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1. 2008/12/28 「Re: かたい話」 分類: 雑記 [この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラックバック送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:5個# 37moto さんの記事、『かたい話』の一部と似たようなことを、私もぼちぼち書いていた。 # 出すか出さないか迷っていたが、記事を読ませていただいて、 # 37moto さんに責任の一部をなすりつける形(笑)で出してみる。
『“ポニョ"を作りながら考えていたこと』(Business Media 誠) http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0811/27/news004.html (前編) http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0811/28/news011.html (後編)
11月20日に宮崎駿監督が行った日本外国特派員協会での講演に関する記事である。 外国人記者が相手だと、色々としがらみを忘れて言いたいことが言えるようで、なかなか興味深い発言が多い。 わけても、私は、このあたりに特に興味を覚えた。
(後編より) > (主人公が若い女の子ばかりなのはなぜですか? 今後もこの傾向を続けていくおつもりですか?) > > 今、スタジオの若いスタッフに、 > 「君たちは8歳の男の子を主人公にした映画を作らなければならない」と私は言っています。 > それはとても難しい作業なのです。 > > なぜなら8歳の少年は悲劇的にならざるを得ないものを強く持っているからです。 > 知らなければいけないことが山ほどありすぎ、身に付けなければいけない力はあまりにも足りなくて…… > つまり女の子たちとは違うのです。 > 少女というのは現実の世にいますから、極めて自信たっぷりに生きていますけど、 > 男の子たちはちょっと違うのだと思います。 > > それは私の不幸な少年時代の反映なのかもしれませんが、 > 若いスタッフには「君たちの幸せな少年時代を反映させて、少年を主人公に映画を作れ」と言ってあります。
(前編より) > 生産者であることと消費者であることは同時でなくてはいけないのに、 > 私たちの社会はほとんどが消費者だけで占められてしまった。 > 生産者も消費者の気分でいるというのが大きな問題だと思います。 > > それは自分たちの職場で感じます。 > 人を楽しませるために自分たちの職業で精いっぱい力を尽くすのではなく、 > それもやるけれど、ほとんどの時間は他人が作ったものを消費することによって楽しもう > と思って生きていますね。 > > それは僕のような年寄りから見ると、非常に不遜なことであるという風に、 > 真面目に作れという風に、力を込めて作れという風に(感じ)、 > 「すべてのものをそこ(作品)に注ぎ込め」と怒り狂っているわけです。
今や、男子たるものその肩に担わなければならない、と世間が期待し、本人もそのように思い込むものは あまりにも重すぎて、宮崎監督の手には余るのだろう。 『コナン』や『ラピュタ』の頃とはワケが違うのだ。
深刻な話や衝撃的な話、あるいは単館上映向けの私小説的小品ならいざ知らず、 今、「ジブリ」イコール「宮崎駿」流のポジティブなメッセージを リアリティを持つ人間像とストーリーの中に描きこんで、なおかつそれで一般大衆受けすることの難しさは、 素人の身にも想像に難くない。
かててくわえて、その監督から見ても、自分の後継者達の力量たるや… orz ということのようだ。
近年の、いわゆる「萌え」系アニメやマンガの氾濫は、このあたりにも原因の一端がありはしないだろうか。
巨匠からしてこのような限界を露呈しており、その他大勢は言わずもがな。 結果、アニメ屋の「クリエイター」としての意地をかけた仕事へのモチベーションは低下の一途を辿る。
描き手たちは、男の子の直面する人生の難題に挑むことを避けて画面を女の子(?)キャラばかりで満たし、 登場させるとしても、一面優しい、しかし裏を返せば、 単に、誰からも憎まれたくない、誰かと争って負ける辛い思いは嫌だ、という 描き手自身の願望と恐れが人の形をとっただけの、主体性の無い男主人公を描いたりする。
観る側にしても、身近すぎる主題は、直視するのは辛く、出来れば避けて通りたい。
かくて、表現活動としてのアニメ(かつて、それは芸術に近づこうという野心を内包していた) の多様性は衰退し、 美少女、萌え、属性、空気男主人公しかもハーレム、そして逆に、燃え、また、魔法、超能力、バトルもの、 などといったジャンルの固定化が進んだのではないだろうか。
観る側の感性の硬直化を、私は、『フランダースの犬』などへの反応を見て感じる。
私自身はまったくうろ覚えでしかないので、明確な論評は避けるが、 一般的にいって、あれは、別に、「感動する話」ではないのではないだろうか。 「世の中にはこういう不幸な人生もある。みんなそれぞれに辛いことを抱えているんだよ」、 という姿を見せ、共感を誘い、個人の癒しとする。 そういうものではないのか。 別に、あれを観て感動しなければいけないものでもないし、 教訓を汲み取らなければならないものでもないだろう。
マスメディアからすれば、本放映時には1年かけて語られたこうしたストーリーに 数文字のキャッチコピーを付け、芸能人とやらを使って、最も共通認識を得やすい形で紹介しなければならない。 だから、一番簡単な「感動」という類型に放り込んでいるのだろう。 が、別に、私たち視聴者がそれに迎合しなければならない義理はない。
それぞれに共感するところを求めてよいと思うのだが、今はそういうことは難しいのだろうか。 何か正解となるものがあって、その通りに感じないと、私たち視聴者は落第点を付けられるのだろうか。 アニメの視聴って、そんなに窮屈なものだっただろうか。
そういう窮屈さが、一方でこの作品に対する攻撃性として表れ、 他方、視聴者を「逃げ」に走らせてはいるのではないだろうか。
萌えアニメそれ自体が悪いとは言わない。 リビドーを表現することはある種芸術的であるし、 安逸な夢想を貪りたいという欲望を表現することも興味深いことである。
しかし、そればかりが氾濫し、大勢を占めるようでは、 現在のアニメを取り巻く環境に何か構造的な問題があると考えうる。 そして、多様性の衰退は、かつて外向きの膨張圧力が支えていたアニメ文化が、今やその力を失い、 内向きに収縮している、ビッグクランチへの過程を思わせる。
上記の監督の発言は、そういうアニメ文化の退潮傾向を言外に認めてのものか、と感じられた。
こうした閉塞感を打破すべく、また老人の寂寥感を笑い飛ばすべく、 監督の後継者達には頑張って欲しいところだ。
先日、某所で『鉄腕アトム(1980年版)』の第1話を観た。
天馬博士の悲しみとか、 明るい未来の象徴であるはずのアトムが、一方で常にどことなく漂わせる孤独感の源となるエピソードとか、 過去の個人的な経験と重なって、色々と胸に迫るものがあった。 非常に優れた表現であったと思う。 正直に打ち明ければ、泣いた。
しかし、これもアニメの可能性のほんの一端に過ぎない。 表現としてのアニメの可能性は無限である。 そう信じたい。 [他の記事も読む] <=新記事2009/01/24 3DCG 制作に興味のある人には耳寄りな情報(かもしれない) =>古記事2008/12/20 『機動戦士 Zガンダム』雑感
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