[闇沼asukaの旅日記]

動物たち、人間たち


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『鳳凰は雌雄の二羽、鸞(らん)である。二槻(ふたつき)二神(ふたがみ)という氏姓もある。
仏教語に双神アシフィン、アソカ大王があり、これがアスカと転訛して飛鳥(アスカ)となったらしい。
アスカ(飛鳥)とは双神(二神)、二つの月宇宙のことなのだ。』 林完次「月の本」
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1. 2009/01/12 「動物たち、人間たち」 分類: 体験談
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9歳のとき、母親に斉藤惇夫氏の「冒険者たち」を読むように薦められた。

小さな命の尊さをわからせるという情操教育だったのかもしれない。わたしは本を読むのが嫌いな子供だった。

本は内省させる。本は感じさせる。本は考えさせる。わたしのタブー領域に触れる。

「人間は機械だ。食料という燃料を喰ってりゃいいんだ。」と5歳のときから言われ続け、

反論すると「お前は世界中の誰からも理解されない頭のおかしいやつだから、精神病院に入れ」と言われる家で、

わたしは、人間でも生物でもない機械なのだから、親に機械だと思われているのだから、

考えたり感じたりしたら、親に逆らうことになるのだから、機械のようでいなければならなかった。

本なんか読みたくなかった。機械は本なんか読まない。わたしは母の要求をはねつけた。

母は、いい本だから読みなさい、一度騙されたと思ってと、感動するからと、執拗に勧めた。わたしは感動なんかしたくなかった。

毎日、毎時間、毎分、毎秒、感動しないように、何も感じないように、何も考えないようにびくびくしていた。

親に逆らわないために一秒たりとも自分を人間だとか生物だとか思わないように、

何も考えないよう何も感じないよう秒刻みで戦々恐々と機械であるのに必死だった。

でもその母の命令なので私は「冒険者たち」を読んだ。感動して泣いた。母の言うとおり感動したと。

あまりに感動し、あまりに母の言う通りなので「冒険者たち」の主人公ガンバにみたててネズミを飼うことにした。

げっ歯類なら何でもよかったのだけどネズミは害獣なのでハムスターで妥協することにした。

わたしはそのときの級友チヒロにも母と同じように「冒険者たち」をすすめ、感動しろと迫った。

とても感動したから、小さな生き物の命を大事にする精神でガンバに見立てた小動物を飼おう。

彼女を私のストーリーに巻き込み、彼女と二人でお年玉の残りを出し合い二匹のハムスターをペットショップで購入した。



初めてペットを飼うという親の了承のない背信行為に罪悪感を感じた。

なんであれ、わたしが親の命令でないこと以外のことをしたら誰が私の主人かわからせるために、親に目にものをみせられる。

だから親には内緒で飼うことにした。

でももしばれてもお母さんが薦めてくれた物語に感動したから、だからその影響なのだと言い訳してうまくまこうと画策した。

わたしはお小遣いをもらっていなかったので一年をお年玉でやりくりしていたので出費には細心の注意を払っていた。

ハムスターブームが来る前で一匹500円か1000円くらいだった。

親への背信感覚と、今まで経験したことのない命を購うという行為にやましいようなどきどきしていたわたしは、

ひとつの命がたかだか500円と拍子抜けした。

これが猫犬ならそうはいかないのだろう、体の大きさに応じて命の値段は変わるのだろう、

これだけの大きさしかない命だからこれだけの値段の命なのだろうと思った。

わたしは親の目を盗んでペットを手に入れた高揚とそんなに興奮する程度でもない数百円の命という落差に、なんだかがっかりした。

親に背くような大それたことをしている、でもそれは親が私にしてくれたことにいかにわたしが感動しいい影響を与えられたか、

いかに親が正しく崇高で尊いかを証明するための行動なのだと、もし親にばれても自分を貶めながら親に賛美的な言い訳をすることで、

かえってほめられるかもしれないという興奮が一気に冷め早くも飽き感がした。

住む場所をどうしよう、ケージはというピクニックの予定を立てるようなわくわくした気持ちも冷め、とりあえず彼女の家にあった、

プラスチックの虫かごにネズミを閉じ込めた。

わたしが初めて触った別種の生き物の命、500円分の命。あたたかくてもこもこしてくるくるしていた。

わたしと彼女は、子供が動物と関わる際の典型的な反応「わあ、かわいー。」を連発しスキンシップをとりまくった。

わたしも「わぁかわいー」を連発していたけどそれをかわいいと思ってるかわからなかった。

それよりげっ歯類らしくじっとしておらず常にせわしなくくるくる動く様が気に触りさえした。

これでは始終どこかに勝手にいかないように捕まえておかなければならず「小動物の命を尊く愛好する高邁で愛らしい子供の図」がぶち壊しだ。

そろそろ夕暮れてきたので帰ろうとネズミを虫かごに戻した。

ネズミの虫かごは彼女の家と私の家との中間ほどにある空き地の茂みの中に隠すことにした。一匹の500円分の命は私と彼女の共有財産。

私と彼女は毎日学校帰りにネズミとスキンシップした。

なんだかそのわたしたちの姿はそこらへんの薄暗い雑木の中に捨ててあるエロ本みたいに後ろ暗いものに思えた。

薄暗い雑木に人目に隠れて捨ててあるエロ本みたいなそこで人目に隠れてマスターベーションする誰かみたいな。

動物は忙しくうろつき虫かごのプラスチックの透明な壁を虚しく引っ掻いた。私たちはひまわりの種をネズミの頭の上からぱらぱら降らせた。

季節は冬で雨が降ろうが雪が降ろうが霙が降ろうがネズミは虫かごに閉じ込められ野ざらしにされていた。

わたしは寒い屋外でのスキンシップが億劫になって時々様子を見る以外そこにいくのが間遠になってエサやりや掃除をさぼった。



年末だったか田舎に帰省したため一週間以上もネズミの虫かごに行かなかった。

彼女のほうは私よりもネズミの様子を見ていたらしくそれを伝えてきたのは彼女だった。ネズミが死んでいるという。

霙交じりの雪が降る日急いで行くと虫かごの中はネズミの命の体温だったのか、まだ温かかった呼気だったのか内側から細かい水滴がつき雲っていた。

曇ったケースを通してネズミの体の茶色と白の小さな塊がぼやけて覗いていた。そのことが私へのネズミの弾劾に見えた。

ネズミの命を蒸発させたこと、暖かな命の呼気を冷たく結露させたことの声のないネズミの最初で最後の蒸気のような弾劾に思えた。

曇りを通してネズミの茶色と白の毛玉が縮こまっているのがぼやけて見える。

あれほど騒がしく動き回っていた体は厳かなほど静かにじっとして動かない。死は厳かなものなのだ。

おそるおそる虫かごを開けてみると、外的から身を守るように四肢を縮め団子虫のようにこちらに背を向け丸まっている茶色い背中が見えた。

ネズミが眠る際にとる格好で、彼女の服の中や私の手の平の中で暖をとり眠りについて丸まる姿勢だった。

でも今はどこにも暖のない暖の奪われた虫かごの中で眠っているわけでもないのに、眠っているのと同じ格好で、

永遠に目覚める機会を奪われて目覚めるために眠る機会も奪われて、一切の活動的生の機会を奪われてただ死んでいる。

私はなんだかその雰囲気に怯えた。騒がしく暴れるネズミよりも厳然としたもっと雄弁で声高なものがその背から暗黙に発せられてる気がした。

すべてへの拒絶という静止と沈黙でのわたしへの告発。

虫かごの中は雨と雪が入り込んでびしょぬれだった。

ほとんど飼育放棄だったから糞尿まみれかもしれないと思ったけどどういうわけかそうした汚れはなかった。

餌があまりに供給されないため出るべきものも出なかったのかもしれないと思った。

敷き詰めた白いティッシュが泡だつようにネズミの周りに波打っていた。

ひまわりの種の殻のかけらが申し訳程度ぱらぱら散らばっていた。実の入った種はひとつもなかった。

なめらかだった毛並みも塗れてはりついて、びしょ濡れになったネズミは一回り小さくなっていた。

そっと厳かなまでに持ち上げると、すべてに抵抗するような硬い身体の死後の反発を感じた。

死後硬直を起こして固まっていた。死に顔はネズミの苦悶に満ちた表情。動物で死に顔が一番苦しそうなのはネズミではないかと思う。

ネズミは死んでいた。名前も定めなかったネズミだった。ネズミが生きているうちから生きていることを否定したように。わたしによって否定されたように。

彼女は私より動揺していた。彼女は泣いていた。泣くという情緒は私になかった。泣いてみようとしたけどうまくいかなかった。

これはすべていかに親が正しいかを証明する虚構の舞台設定でしかなかった。

彼女は自分の親に知らせたという。

私はそのことのほうに、死んだネズミを手に持ったまま血の気が引いた。余計なことをした彼女を殴ってやりたかった。

冷たくなったネズミに彼女は自分の体温を移そうとして抱きしめ、なでた。

わたしはその物体の意味がわからなくなってきていた。意味のわからない不気味なものに見えてきていた。

私も彼女の真似をして別れを惜しむようになでた。このネズミが私に別れを惜しまれて喜ぶとは思えなかった。

私たちは別れを済ませネズミを土に埋めた。彼女と私は墓前に手をあわせた。

その後あるテレビ番組でハムスターも気温が低下すると冬眠することを知った。

だとしたらあれは餓死もしくは凍死ではなくただの冬眠だったのかもしれない、わたしはネズミを殺しはしなかったのかもしれない、

と都合良く考えることがある。

でもだとしたら冬眠しているだけのハムスターをわたしは今度こそ土に生き埋めして窒息死させたのだろうと思う。

この一件が彼女の親からわたしの親にばれた。

他人を介したからか親の反応は時々そうなるように生気のないほど薄く、飼いたかったら親に言って家で飼いなさいとだけいった。

私はネズミを飼う事に親の容認を得たことに喜んだけどこの一件で自重としての気分もありもうほとんどハムスターを飼う気にならなくなっていた。



その後母が自費でハムスターを買ってきた。わたしが動物の小さな命に関心を持ち始めたと思ったのかもしれない。

母の「冒険者たち」の推奨のおかげで。わたしの暗示的なパフォーマンスが母に伝わりここでこうして私にあだとなってふりかかっている。

母は嬉々として、ケージ、水飲み、ねずみがまわす車、ハムスターの飼育に必要なひとそろいを買って来た。

これほど準備万端なら今度はネズミを殺さなくてもよくなるかもしれないと思った。

同時にわたしがこの家が何か命を生み育めるとは思えないとも思った。

この家で自分がいるだけでも限界なのにさらにこの家から私以外の生き物を守り育てる余裕などない。

母はわたしの責任で飼育するように申し付ける。最初は興味本位でこのネズミは親のものでもあるだろう。

親がネズミの関心を離れ飽き、わたしひとりの責任でまかされるときこのネズミはわたしの同類、わたしの仲間として押し付けられる。

わたしの仲間、わたしの同類、親の敵。

親の敵のように憎まれ虫かごに閉じ込められてるような状況にこの動物もわたしと同じに閉じ込められる。

親の興味を引きとどめられず関心を離れ、わたしひとり子供ひとりの自己責任でとは、

子供が持たず親だけが持っている生活力から拒絶され孤立すること、自己責任で自立するということ。

今後動物が怪我をしても病気になっても餓えても死にかけても何があっても親に知られてはならない、助けを求めてはならない。

感情、思考、自己、存在を表現してはならない、わたしがそうあるように。

それが他者の存在を認めない、自分の存在だけを世界に認めて生きる、自己責任、自立するということ。

わたしと動物は同じひとつの虫かごに閉じ込められた。

私自身が檻の中にいるのにどうしてもうひとつ別の檻の中にいる動物の世話をすることができるだろう。

案の定最初は物珍しさからネズミを弄って遊んでいた親の手元にいるときはほとんど親の管理下で餌やりや水やりをしていたけど、

飽きて親の手元を離れると臭いから汚いから家が汚れるからという理由でネズミの檻は犬小屋みたいに、

家の外玄関の脇に置かれた。私がよく汚いからと玄関から締め出され家を追い出されたように。

親の関心に見離されたネズミをかまうことは、親の意識に逆らうことになるのではないかという防衛感情がわたしに湧く。

それは汚くて臭いから家主に家を追い出されて当然の子供、わたしと同じ。

汚く図々しく他者の世話を要求するろくでなしのわたしが家から追い出され閉め出され、憎まれ、親の目の前の現実から抹殺されて当然であるように、

わたしと同じになったネズミをわたしが可愛がり世話を焼くことは暗に親の意識に反逆している気がする。

わたしもわたしをそうする親と同じようにわたしであるネズミを見放し苛め殺さなければならないような気がする。

それを親に期待され待たれ見張られているような気がする。テストのような気がする。

いかに親の意識が作る現実に従えるか、いかにわたしが勝手に自分の意識で作りあげた現実に従って単独行動を起こし、

親の現実に従わなくなり親を裏切らないかの。

わたしはひたすら親の意識に抵触する親が作る現実のルールだけからはブレないように一切から心を閉ざす。

動物をかわいがるのはそれが「幸せで何も問題のない普通の家庭」の「幸せで何の問題もない普通のこども」がする行動だから。

ハムスターへの好意が親の現実のルールを上回ってはならない。

親に気を使う以上にネズミを大事にしてはならない。

親の機嫌に抵触した場合は即刻ネズミの命を絶つ必要がある。

ネズミの命を絶つことに躊躇せず、ネズミへの執着を絶つことに躊躇しないほどの親への恭順の意思を示す必要。

最初は親の歓心をかうための「小動物を愛する愛らしい子供」らしく「わあかわいい」を棒読みで連発し、

ハムスターと遊ぶというより弄っていた知的障害の姉もそんな空気を察したのか、親の感心がハムスターから離れると同時に、

「親の敵は自分の敵」とばかりに関心をなくし檻から出して遊ばせているネズミが自分の膝元でうろうろしていても注意を払わなくなる。

ネズミが勝手にどこかへ行ってしまうので姉には任せていられなくなる。

姉は自分で皮を剥く自分の指先の痛みと指先の血と血の味に没頭し始める。

兄はこのイベントに皮肉めいた雰囲気を漂わせて距離を置いている。

ネズミの存在を知っているのは世界でわたしだけという状況のような気がする。

だれもそこにいてほしがっていない、誰もそれに生きてほしがっていない幻のような影のようなネズミの世話を焼く役目は、

誰の相手にもされなくなったネズミの相手をするのは誰にも相手をされないわたししかいないと家族に見下されている気がする。

わたしはネズミの餌やりを怠る。掃除を怠る。水遣りを怠る。ネズミはたまに与えられる餌に目の色を変えて飛びつく。

糞尿まみれになる。親の言うように汚く臭い家を汚すものになっていく。

一度母が与えた人間の食事のあまりもの、野菜の切れ端を与えたのにネズミがっついているのにわたしが誤って手を触れると、

エサを取られると勘違いしたネズミに猛然と攻撃されすごい勢いで噛み付かれた。

つがいで買ったのでハムスターは子供を生む。10個のぴくぴくうごく小指の先ほどの赤い肉塊。気持ち悪かった。

子供が生まれるという余興に親の関心はまたネズミに向く。

わたしはネズミを世話する許可を親から向けられた関心によって得たように感じてこまめに世話をするようになる。

子供は成長して何匹もの小型のハムスターの形になる。

今度は親に飽きられているどころか「このまま成長したらどうするの」と親の厄介に、荷物になり始めているのを感じる。

不安がもたげる。いっそ、と思う。



夏休み、年末、週末、いつも休みいっぱい田舎に帰省する。そのときネズミは置いていかれる。車が臭く汚くなるから。

父が大型の水槽を引っ張り出してくる。アルミのお菓子の空き容器を出してくる。

ハムスターの檻、空容器、大型水槽に、増殖したネズミをべつべつに別居させる。共食いしないようにするため。

母は子供と接触しないため、わたしと父でネズミが共食いしないための準備をする。多めに餌を与える。

「この程度でいいんじゃねえか」 父が言う。父がいいというならそれはそれでいいのだ。それでよくなければいけないのだ。

わたしはただ父の意見の絶対的な賛同者としていつもそこにいるだけだ。それがわたしの役割だから。

檻の中の親ハムスターには餌容器いっぱいのひまわりの種とビスケット。

アルミの空き容器にいれた子供たちのほうにもひまわりの種とビスケットと果物をいれ蓋を閉める。

高さ30センチ幅50センチくらいもある大型の空水槽に入れたのは親指二つ分くらいにまで成長した2匹のきょうだいハムスター。

父はなぜか嬉々として今までになくネズミに関心を向ける。わたしは内心父にどこかにいってほしい。

わたしの不在中にハムスターの身に起きることは私の責任になるのだから、

今にはない時間とわたしの不在の中にある責任を今ここで負うためにネズミの管理をわたしの考えと行動に今ここで一任してほしい。

父とわたしが何かを一緒にやるということは私がわたしの意志と感情と思考と決定権と選択を放棄してすべての決定を父に譲渡することだから。

新聞紙を敷き詰めた殺風景な水槽の中かさかさ音を立てながら不毛にくるくる歩き回る2匹の子供を父はなぜか、

妙ににやけて水槽を覗き込み「お別れだから奮発してチーズでもやりゃどうだ」チーズを投げ入れる。

2匹は今まで見たこともないがっつきを見せてああネズミだからチーズが好きなんだなと腑に落ちる。

夢中でチーズをほおばるネズミを見届けて何かやり遂げたようにわたしと父は家を後にする。

親ネズミの檻は家の外、玄関の脇に、子供の空き容器と水槽は家の中に。

長野から帰省すると真っ先に親ネズミの檻に駆け寄る。

檻を覗き込んでわたしは一瞬自分が見ているものを言語化できない空白に向き合う。次の瞬間総毛立つ。

親が両手で抱えながら食べているつぶしたイチゴのように不自然なくらい真っ赤なもの。

家族が留守中に生んだ子供を餌がなくなって飢えた親が食べていた。

軟骨を噛み砕く薄いセロファンをへし折るようなぺきぺきという音が響いていた。

親は2週間ぶりに帰ってきて檻を覗き込んでいるわたしを自分が生んだばかりの赤い子供を食べてさらに赤くしながら見つめかえした。

一心不乱に租借しながら。

わたしは声を上げてケージを開けて親の口からひき肉状の肉塊になっている子供を取り上げようとした。親は食べ物を奪われるのに抵抗した。

取り上げようとするわたしの手を体でさえぎって、自分の手でかいこんで食べ物を奪われる前に子供の肉を噛み砕いて飲み込んだ。

わたしはそれが子供と自分のどちらかが生き残らなければならない選択に追い込まれたとき、自分が生き残ることを決断した親の、

子供の弔いの為に自分の罪を噛み砕き飲み込む行為、子供を自分の一部にすることで生きさせようとする親の、

必死の贖罪行為のための抵抗に思えてたじろいだ。

わたしは一瞬自分の手が子供を食事する選択を下した親の唯一の贖罪行為を取り上げるという罪深いことをするようで、

親の口元から子供の肉片を取り上げようとする手をためらった。

一瞬後、それはただ単にネズミの唯一の食料を奪われまいとする動物本能でしかないと思い直した。

親はわたしの手に食料を取り上げられることに激しく抵抗しながら子供の肉を完全に食べ終えた。

いまさら肉片となったこどもを取り戻しても仕方ない、わたしはなすすべなくそれを見つめながら、

とりあえずまだ生きている生まれたばかりの子供を親から避難させた。親は飢えたぎらぎらした目で次の獲物を物色しているように見えた。

わたしに親を非難し子供を救う資格などあるわけがない。その状況を作り許したのは私だから。

とりあえず親には餌を与えた。家の中の子供の様子を見に行った。容器の蓋を開けるとこちらも共食いをしていた。

子供は大きくなっていたため死体の有様が無残なことになっていた。

腹をかっさばかれはらわたを剥き出しにされた死体が仰向けにごろごろ転がっていた。

その脇にかすかすになって干からびた茶色く変色した果物の成れの果てと思えるものが転がっていた。

5、6匹いたうち2匹ほどしか残っていなかった。

今まで真っ暗闇の中にいたためか役目をなくした目を瞑りながらこちらも必死の勢いできょうだいの肉を貪っていた。

あの親ネズミのような妙な、自分のしていることがなんであれ相手が誰であれ、客観者、部外者に邪魔され環境を変えられまいとする、

自分を貫こうとするような没我的な依怙地さは子供にはなかった。

親のようにきょうだいの肉をわたしに盗られまいとする行動もなくむしろ自分から進んで兄弟の死体から離れてわたしのほうに寄ってきた。

環境が変わることを望んでいた期待と一致する事態を歓迎してのことだと思った。

だとしたらあの事態を変えるわたしの存在を歓迎しない、むしろ告発する目つきをしてわたしを撥ね付けた、

親の心理はいったいどういうものだったのだろうという思った。

あらためて親の様子を見に行くと、わたしが与えたひまわりの種や餌用ビスケットを子供を食べていたときと同じ一心不乱さで食べていた。

脇に転がって啼いている子供のことも自分が食べているものが何かも念頭にないように。

だとしたらあの憑かれたように子供を食べる姿が何か決意的なもの、意思的なものに見えたのはわたしの錯誤で、

ただ飢餓感からきたやはり動物本能的なものだったのだろうと思った。

ただわたしの存在を拒み通すようにケージの奥にうずくまって一心にビスケットを食べるネズミの硬い背中が、

子供を食べることになろうがビスケットを食べていようがわたしがいようがいまいが、ここにいる限りどちらも同じことなのだと、

慣れ適応していかなければならないだけのことなのだと諦めきった悲愴な決意を感じさせるようなのがわたしの気のせいなのかはわからなかった。

ここで半ば忘れていた残りの二匹が入れられていたもう一つの巣を思い出しおそるおそる水槽のほうへ様子を見に行った。

ぐちゃぐちゃの赤い肉塊、造詣を破壊された体、そんなものを予想しながら水槽の中をのぞきこむと、

そこには一瞬敷き詰められた灰色の新聞紙の乾いた海の中に淡い色のハムスターの姿を見失った。

一瞬逃げたかと期待して目を凝らすとすみっこに小さい棒状のウンチのように転がっている2匹の死体があった。

どこも欠けていない、破損していない。共食いはしなかった。不思議に思って一匹の死体をもちあげてみてぎょっとした。

苦悶の表情で目を瞑っている顔。わたしと父が分かれの手向けに置いていった食べかけのチーズの欠片、

小指のつめの先ほどの大きさになったのを執念さえ感じられるほど強く片手で握り締めていた。

もう一匹はダイイングメッセージ風のものを手にもつこともなく行き倒れたように、

前のめりに倒れたようにうつむけで死んでいたのでほっとした。

親も他の子供たちも共食いをするほど飢餓ていたのにどうして水槽の中に入れていた彼らだけは食べ残しのチーズを大事そうに抱えたまま、

共食いをするのではなく死んだのだろうと不思議に思った。

ふと思い当たったのはわたしと父は、この空っぽの水のない水槽に閉じ込めた二匹に餌をやりはしても一滴の水も与えないままだった。

命には水が必要だということを父と私は知らなかったのだ。父とわたしは命のことを知らないから。

飢えよりも2匹は水のない水槽の中で水に渇えて死んだ。

だとしたら飢餓感を覚えるよりもっと早く、共食いをする食べるという本能よりもっと先に水に渇えて死んだ。

だからチーズを食べ残したまま。なおさら水に渇いて死んだ。けれど唯一の生命線であるチーズを無邪気に一生懸命手放さずに。

チーズはねずみの一番の好物だから。

小さいハムスターの小さい手の中の小さな歯で小さくかじりとられてちっぽけになったチーズはからからに干からびていた。



わたしたち家族はネズミの共食いという久しぶりの話題を見つけて大騒ぎだった。

姉はあからさまに「いやぁいやぁ」とはしゃいだ。父も母も余興のようにはしゃぎ気味だった。

このころから家族と別行動をするようになっていた兄は自室に引きこもって何の反応も起こさなかった。

わたしたちはマンションの庭に死んだ子供たちを埋めて木切れの墓標を作り手を合わせた。

そのとき生まれた子供もその後に生まれた子供も栄養不良かストレスなのか年々小さくなり生まれたそばから死に、

親兄弟に共食いされ一匹も生き延びなかった。

そのうち彼らが共食いすることにも慣れ、またやってる、後始末をしなけらばならないのが面倒、だけを考えるようになった。

そのとき生き残ったネズミも親もみんな結局死に絶えた。

ガラスケージの中で鑑賞されこちらに何も干渉せず、こちら側から干渉されないわたしたち家族にとって、

動いて遊べる人形以外の意味を持たないまま檻の枠組み以上に育つことも、産み増やすこともなく、飢え、渇き、糞尿まみれになり、

共食いし合いながら死に絶えた。

その後何度もまるで壊れたおもちゃを買い換えるようにネズミのつがいを買うことになるけど、

結局彼らはみんな檻の中に限定された生命を檻の枠組み以上に飛翔させることなく死ぬ。

マンションの庭にはわたしたち家族が購い閉じ込めた檻の中からついに飛翔できなかった小動物たちの死体が、

最期までその生命を封印されるようにわたしたちの手によって累々と土中に埋められた。

わたしたちが可愛がっていたのは自分の思い通りになる命だった。だから可愛がる振りをして握りつぶしつつきまわし放り投げ弄んだ。

自分の手のひらの上に乗る命を自分の手が思い通りに左右できる支配欲と優越感だけが満たされていた。飼育するふりをして殺していた。

相手にはなくて自分にはある力を感じて優越の恍惚感を感じるために。親が人間の本質がそうしていたように。

だけど彼らは確かにわたしの中の空白を何かで埋める存在だった。

人間が単純な命以上の欲や思惑で強権を働かせ、分け前を溜め込むのと違い、食欲、排泄、住環境、まっとうな基本的人権以外の何ものも必要としない、

ただ単純に生きることに必死の命を見ていると、物珍しさという他者への関心を呼びおこされ、何かうらやましく、見ているだけで飽きない。

ただ生きるだけのことにまっすぐただ生きること以上を欲する人間に目をつけられ、命を切り売りされる。

ただ生きる以上を欲する人間の欲望の杯に注がれる贖罪の血。彼ら動物はわたしにとって人間よりは愛しかった。

彼らの温もりは人間よりはリアルだった。

お互いの存在を否定し合い、お互いの音を消音しあう静まり返る家の中で家族の誰かが、微かにでも物音を立てたると心臓がつねられるように慄き、

お互いの虫食まれた神経に疼く痛みを引き起こすのにネズミが檻の中を忙しなくくるくるかさかさ動いている物音を聞くのは、

誰の命も否定しない自分の命も否定しないただまっすぐ生きる命の確かさを感じさせる音で、胎音を聞くような安心感と温もりがあった。

わたしの家族の中で戦士し斃れた死屍累々の動物のうえに何代目かの動物のつがいを購入したとき、

今まで認めたことのないもの、個性のようなものを感じた。感じたいと思ったのかもしれない。

こちらから一方的に干渉するだけのお人形では物足りなくなり、相互干渉する他者としてのお人形がほしくなったのかもしれない。

そのころには親の関心は完全にこの話題から離れ、慣れ、わたしが買ってくるネズミはわたしが唯一持つことのできた一人遊びの道具だった。

そこで自分だけの世界を醸成できたのかもしれない。

親の関心を離れ、そのために親の「こうしなければならない」のないわたしだけが見届けわたしだけのやり方で運営する現実、

親のやりかた感じ方考え方でものごとを進めなければならない、他者のリアルではないわたしだけのリアル、わたしのリアルだという。

わたしはそのとき初めてネズミに心を開いて自分なりに感じ考え主体的に関心を持ったのかもしれない。

親の感じ方考え方ではなく自分なりのだから親に反逆することになるからこっそりとばれないように密かにそのネズミに心を開いた。



彼らは子供を産んだ。わたしはそのとき初めて驚嘆した。

数百円で買える命、だから数百円分の価値しかない命でしかなかったものがどこからも、何によって購うこともなく値段のない命を産むという驚嘆、

値段のつけられない命のあることの驚嘆。

命は人間が世界に付けた価値値段を超えた以上のところから生まれてくる発見の驚嘆。わたしは初めて親ネズミに畏敬の念を覚えた。

親ネズミはわたしの感動とは無縁に餌をあさっていた。その無頓着な命の創造行為にすら感動した。

それでも親の下敷きになって死んだり親が共食いしたり不十分な世話のための栄養不良で子供は次々に死んでいき、

やっと親指くらいの大きさになった子供が2匹だけ生き残った。日々体毛が濃くなり大きくなっていく。

金銭に購われることなく命はパン種のように未来に向かって膨らんでいく。

命が尊いのは、命が「今」だけではなく今にはない、これから起こりうる未来の可能性を開くものだからかもしれない。

命は前に進みはしても後ろに戻ることはない。それが命が生きるということ、命が本来的に望むこと。

だから前に進もうとする命を断ち切ることは罪なのかもしれない。

命を奪うことそれ自体が罪なのではなく生きようとする命の「自由な意思」を奪うことが罪になるのかもしれない。

わたしがやってたこと、私の家族がしてたこと、わたしたち人間たちがしたかったことはいつも自由な意思の殺害、自由のコントロール。

だからこの二匹はわたしにとって特別だった。

メスと思える、母親譲りの茶色と白のぶちの小さいのとオスと思える一回り大きい父親譲りの薄茶色一色の大きいの。

二匹とも今までのネズミにない人懐こさがあり今まで多くのネズミを毒牙にかけてきたわたしの手中に、

無抵抗に身をゆだねる弱々しさ生命力のなさがかえって不安だった。

人懐こいというより大人しく弱々しくあるところから大きくならないようなのが気になった。

体毛も薄く線が細くガラス細工のように今にも壊れてしまいそうに繊細そうなのが心細かった。

わたしは親に食べられないように2匹の兄妹を以前共食いしたきょうだいネズミを入れていたアルミのお菓子の空き容器にかくまった。

小学5生のとき、学校から帰ると真っ先にネズミのかごの前に行く。

玄関脇の打ち捨てられた犬小屋のようにうらびれさびれるままに放置されている檻の中の命を覗き込む。

学校帰りにひきむしってきた猫じゃらしの柄の部分で団子虫のように丸まって眠り、

暇さえあれば眠り、わたしを否定し、わたしの相手を十分にしない横着なネズミをつつき、

恐慌的な反応を見せるのが面白くくつくつ笑いながらネズミの眠りを邪魔し続ける。

彼ら動物たちはわたしが誰にも見せることのできなかったわたしのわがままの相手をさせる唯一の相手だった。

ネズミは植物の鋭い茎につつかれるたびに団子蟲状態から素早い反応で腹を見せて仰向けになり、

相手を引っかき噛み付けるように歯をむき出して四肢を突っ張る攻撃態勢をとる。

しつこくつつくと植物の茎にさっと噛み付く。憎々しげに茎を噛み砕く。そのうちにほんとうにただ茎を食事にする。

ぽりぽりしながらまた寝入ってしまう。動きがないとつまらないのでわたしはまた突つく。

息を強く「ふっ」と吹きかけそれにも恐慌反応を見せるのが面白く哀しい。

哀しみを吹き飛ばすよう残酷になりきるよう何度もネズミを苛める。そのうち眠るのをあきらめてもぞもぞ起き出す。

今までのわたしの虐待を水に流すように無邪気な瞳をして餌をねだったりする無知が可愛くて哀しい。

わたしがどんなに攻撃しても親のようにわたしを攻撃し返さない。

わたしがどんなにダメ人間でも親のようにわたしを責めず見限らずわたしに頼る。

わたしが親にしてしていたこと、底なしの空白に水を注ぐように親に注ぎ込んでいたわたしの労役、わたしが親に分捕られ生じた空白、

それを体面は親に信頼し従い心では親を裏切り殺していた、親に憎みながら従っていた私以上に、

裏切ることと憎しむことを知らないその命で購ってくれた動物たち。

無知な愚鈍さと生きることへの必死さ。

どんなに命を守るために攻撃しても痛々しく必死になっても意味はないのだということを動物たちは知らない。

所詮わたしの、人間の、親の手にかかれば動物たちの命などひとひねりなのだ。哀しくなる、愛しくなる。



その日も学校から帰って真っ先にネズミのケージに行く。

ケージの上にぞんざいにおいてある容器の中の子供たちとその日は無性に遊びたくてたまらない。

ランドセルをケージの脇、玄関前に放り出す。

一度こうと決めたらわき目を振らない一心さ酩酊したような夢中さにその日に限って取り憑かれた。

いつもなら用心深く母の動向を監視し機械的にいつもの学校帰りの手順を踏んでいた。

ランドセルを廊下に放り出しているのが見つかったらただじゃすまないとわかってる。

母に見つかるとまずい、まずいという声が他人事のようにぐるぐると頭に響いている。

ゲームやテレビの一番面白い興奮時と重なって尿意を催しそれを無視しなければならない切迫感みたいな。

とりあえずランドセルはその辺に放置でなくて廊下の壁にぴったり付けて誰にも邪魔のならないように、

見つけられて母の攻撃の材料にならない努力をした。

空き容器の中の子供ネズミと戯れてると背後からの串刺しにされるような視線の気配で振り返った。

母が買い物袋を提げて無言で仁王立ちして私を睨んでいた。

「何やってるの。」抑揚のない声。わたしは凍りついた。

いつもすでに母が自分の中で答えを出している誰の返事も期待しない問い。だからわたしは答えない。すでに判決は下っているのだ。

わたしはゆっくりと立ち上がって母と対峙した。

「何やってるの。」また抑揚のない声。

こんなところに置いて誰かが踏みつけたらどうするの、こんなところにおいたら邪魔でしょ、汚いでしょ、誰が掃除すると思ってるの、

誰が家を管理してると思ってるの、誰が金を払ってると思ってるの、誰があんたのせいで金を払うと思うの、お母さんとパパなのよ。

母の抑揚のない言葉の羅列がテープの繰り返し再生のように流れる中で、私は廊下の壁にくっつけて置いてあるランドセルを横目で見た。

3戸しかない部屋の前、ネズミのケージ以上にはでしゃばっていないランドセル、人通りのないマンション、

誰かが思いついて意図的にここにやってくるのでない限りランドセルが踏み潰される危険はない。けどそれは問題ではない。

母が何を言おうとも何をしようとも母がいいたいことをいい母がしたいことをするためにわたしは存在してるのだ。

まちがっても存在することのないよう母の存在を妨げるわたし自身として存在しないように存在する。

私は母の思い通りのものをぶつける空白の壁。

足元からすかすかした隙間風のような空虚な諦めが立ち上ってくる。母はわたしを責める告発の金きり声に自分で舞い上がり激昂してくる。

わたしは母のしたいことが見えてきた、やりたいようにやらせていた。

母は、金のかかる、世話を要求する、手間を取らせる、母の人生の時間と労力を奪う、母の頭の中の計画通りの行動から外れ、

世界のルールとルールに従っていさえいればいい人間という機能の有り方を知っている母の仕様から逸脱し、

異端するわたしを責め告発し糾弾し非難し指弾し絶叫した。

どうしてちゃんとできない、どうして普通の人間になれない、どうして親が知っている全世界の全人類の、一般的な、外れない、

過ちを犯さない、世間と世界と普通と常識と他人と、おまえは同じでいられない。同じことができない。なんでおまえは親を苦しめる。



母が一瞬でネズミの入った容器をつかんだ。

私は先ほどから彼らを注意しながらでも決して私が気にする先を母に気取られないように注意していた。

母はいつも私のことが何でもお見通しなのだ。

私を最も痛めつけるために最も効果的なものが何なのかを驚異的な察知力で嗅ぎ付ける。

「こんなものと関わってるからこんなだらしないことやるんでしょ?」

蓋の開いた容器の中で激震に見舞われている2匹の子供のパニックに目を見開き、四肢を突っ張らせ、

揺れ動く地面に足を踏ん張っているのが視野を一瞬横切った。

倒れまいと地面に足を踏ん張っても無駄なのだ。

今激震しているのは彼らの運命をなぎ倒そうとしている人間の手、2匹の運命そのものなのだから。

母は容器を持った腕を振り上げた。わたしは目で追わなかった。行く先はわかっていた。

音を立てて内臓が一気にずり落ちるようにわたしの中から何かがごっそりとこぼれ落ちていった。

わたしの中にうずくまっていた闇が膨張してわたしの中身を食って去っていった。

わたしはわたしのなかに降り積もって音も光も喰らって全てを真っ暗にしていく闇だけを感じていた。

母は容器を持った腕を振り下ろし廊下の柵を越して下のコンクリートの地面に叩きつけた。

わたしの罪を声高に裁き真っ直ぐわたしの目を見つめながら。わたしも真っ直ぐ母の目を見つめたまま。

母が興奮すると魚のように真円になる見開かれた薄茶色の瞳。

爬虫類よりも表情のないまばたきしない透明な視線に何もかもが透明に呑み干され、自分が今どこにいるのかもわからない、

母に貫かれ縫いとめられた目だけを残してどこにもいない、私は透明な一対の目玉だった。

魔性の力を秘めた白イタチ、ノロイの視線に魅せられたガンバみたいだ、とぼんやり思った。

真夏の太陽に反射して落下する容器の内側のアルミの銀色がぎらりと光るのが視野の片隅に見えた。

世界が無音になった一瞬後にアルミ容器が地面に叩きつけられる騒々しい音が響く。命が砕ける音。

形骸だけ残して私が崩れ去った後の闇を見つめ、虚空に吹き渡る風のような闇の虚ろな音だけに耳を済ます。

気がつくと母がまだ何か言っていた。わたしを糾弾していた。わたしを責めていた。母の苦しみの根源がわたしにあること、わたしの罪を暴いていた。

母のいわんとすることはそのパフォーマンスで十分わたしにわからせた。

母のルールが作る現実、母がどう思うか、母の存在、わたしの人生の中で何よりもそれを優先する意識を忘れ、一瞬でも母を度外視し、

母のルールを忘れ自分本位の欲求を優先させれば即座に母の天罰が下り母の手の中でわたしの命はひねりつぶされるのだ、今のネズミのように。

動物の命はその見せしめに私の身代わりにひねりつぶされたのだ。

私は私を食らって持ち去った闇に意識を凝らす。今の私にはもう闇しか残っていない。闇に持ち去られた私を闇で形作る。

闇だけを見つめる。闇の声だけを聞く。闇は応える。ゆっくり血が巡り始めるように、崩れ去った私を声が満たす。

いつでも、ころせばいいのだ

いつ、ころしてもいいのだ

いまではないだけだ

いま、ころさないでおくだけだ

いま、ころさないでおいてやるだけだ

私はようやく母に縛られ母に縛り付けていた視線を引き剥がし、足元に視線を落とす。闇に押し流された自分が今いる場所を確認する。

崩れ去った自分が今いるところを目視する。少しでも身動きすればばらばらになるかもしれない。

今は私の手となり足となり私の意思を満たす闇が一歩を踏み出す。

いま、ころさないだけ

一歩

わたしが、ころさないでいてやるだけ

一歩

いつでもころせばいいのだから、いつ、ころしてもいいのだから

一歩

いまだ叱責を続けている母に流し目をくれ脇をすり抜けた。「ちょっと、きいてるの、何考えてるの、まったく。」

わたしが背中で置き去りにした母が背中でわたしを置き去りにして家の中に入って玄関を閉めた。

もしかしたらまた家を追い出され、玄関の鍵をかけられるかもしれないと思ったけどそれでもよかった。

むしろそうしてほしかった。二度とここに戻らなくてもよかった。ここにいてどうせ命を喪うだけなのなら。

一方通行の砂時計のように指の隙間から命を取りこぼし命を喪い続けるだけなら。

堕ちた2匹のもとにいく。

二匹を探す。容器が植え込みの中に転がってる。思い切りふり落とされたから死体さえ見つけるのが難しいかもしれない、不安に思う。

横倒しになった容器を直してみる。そこにいた。正確には一匹だけ、どういうわけか横倒しになった容器の中に残っていた。

妹のほうだった。倒れるでも伸びるでもなくただ座っている格好だった。ただ目を瞑り浅い息を小刻みに繰り返しじっと動かない。

様子がおかしかったけどもう一匹が不安だったので妹をそっと握り締めあたりを探す。

今、命が世界から出て行こうとしているのに命が出て行くための引き裂き傷も破れ目も綻びも世界に開いていないことが不思議だった。

今、ひとつの命の時間が終わろうとしているのに世界の時間が続いていること、喪われた命がもう足跡をつけることのない世界に、

わたしが今も足跡を残し時間を刻んでいるのが哀しかった。少し離れた植え込みの中にもう一匹が小石のように転がっているのが見つかる。

薄い黄土色の小さい塊に、真夏の攻撃的にぎらぎらした陽光の中に一欠けらの黄昏を見つけたような安堵感をおぼえる。

見つけたところでわたしにできることはない。わたしにできることは見つけることくらい。

自分の手で殺した動物を介助する気など親にないことは明らかだ。わたしにできることは、命の終わりを看取ることくらい。

動物は自分を殺した人間などに見つけられたくはなかっただろう。

一瞬見つけなかったふりをしてこのままここに放置しておこうかと考える。彼らのために。

最後くらい彼らの命を人間の手から彼ら自身に奪い返してやるべきではないか。でも2匹とも幸いにして不幸にして、かろうじて生きていた。

何とかすればわたしでも延命できるかもしれない。欲が出たのだ、人間の殺しては生かす自分本位の欲が。

人間はどこまでも自然のままにおくことをせずどこまでも生と死を所有しコントロールすることをやめない。

どこまでも他者の、自然の、動物たちの意思を自分の意思の支配下におかずにはいない。

自分の意のままにならない生と死を、罪と悪と呼びただあるがままに生と死の満ち引きを繰り返すだけの自然を、

自分本位の計算で足し算したり引き算したりしてそれぞれがそこにあるがままに所有している、

自主的な生と死の自由を管理下に置き、コントロールし自然があるがままに持っている、自主責任性と自由性を奪う。

人間の手は何かを創造する線を引くため作られているから。

人間の手は自然を閉じ込め、囲い込み、線引きし、所有し、中と外、善と悪、自由と不自由の檻の線を引いて創造するようにできているからだ。

自身の空虚な手の中にすでに創造されたものを閉じ込めることで初めて何かを得られるようにできているからだ。

兄は目を瞑ってぐったりと倒れている。

わたしになでられたりさすられたりしていると息を吹き返し、眠りすぎたあとのようにものすごい勢いで、

でも半睡しているように目は瞑りながら毛づくろいをはじめた。活発な様子にわたしは安心した。

問題は妹のほうだった。手をそっと開くと横倒しになり苦しそうにえずいていた。

人間が何もでないまま吐くようなえずく動作を発作的に繰り返す。目を開かない。わたしは一瞬もう思考力のない頭、次の行動に迷う。

自動的に立ち上がる。マンションの人が共同で使う水道のところにいく。蛇口をひねり水を出す。手に掴んだネズミを水にさらす。

ネズミが濡れる。溺れたようにぐっしょりになる。なんのつもりだろう、とぼんやり自分に問いかける。

ショック療法のつもりかもしれないとぼんやり自分が答える。

ショック療法のつもりかもしれないが功を奏さずえずきがますますひどくなる。

ぼんやりあせる。おなかをさすってみる。心臓の辺りをこすってみる。えずきがとまらない。

命の黄昏の中、道を失くした生と死の狭間の中、わたしは迷子になったネズミとともに途方に暮れる。

子供らしく泣こうとしてみる。泣く感情が見つからずうろたえる。次の行動に迷う。

容器の中に元気を取り戻し始めた兄をいれケージの上に置き、死んでも生きてもいない妹を握り締めたまま途方にくれる。

このまま意地でも家の外にいてネズミの死とともに世界の外にわたしも身を置き続けようと思う。

でも父が帰ってきたら、家の外にいるわたしを、また家を追い出されたのか、家を追い出されるような馬鹿をしたのかと嘲笑されるかもしれない。

わたしが意気消沈していたり悄然としていると弱みを握ったように嬉々と嘲笑するように。

「そうなの、なんとかいってやってよ」愉しそうに母に経緯を説明され今度は父に罵倒される。

そうしたら母によって一度死んだ命が今度は父によって辱められ二重に殺される。

わたしは父という再びの殺戮を避けるためにやむなく家に入る。

母の直情的な攻撃も怖いが父の精神・人格攻撃のほうが怖かった。肉体的な暴力と違って人格が壊されていくのは防ぎようがない。

無言で家に入った。すぐの台所で母が憤懣を撒き散らしながら夕食を作っている。

わたしは死にかけのネズミを手に持って見せしめのようにテーブルの前に坐る。ネズミはまだえずいている。

いつまで続くのだろうとぼんやり思う。延長戦に焦る。

「あんたさっきお母さんの言ったことちゃんとわかったの、ちゃんと聞いてるの人の話、ちゃんとしなきゃダメなのよ。」

母がいっていた。死にかけの動物を持って食卓についたわたしの前に母の作った夕食の皿が置かれる。

人間が生きるための食事が湯気を立てている。私の手の中で死につつある命の前で。

私の手の中の命が死んでも、私は生きるために私の魂を握りつぶす母の手が作るその食事を食べるだろう。

私は私の中の命が死んでも私が生き延びるための闇を喰らうだろう。

私は喰い続けるだろう。

人間の手に命をくびり殺されながら、人間の手に魂を握りつぶされながら。

人間の命を奪うものは人間と動物と二種類いるけど、動物は人間の魂をに命を与えることができる。

動物も人間もの命も魂も殺すことができるのは人間だけだ。

「やだ、そんなもの持って、家に入らないでよ」死にかけのネズミを持った私に母がいう。わたしは泣こうと頑張っても泣けない。

ネズミから顔を上げて母を見返す。耳の中で影のような何かが囁く。そのざわめきが洞窟に響くように全身を駆ける。何と言っているのか聞き取れない。

母は目を背け「ご飯食べちゃいなさい。」いい放つ。

他の家族が帰ってくる前にネズミのえずきはだんだん弱まっていき、静かになっていきついに止まる。私はほっとする。

父が帰ってきたら父という味方をつけた母はこの状況を、私の手の中で死んでいくネズミを散々嘲笑する。ネズミが死ぬのは一度で十分だった。

母が機械的に食事を提供するからにはわたしは機械的にそれを消費しなければならない役割だ。

一切の運動を止めた動物を見た。今までここにあった命はこんなにも忍び足でどこに逃げ出していったのだろう。

人目を忍んでいくほどそこはここよりも魅力的なところなのだろうか。

なんだかここに取り残されたわたしのほうが負かされ惨めな世界の取りこぼしのように思えて哀しかった。

それがこの動物の死に初めて感じたぼんやりした哀しみだった。哀悼ではなかった。動物よりも自分を哀しんでいた。

死体を白いティッシュにくるんだ。

親よりも世界中のどの人間の命よりも重い命を喪失した分わたしにとって世界は軽くなったようだ。

私は母の食事を食べた。

いつ母がわたしの行状を父に告げ口するかと伺っていたけど母は話題をはぐらかすようなテンションで父に接していた。

これは母が父に知られたくないことのひとつなのかもしれないと思った。

その動物の死体をゴミ箱に捨てようとしてかろうじて思いとどまった。人間としてと思った。

意思的にそう思わなければやってしまいそうだった。死を悼む気持ちがなかった。

この世界に無様に置いてきぼりを食らっているのはわたしのほうなのだ。



このとき生き残った兄をあるとき親のもとにおいておいたほうが群れの心理で守ってもらえて安全かもしれないと思った。

弱い子供、人間の弱い状況にこそまるでつけこむように攻撃してくる私の親に狙われず安全かもしれないと思った。

久しぶりに親子を対面させてみる。子供を手に持ちケージ越しに親に近づけてみる。

親はケージの中を忙しく動き回る動きをぴたりと止めケージ越しに突き出した子供の鼻面を嗅いだ。

不気味なほど長い間そうしていた。妙な静寂が流れた。子供は人懐こく、親とじゃれたいそぶりを見せて積極的に近寄る。不穏な静寂が続く。

唐突に親がケージが激しく揺れるほどの勢いで親が子供の鼻面に思い切り噛み付いた。子供が悲鳴を上げ、啼いた。

あわててケージから離すと子供の鼻の付け根から血がにじんでいる。鼻そのものがもげそうだった。

それくらいの処置しかできず、湿らせたティッシュで血をふく。子供は痛がって啼く。親は興奮して走り回っている。

憎くなってケージをぶっ叩いたので激震に見舞われたケージの中でさらにパニックを起こしたネズミが狂ったように走り回る。

人間の親からはそのまま命を落とした妹とともに命を手から振り落とされ実の親からは敵対行動を示され、

病院に連れて行く社会性も自力で怪我や病気の処置するスキルも持たず社会的に孤立し、

自分の命さえ自分の手に負う責任能力もない子供一人の手にゆだねられたこの子供の行く末が見えた気がした。わたしの運命のように。

それから数週間後くらいに子供は一定の大きさ以上に育たなくなり餌を食べなくなる。親に鼻を噛み切られかねなかった一件を思い出す。

あのせいかと思う。妹をなくしたせいかと思う。たった一匹で世界に取り残されたように生かされているせいかと思う。

もともと活発な子ではなかった。ときどきじゃれるときかみつくけどかむ力がとても弱い。

歯自体が透けるほど薄く小さく未発達のような気がする。虚弱児か未発達かもしれないと思う。

私一人の手の中に命を抱えて誰にも声の届かない海を漂流するようにわからない、どうしようもない、命の助けを求める人間が誰もいない。

米を一粒口元に持っていってみる。濡れた音を立てて半分くらい食べる。半分も食べてくれたことに嬉しくなる、半分しか食べられないことに哀しくなる。

何か栄養のあるものを食べさせたいけど思い浮かばない。私一人の力では何もできない。

ティッシュの空き箱に命が漏出しつつある軽くなった子供を横たえる。

どうしていいかわからないけど動物を家に入れないという母のタブーを公然と破り、体を温める暖を与えるため、

電気の暖かさがあるからテレビの上に置いてみる。テレビの前のソファの上に母が寝転がってテレビを見ている。

テレビの前にいるわたしのことよりテレビの中の世界のことのほうが母の関心を引いている。

ティッシュを敷き詰めた白い空き箱の中。命が水をほしがるかどうかもわからない子供が中に水を浸したティッシュだけを置きざりにして眠る。

白い棺桶のような箱の中の子供は翌日、独房の壁際を出口を探して彷徨ったように身体を這い引きずった跡を残して、

這いずり通して行き倒れたような格好で前のめりに倒れて死んでいる。最後はひとつふたつの黒く硬い花の種のような糞が残る。

なぜかネズミの亡骸よりも糞のほうにネズミの痕跡を見出す。糞をティッシュにくるんで箱にしまう。その糞はその後何年も箱にしまわれてた。



それ以来ネズミを買うことはなくなる。

結局私の手元で生まれ、生き死んだ命たちの一つにも私は名前をつけることがなかった。

私自身の名前がないからだ。私の名前が見つからないからだ。

私たちにとって動物たちは不特定多数の名前のない動物であり、私たちは動物にとって不特定多数の名前のない人間だった。

私の家族の誰一人として彼らを名前で呼ぶものはなかった。

彼らの飢餓も渇きも痛みも私たちにとってそれは名前も顔もない不特定の誰かでしかない。

私の手に信頼にも見えあきらめのようにも見え無抵抗に身をゆだねる動物の無力さを見ると、

命を委ねられる私の手が、委ねられる命の信頼の手を裏切る手でしかない命を手放す手でしかない、

生を取り零す手でしかないすでに死の闇に満たされている手だと思う。

それが信頼というより私を裏切る身の自由の余地もない動物たちがいくつもの命を張ってわたしに教えてくれたことへの唯一の恩返しだと思う。

私にとって動物たちは、生から死に向かう、生と死をつなぐ命のただ一本の道を常に私の前を歩いて真っ直ぐに軌跡を引いて道を行く、

人間の暗い迷い道を往く私のか細い道標になってくれる存在。

事態を表現して伝える相手は誰もいない。わたしの表現を許し、反響し、待つ人は誰もいない。

わたしの表現を受け止める手を持つ人は世界に誰もいない。

だから黙って口をふさいで生の表現をせき止めたところから生の壊死、死の漏出が始まるようにゆっくりと魂が虫食まれるのをただ見つめる。

生の表現の自由な出口をふさがれたとき、他の細胞から切り離されて腐って死んでゆく細胞のように、

生の脈動を沈黙させただ自分の死を見つめている。

声のない動物たちの声に誰にも届かないわたしの中の声が呼応する。

この世界でもっとも弱い声を代弁してくれる動物たちに私の中の声なき声を祈る。

人間たちのやることにはいつもどこか嘘がある。嘘を作らずにはいられない。

人間はリアルの命そのものだけではいられない。自分たちの存在の嘘臭さから逃れることはできない。

私がこの世界で最も信頼しているひとたちは動物たちだけだ。

命と生と死だけを真っ直ぐに見つめる、嘘のないリアルの体温だけが物語る動物たちの声なき声だけだ。

わたしは信用に足らない人間なのだ。動物たちにとっても人間たちにとっても。その戒めを忘れないこと、それが動物たちの死を忘れないこと。

そのわたしの前に今度はウサギを飼って持ってきたのは母だった。

・・・・・・・・・
・・・・・

サフィと私の関係を要約すれば、対等な関係ということだろう。

自分と違う種であるにもかかわらず、サフィを「個性あるもの」とみなしているといいたいのだ。

もし彼らが個性あるものとして私たちとかかわり、私たちも個性あるものとして彼らと関わるなら、彼らと私たちとが"個性的な"関係を持つことは可能である。

もし、そのどちらかが他方の社会的な主体性を認めなければ、そのような関係は阻害されてしまう。

言い換えれば、ある人間が、ヒトではないけれども個性を持った動物を一個の主体として見ずに、単なる無名の対象としてしか関係しないとすれば、

その動物のほうではなく、ほかならぬ人間の側こそが「個性的存在性」を喪失しているのである。



トマス・アクイナスやオハーンは、動物と人間とは友だちになれないというが、彼らは、相互主体性との命ずるところに、

自発的にお互いに身をゆだねるという可能性が共通の基盤をなすということを無視している。

相手に(それが人間であろうとなかろうと)身をゆだねるといは、相手を操作しようとしなくなること、

彼らの私たちへの関係の仕方を操作しようとしなくなることなのだから。

操作できなくなるのは不安だが、それによって得られるものを考えれば安いものだ。

こうして、私はサフィを「個性あるもの」だとみなし、サフィも私をそう思ってくれるので、私たちは友人でありうる。

私は友人ならば誰にでも願うこと――つまり自己表現する最大限の自由と、最大限の幸福―― をサフィのために願っている。



動物は機械のように生きている、とデカルトはいいました。

動物とは、それを成り立たせているメカニズムにすぎないというのです。

もし動物に魂があるとすれば、それは機械にバッテリーがあるのと同じように、動かす活気を与えるためだ。

思考、思索に対して、私は充足感、肉体が与えられているということ、存在しているという感覚を対峙させます。

この存在の感覚とは、自分はものを考える一種の幽霊のような思考機械だという意識ではなく、それとは逆に、

自分は空間に広げられる手足を持った肉体であり、この世に生きている存在だという感覚であり、激しい感動的な感覚なのです。



「他の存在の立場になって考えて見られる範囲に限界はありません。共感的想像力に限界はないのです」

「言い換えれば、彼らは心を閉ざしたのです。

心とは、時々他の存在を共有できるようにしてくれる"共感"という能力が宿る聖なる所です。」

ところが、たいていの人間は動物に関して想像力の翼を広げることはしない・・・詩や小説は、哲学よりも、この想像力に強く訴えかけるものなのである。

哲学者とは違って、詩人は動物の経験に「共感すること」から始まる。

それによって詩人は、この世で生きている感覚を経験しうる動物ならどれでも殺すことは罪であるとわかるようになるのだ。

だから「動物のいのち」はガーバーが主張するように、動物のいのちを問題にしているのと同様に、文学の価値をも問題にしているのである。

・・

クッツェーが私たちに残した問いの中で中心となるのは、こうした倫理的衝突の解決、言い換えれば対立する感受性同士の和解が――

哲学的にせよ詩的にせよ心理学的にせよ――いったいありうるのかどうか、という問いなのだ。

見方によれば、「共感的想像力に限界はない」という動物をめぐるコステロの主張は、

人間同士におけるいわば「隣人」との関係において試されているともいえるからである。

動物の生のあり方を問う本書は、そのまま人間の生のあり方を問う。

・・

「動物にとって、いのちが私たちにとってほど問題ではないと言う人はみんな、生きようと闘っている動物を自分の手で抱えたことのない人たちです。

動物の全存在が、その闘いにありったけ籠められているのです。」

「動物たちは私たちに立ち向かうのに、沈黙しか持っていません。

何世代にも渡って、勇敢にも、私たちの捕虜は私たちと話すのを拒否しています。」



「それでも、いまだに私たちを憎む動物がいます。

たとえばネズミ。ネズミは降伏しなかった。

彼らは下水溝の中で地下組織の部隊を結成しているの。

勝利を収めてはいないけれど、敗北もしていない。

まだ私たちを打ち負かす可能性はありますよ。

もちろん私たちが滅びたあとも生き延びているわ。」

・・

この世で何の(宗教的な)理由もなしに動物を殺して犠牲にしたものは、

その動物の体に生えている毛の数と同じだけ、死後に生まれ変わっても生まれ変わっても非業の死をとげるのである。

草、いけにえの動物、木、(いけにえ以外の)動物、そしていけにえとして殺された鳥は、高い身分に生まれ変わる。

これがマヌの述べたことである。 「マヌ法典」

「動物のいのち」J・M・クッツエー

・・・・・

ノロイはそういいながら、ガンバの目をじっと見つめました。

ノロイの目は月の光を反射するというより、のみこんでいるみたいに、深い青に近い茶色に見え、

その目の色に、ガンバは思わずひきずりこまれそうになります。

ガンバも、けんめいにノロイの目を見返しました。

ガンバの方は、黒く、キラリと光る目です。



もはや戦いではありませんでした。

しかし、それにもかかわらず、ネズミたちは決して悲鳴一つ、泣き声一つあげずに、" 生きぬこう " としていました。

ネズミたちの抵抗はおどろくべきものでした。

どのネズミも、体力の最後のときまで、いや、体力を使い果たしても、なおかつ、意志だけで戦い続けていたのです。



「どうやら、ノロイ、勝ちはお前だ。わたしたちは敗れた。」

ガクシャは顔半分を海につけていいました。

そして、「もう言葉はない。」

「いいやガクシャ、まだある。ぼくたちはまだ闘う。

まだぼくたちは生きているんだからな。」

「冒険者たち」斉藤惇夫

・・・・・

食わずには生きてゆけない メシを 野菜を 肉を 空気を 光を 水を 

親を きょうだいを 師を 金もこころも 食わずには生きてこれなかった 

ふくれた腹をかかえ 口をぬぐえば 台所に散らばっている にんじんのしっぽ 鳥の骨 父のはらわた 四十の日暮れ 

私の目にはじめてあふれる 獣の涙

「くらし」石垣りん

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