたしを食らった闇に、一心に意識を凝らす。

闇が与えてくれる怒りと憎しみをかき集め、流れ出したわたしを、もう一度再生する。

闇の力で、崩れ去ったわたしを形作る。

闇を一心に見つめる。

闇の声だけを聞く。

闇は応える。

ゆっくりと、血が巡り始めるように、声が、

崩れ去ったわたしの代わりに、わたしを満たす。




いつでもころせばいいのだ

いつ、ころしてもいいのだ

いまではないだけだ

いま、ころさないでおくだけだ

いま、ころさないでおいてやるだけだ




わたしはようやく、母に縛られ、母に縛り付けていた視線を外し、足元に視線を落とす。

流れ去った自分が、今いる場所を確認する。

崩れ落ちた自分が、今ここに存在していることを目視する。

少しでも身動きすれば、ばらばらになるかもしれない。

今はわたしの手となり足となった闇の力の憎しみと怒りで、

わたしは、足を一歩、踏み出す。



いま、ころさないだけ

一歩。

わたしが、ころさないでいてやるだけ

一歩。

いつでもころせばいいのだから、だいじょうぶだから

一歩。




いまだ叱責を続けている母に冷ややかな流し目をくれ、脇をすり抜けた。

「ちょっと、きいてるの、何を考えてるの、まったく 。」

わたしが背中で置き去りにした母が、

背中でわたしを置き去りにして、家の中に入って、玄関を閉めた。

もしかしたらまた家を追い出され、玄関の鍵をかけられるかもしれないと思ったけど、

それでもよかった。

むしろそうしてほしかった。

二度とここに戻らなくてもよかった。

ここにいてどうせ、命を喪うだけなのなら。

あがいても、あがいても、一方通行の砂時計のように、

指の隙間から命を取りこぼし続け、命を喪い続けるだけなら。



堕ちた2匹のもとにいく。

二匹を探す。

容器が植え込みの中に転がってる。

思い切りふり落とされたから、死体さえ見つけるのが難しいかもしれない、不安に思う。

横倒しになった容器を直してみる。

そこにいた。

正確には一匹だけ、どういうわけか横倒しになった容器の中に残っていた。

妹のメスのほうだった。

倒れるでも伸びるでもなく、ただ座っている格好だった。

ただ、目を瞑り、浅い息を小刻みに繰り返し、じっと動かない。

様子がおかしかったけどもう一匹が不安だったので、

妹をそっと握り締め、あたりを探す。



今、命が世界から出て行こうとしているのに、

命が出て行くための引き裂き傷も破れ目も綻びも、

世界に開いていないことが不思議だった。

今、ひとつの命の時間が終わろうとしているのに、

世界の時間が続いていること、

喪われた命がもう足跡をつけることのない世界に、

わたしが今も足跡を残し時間を刻んでいるのが哀しかった。



少し離れた植え込みの中に、

もう一匹が小石のように転がっているのが見つかる。

薄い黄土色の小さい塊に、真夏の攻撃的にぎらぎらした陽光の中に、

一欠けらの黄昏を見つけたような安堵感をおぼえる。

見つけたところでわたしにできることはない。

わたしにできることは見つけることくらい。

自分の手で殺したハムスターを介助する気など親にないことは明らかだ。

わたしにできることは、命の終わりを看取ることくらい。



そして、ハムスターは、自分を殺した人間などに、見つけられたくはなかっただろう。

一瞬見つけなかったふりをして、このままここに放置しておこうかと考える。

彼らのために。

最後くらい、彼らの命を、人間の手から、彼ら自身に奪い返してやるべきではないか。

でも2匹とも、幸いにして、不幸にして、かろうじて生きていた。

何とかすれば、わたしでも延命できるかもしれない。

欲が出たのだ、

人間の、殺しては生かす、自分本位の欲が。




人間は、どこまでも自然のままにおくことをせず、

どこまでも生と死を所有し、コントロールすることをやめない。

どこまでも、他者の、自然の、動物たちの意思を、

自分の意思の支配下におかずにはいない。

自分の意のままにならない生と死を、罪と悪と呼び、

ただあるがままに、生と死の満ち引きを繰り返すだけの自然を、

自分本位の計算で、足し算したり、引き算したりして、

それぞれがそこにあるがままに所有している、

自主的な生と死の自由を管理下に置き、コントロールし、

自然があるがままに持っている、自主責任性と、自由性を、奪う。



人間の手は、何かを創造する、線を引くため作られているから。

人間の手は、自然を閉じ込め、囲い込み、線引きし、所有し、

中と外、善と悪、自由と不自由の、檻の線を引いて、

創造するようにできているからだ。

あるいは、自身の空虚な手の中に、すでに創造されたものを閉じ込めることで、

初めて何かを得られるようにできているからだ。




兄のハムスターは、目を瞑って、ぐったりと倒れている。

わたしになでられたりさすられたりしていると、息を吹き返し、

眠りすぎたあとのように、ものすごい勢いで、

でも半睡しているように目は瞑りながら毛づくろいをはじめた。

活発な様子にわたしは安心した。

問題は、妹のほうだった。



手をそっと開くと、横倒しになり、苦しそうにえずいていた。

人間が、何もでないまま吐くような、えずく動作を発作的に繰り返す。

目を開かない。

わたしは一瞬、もう思考力のない頭で、次の行動に迷う。

自動的に立ち上がる。

マンションの人が共同で使う水道のところにいく。

蛇口をひねり、水を出す。

手に掴んだハムスターを水にさらす。

ハムスターが濡れる。

溺れたようにぐっしょりになる。



なんのつもりだろう、とぼんやり自分に問いかける。

ショック療法のつもりかもしれない、とぼんやり自分が答える。

ショック療法のつもりかもしれないが、功を奏さず、えずきがますますひどくなる。

ぼんやりあせる。

おなかをさすってみる。

心臓の辺りをこすってみる。

えずきがとまらない。



命の黄昏の中、道を失くした生と死の狭間の中、

わたしは迷子になったハムスターとともに、途方に暮れる。

子供らしく泣こうとしてみる。

泣こうとする感情が見つからずうろたえる。

次の行動に迷い、途方にくれる。

世界に対して反響し、表現すべきなにかを喪失したわたしは、

世界を喪失し、世界に存在している自分を喪失している。




容器の中に、元気を取り戻し始めた兄ハムスターをいれ、ケージの上に置き、

死んでも生きてもいない妹ハムスターを握り締めたまま、わたしは途方にくれる。

このまま意地でも家の外にいて、ハムスターの死とともに、

世界の外に、わたしも身を置き続けようと思う。



でも父が帰ってきたら、家の外にいるわたしを、また家を追い出されたのか、

家を追い出されるような馬鹿をしたのかと、嘲笑されるかもしれない。

わたしが意気消沈していたり悄然としていると、

弱みを握ったように嬉々と嘲笑するように。



「 そうなの、なんとかいってやってよ 」

と、愉しそうに母に経緯を説明され、今度は父に罵倒される。

そうしたら、母によって一度死んだ命が、

今度は、父によって辱められ、二重に殺される。

わたしは父という再びの殺戮を避けるために、やむなく家に入る。

母の直情的な攻撃も怖いが、父の精神・人格攻撃のほうが怖かった。

肉体的な暴力と違って、人格が壊されていくのは、防ぎようがないからだ。




無言で家に入った。

すぐの台所で、母が憤懣を撒き散らしながら夕食を作っている。

わたしは死にかけのハムスターを持って食卓につく。

ハムスターはまだえずいて苦しんでいる。

いつまで続くのだろう、とぼんやり思う。

母の手前もあり、手の出しようのない延長戦に困り、あせる。

気だるくなっている。



「あんたさっきお母さんの言ったこと、ちゃんとわかったの ?

ちゃんと聞いてるの ?

人の話 ?

ちゃんとしなきゃダメなのよ ? 」

母がいっていた。

死にかけのハムスターを持って食卓についたわたしの前に、母の作った夕食が置かれる。




人間が生きるための食事が湯気を立てている。

私の手の中で死につつある命の前で。

私の手の中の命が死んでも、私は、生きるために、

私の魂を握りつぶす母の手が作るその食事を食べるだろう。

私は、私の中の命が死んでも、私が生き延びるための闇を喰らうだろう。

私は喰い続けるだろう。

人間の手に命をくびり殺されながら、人間の手に魂を握りつぶされながら。



人間の命を奪うものは、人間と動物と、二種類いるけど、

動物は、人間の魂をに命を与えることができる。

動物も人間もの、命も魂も殺すことができるのは、人間だけだ。




「 やだ、そんなもの持って、家に入らないでよ 。」

母がいう。

わたしは泣こうとして頑張っても泣けない。

わたしはただ顔を上げて母を見る。

母は目を背け、

「 ご飯食べちゃいなさい 。」

いい放つ。



他の家族が帰ってくる前に、ハムスターのえずきはだんだん弱まっていき、

だんだん静かになっていき、ついに止まる。

わたしはむしろほっとする。

母が機械的に食事を提供するからには、

わたしは機械的にそれを消費しなければならない役割なのだ。



一切の運動を止めたハムスターを見た。

今までここにあった命は、こんなにも忍び足で、どこに逃げ出していったのだろう。

人目を忍んでいくほど、そこはここよりも魅力的なところなのだろうか。

なんだかここに取り残されたわたしのほうが、

負かされ、惨めな世界の取りこぼしのように思えて、哀しかった。

それが、このハムスターの死に初めて感じた、ぼんやりした哀しみだった。



哀悼ではなかった。

ハムスターよりも、自分を哀しんでいた。

わたしは死体を白いティッシュにくるんだ。

親よりも、世界中のどの人間の命よりも重い命を喪失した分、

わたしにとって世界は軽くなったようだ。




家族が帰ってきて、私たちは母の食事を食べた。

いつ母がわたしの行状を父に告げ口するかと伺っていたけど、

母はあえて話題をはぐらかすように、

不自然なテンションの高さで父に接していた。

これは母が父に知られたくないことのひとつなのかもしれないと思った。



その後私はハムスターの死体をゴミ箱に捨てようとして、かろうじて思いとどまった。

人間としてと思った。

あえて意思的にそう思わなければ、やってしまいそうだった。

死を悼む気持ちがなかった。

この世界に無様に置いてきぼりを食らっているのは、わたしのほうなのだ。




このとき生き残った兄ハムスターのほうをあるとき、

親ハムスターのもとにおいておいたほうが、群れの心理で、

守ってもらえて安全かもしれないと思った。

弱い子供、人間の弱い状況にこそ、

まるでつけこむように攻撃してくる私の親に狙われず、安全かもしれないと思った。



久しぶりに親子を対面させてみる。

子供を手に持ち、ケージ越しに親ハムスターに近づけてみる。

親ハムスターはケージの中を忙しく動き回る動きをぴたりと止め、

ケージ越しに突き出した子ハムスターの鼻面を嗅いだ。

不気味なほど長い間、そうしていた。

妙な静寂の空間が流れた。

子供は人懐こく、親ハムスターとじゃれたいそぶりを見せて鼻をくんくんさせる。

不穏な静寂が続く。



唐突に、親が、ケージが激しく揺れるほどの勢いで、

子ハムスターの鼻面に思い切り噛み付いた。

子供が悲鳴を上げ、啼いた。

あわててケージから離すと、子供の鼻の付け根から血がにじんでいる。

鼻そのものがもげそうな勢いだった。

それくらいの処置しかできず、湿らせたティッシュで血をふく。

子供は痛がって啼く。

親を見ると、敵は追い払ったとばかりがさがさしている。

憎くなってケージをぶっ叩いたので、

激震に見舞われたケージの中でパニックを起こしたハムスターが狂ったように走り回る。



人間の親からは、そのまま命を落とした妹とともに、命を手から振り落とされ、

実の親からは敵対行動を示され、

病院に連れて行く社会性も、自力で怪我や病気の処置するスキルも持たず、社会的に孤立し、

自分の命さえ自分の手に負う責任能力もない子供一人の手にゆだねられたこの子供の行く末が、

見えた気がした。

わたしの運命のように。



それから数週間後だと思う、

子供は一定の大きさ以上に育たなくなり、餌を食べなくなる。

あの親ハムスターに鼻を噛み切られかねなかった一件を思い出す。

あのせいかと思う。

妹をなくしたせいかと思う。

たった一匹で世界に取り残されたように生かされているせいかと思う。



もともと活発な子ではなかった。

ときどきじゃれるときかみつくけどかむ力がとても弱い。

歯自体が透けるほど薄く小さく未発達のような気がする。

虚弱児なのか未発達かもしれないと思う。

わたしは私一人の手の中に命を抱えて、誰にも声の届かない海を漂流するように、

わからない、どうしようもない、命の助けを求める人間が誰もいない。



やわらかく炊いたお米粒を一粒、口元に持っていってみる。

ぴちぴち音を立てて、半分くらい食べる。

半分も食べてくれたことに嬉しくなる、

半分しか食べられないことに、哀しくなる。

何かもっと栄養のあるものを食べさせたいけど、何も思い浮かばない。

私一人の力で何もできない。




ティッシュの空き箱に、命が漏出しつつあり、軽くなった体を横たえる。

どうしていいかわからないけど、動物を家に入れないという母のタブーを公然と破り、

体を温める暖を与えるため、電気の暖かさがあるからテレビの上に置いてみる。

テレビの前のソファの上に母が寝転がってテレビを見ている。

テレビの前にいるわたしのことよりも、

テレビの中の世界のことのほうが、母の関心を引き、母はよく知っているのだろう。



ティッシュを敷き詰めた白い空き箱の中。

命が水をほしがるかどうかもわからない子供が、

中に水を浸したティッシュだけを置きざりにして眠る。

白い棺桶のような箱の中の子供は翌日、

独房の壁際を出口を探して虚しく彷徨よったように、

後ろ足だけで這い進んだような引きずった跡を残し、

はいずり歩き通したままついに倒れたような格好で、前のめりに倒れて死んでいる。



最後は、ひとつふたつの、黒く硬い花の種のような糞が残る。

私はなぜか、ハムスターの亡骸よりも、

ハムスターが生の最後に残してくれたものだと思えたのか、

その糞のほうにハムスターの生の痕跡を見出す。

糞をティッシュにくるんで箱にしまう。

その糞はその後何年も宝箱の中にしまわれてた。




それ以来ハムスターを買うことはなくなる。

結局、私の手元で生まれ、生き、死んだ命たちのひとつとして、

わたしは、名前をつけることはなかった。

私自身の名前がないからだ。

私の名前が見つからないからだ。



結局、わたしたちにとって、動物たちは、

不特定多数の、名前のない動物たちであり、

わたしたちは、動物たちにとって、

不特定多数の、名前のない、人間たちだった。

わたしの家族の誰ひとりとして、彼らを名前で呼ぶものはなかった。

彼らの飢餓も、渇きも、痛みも、わたしたちにとって、それは、

名前も顔もない、不特定の、誰か、でしかなかったのだ。




わたしの手に、信頼にも見え、あきらめのようにも見え、

無抵抗に身をゆだねる動物の無力さを見ると、

命をゆだねられる私の手が、

ゆだねられる命の信頼の手を裏切る手でしかない、

命を手放す手でしかない、

生を取り零す手でしかない、

すでに、死の闇に満たされている手だということを思う。

それが、信頼というより、わたしを裏切る身の自由の余地もない動物たちが、

いくつもの命を張ってわたしに教えてくれたことへの、唯一の恩返しだと思う。



私にとって動物たちは、生から死に向かう、

生と死をつなぐ命のただ一本の道を、

常にわたしの前を歩いて、真っ直ぐに軌跡を引いて道を行く、

人間の暗い迷い道を往くわたしの、か細い道標になってくれる存在。




事態を表現して伝える相手は誰もいない。

わたしの表現を許し、反響し、待つ人は誰もいない。

わたしの表現を受け止める手を持つ人は、世界に誰もいない。

だから黙って口をふさいで、生の表現をせき止めたところから、

生の壊死、死の漏出が始まるように、ゆっくりと魂が虫食まれるのをただ見つめる。



生の表現の自由な出口をふさがれたとき、

他の細胞から切り離されて、腐って死んでゆく細胞のように、

生の脈動を沈黙させ、ただ自分の死を見つめている。

声のない動物たちの声に、誰にも届かないわたしの中の声が呼応する。

この世界でもっとも弱い声を代弁してくれる動物たちに、私の中の、声なき声を祈る。



人間たちのやることには、いつもどこか嘘がある。

あるいは嘘を作らずにはいられない。

人間は、リアルの命そのものだけではいられない、

自分たちの存在の嘘臭さから逃れることはできない。



私がこの世界で最も信頼しているひとたちは、動物たちだけだ。

命と、生と、死だけを真っ直ぐに見つめる、

嘘のないリアルの体温だけが物語る、

動物たちの、声なき声だけなのだ。




わたしは信用に足らない人間なのだ。

動物たちにとっても、人間たちにとっても。

その戒めを忘れないこと、

それが、動物たちの死を忘れないこと。

そのわたしの前に、今度はウサギを飼って持ってきたのは、母だった。
「知恵か。

よくわからないなあ。

わたしたちと動物と、いったいどこがちがうんだろう ?

ものを言うかどうかか ?

しかし、動物たちだってみんな、こっちへ来いとか、気をつけろとか、

いろいろ伝える方法はもっておる。

ただ、動物には物語ることは無理だな。

それから嘘をつくことも。

人間はどちらもできるんだが。」




「わたしたち人間のなかにはなにか邪なものがひそんでいるような気がしてなりません。

信頼は邪なものを拒みます。

それをとびこします。

へだたりがあったって、とびこえてしまいます。

けれど、それで、邪なものがなくなるわけではありません。



目の前にあるこの世界、この森、山、空、みんな、何の問題もなく、あるべき姿にあります。

でも、わたしたちはちがう。

人間は違う。

わたしたちは間違う。

間違ったことをする。

動物はけっしてしないのに。

どうしたら動物のようでいられるんでしょう ? 」




「わたしのオタクも、この命を救ってくれたんだよ。

わたしが愚かなばっかりに石垣なんぞを越えて、からだはこちらに置いたまま、

魂があちらをさまよったときにね。

オタクはわたしのところにきて、そのかわいた舌でわたしのからだを舐めて、

きれいにしてくれた。

自分の体や子どもたちを舐めるようにな。

オタクは辛抱強くわたしのからだを舐めつづけ、そうやって触れることで、

わたしを連れもどして、もとのからだにおさめてくれたんだよ。

あのオタクがわたしにくれたのは生命だけじゃなかった。



それで気がついたんだよ、ハンノキ殿をこちら側にひきとめておくのに必要なのは、

からだとからだが触れ合う温かさなんだと。

動物だっていいんじゃないかと。

動物たちには命こそ見えていても死は見えていないんだから。

犬だって猫だって、ロークの長に劣らぬ力をもってるんじゃないか、とね。」




「となると、人間と動物の違いは言葉だけじゃないな。

動物は善もなさなければ悪もなさない。

なさなければならないようになす。

わたしたちは動物のすることを見て有害だとか有益だとか言うが、

良い悪いは、何をするかを選ぶことを選んだ我々人間の側の問題なんじゃないろうか。



竜はたしかに危険だよ。

だが、竜たちは悪意があってやっているのではない。

竜たちはほかの動物と同じで、その徳性が我々のそれに届かないんだよ。

あるいははるかに越えていると言ってもいい。

つまるところ、そんなものと関係なく生きているんだ。

わたしたちはいつも選ばなくてはならないが、動物はただ必要な状態に身を置き、

必要なことをするだけだ。

くびきにつながれているのはわたしたちで、動物たちは自由なんだよ。」




「いっとう等最初、この世が始まったときには、あたしたちはみんな同じだった、

人間と動物はね。

あたしたちはみんな同じこと、してた。

そのうちにあたしたちは死に方を学んだ。

次には生まれ変わり方を学んだ。

存在のふたつのありようね。」

「ゲド戦記」アーシュラ・K・ル=グゥイン





サフィと私の関係を要約すれば、対等な関係ということだろう。

自分と違う種であるにもかかわらず、

サフィを「個性あるもの」とみなしているといいたいのだ。

もし彼らが個性あるものとして私たちとかかわり、

私たちも個性あるものとして彼らと関わるなら、

彼らと私たちとが"個性的な"関係を持つことは可能である。

もし、そのどちらかが他方の社会的な主体性を認めなければ、

そのような関係は阻害されてしまう。



言い換えれば、ある人間が、ヒトではないけれども個性を持った動物を、

一個の主体として水に、単なる無名の対象としてしか関係しないとすれば、

その動物のほうではなく、ほかならぬ人間の側こそが、

「個性的存在性」を喪失しているのである。



トマス・アクイナスやオハーンは、動物と人間とは友だちになれないというが、

彼らは、相互主体性との命ずるところに、

自発的にお互いに身をゆだねるという可能性が、

共通の基盤をなすということを無視している。



相手に(それが人間であろうとなかろうと)身をゆだねるといは、

相手を操作しようとしなくなること、

彼らの私たちへの関係の仕方を操作しようとしなくなることなのだから。

操作できなくなるのは不安だが、

それによって得られるものを考えれば安いものだ。



こうして、私はサフィを「個性あるもの」だとみなし、

サフィも私をそう思ってくれるので、私たちは友人でありうる。

私は友人ならば誰にでも願うこと―――つまり自己表現する最大限の自由と、

最大限の幸福――― をサフィのために願っている。




「他の存在の立場になって考えて見られる範囲に限界はありません。

共感的想像力に限界はないのです」

「言い換えれば、彼らは心を閉ざしたのです。

心とは、時々他の存在を共有できるようにしてくれる、

"共感"という能力が宿るな所です。」

ところが、たいていの人間は動物に関して想像力の翼を広げることはしない・・・。

詩や小説は、哲学よりも、この想像力に強く訴えかけるものなのである。



哲学者とは違って、詩人は動物の経験に「共感すること」から始まる。

それによって詩人は、

この世で生きている感覚を経験しうる動物ならどれでも殺すことは罪であるとわかるようになるのだ。

だから「動物のいのち」はガーバーが主張するように、

動物のいのちを問題にしているのと同様に、文学の価値をも問題にしているのである。



クッツェーが私たちに残した問いの中で中心となるのは、

こうした倫理的衝突の解決、言い換えれば対立する感受性同士の和解が―――

哲学的にせよ詩的にせよ心理学的にせよ―――

いったいありうるのかどうか、という問いなのだ。

見方によれば、「共感的想像力に限界はない」という動物をめぐるコステロの主張は、

人間同士におけるいわば「隣人」との関係において試されているともいえるからである。

動物の生のあり方を問う本書は、そのまま人間の生のあり方を問う。




動物は機械のように生きている、とデカルトはいいました。

動物とは、それを成り立たせているメカニズムにすぎないというのです。

もし動物に魂があるとすれば、それは機械にバッテリーがあるのと同じように、

動かす活気を与えるためだ。

思考、思索に対して、私は充足感、肉体が与えられているということ、

存在しているという感覚を対峙させます。

この存在の感覚とは、

自分はものを考える一種の幽霊のような思考機械だという意識ではなく、

それとは逆に、自分は空間に広げられる手足を持った肉体であり、

この世に生きている存在だという感覚であり、

激しい感動的な感覚なのです。




「動物にとって、いのちが私たちにとってほど問題ではないと言う人はみんな、

生きようと闘っている動物を自分の手で抱えたことのない人たちです。

動物の全存在が、その闘いにありったけ籠められているのです。」

「動物たちは私たちに立ち向かうのに、沈黙しか持っていません。

何世代にも渡って、勇敢にも、私たちの捕虜は私たちと話すのを拒否しています。」



実際には戦争と狩猟は同じものだわ。

哀れみの情を育むことができるようになったのは、必ず勝てるようになってからですよ。

でも、私たちの哀れみは実に薄っぺら。

捕虜は自分たちと同じ部族には属していない。

どうにでも好きなように扱ってかまわない、

私たちは彼らを、お前の言うとおり、軽蔑の念を持って見るのです。」




この世で何の(宗教的な)理由もなしに動物を殺して犠牲にしたものは、

その動物の体に生えている毛の数と同じだけ、

死後に生まれ変わっても生まれ変わっても非業の死をとげるのである。

草、いけにえの動物、木、(いけにえ以外の)動物、

そしていけにえとして殺された鳥は、高い身分に生まれ変わる。

これがマヌの述べたことである。

「マヌ法典」




「それでも、いまだに私たちを憎む動物がいます。

たとえばネズミ。

ネズミは降伏しなかった。

彼らは下水溝の中で地下組織の部隊を結成しているの。

勝利を収めてはいないけれど、敗北もしていない。

まだ私たちを打ち負かす可能性はありますよ。

もちろん私たちが滅びたあとも生き延びているわ。」

「動物のいのち」J・M・クッツエー





月は、イタチたちを皓々と照らしています。

六十七ひきのイタチの真ん中に、一ぴきだけ月の光を浴びて、

白く体を光らせているイタチ、ノロイが見えます。



ノロイはそういいながら、ガンバの目をじっと見つめました。

ノロイの目は月の光を反射するというより、のみこんでいるみたいに、

深い青に近い茶色に見え、その目の色に、ガンバは思わずひきずりこまれそうになります。

ガンバも、けんめいにノロイの目を見返しました。

ガンバの方は、黒く、キラリと光る目です。




もはや戦いではありませんでした。

しかし、それにもかかわらず、ネズミたちは決して悲鳴一つ、泣き声一つあげずに、

" 生きぬこう " としていました。

ネズミたちの抵抗はおどろくべきものでした。

どのネズミも、体力の最後のときまで、いや、体力を使い果たしても、

なおかつ、意志だけで戦い続けていたのです。




「どうやら、ノロイ、勝ちはお前だ。

わたしたちは敗れた。」

ガクシャは顔半分を海につけていいました。

そして、

「もう言葉はない。」



「いいやガクシャ、まだある。

ぼくたちはまだ闘う。

まだぼくたちは生きているんだからな。」

「冒険者たち」斉藤惇夫

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