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# 例によって、評価記事に収め切れなかった文を別掲した。
# 『Z』の、というよりは『新訳 Z』の、というべき内容ではあるが、
# TV 版『Z』あっての『新訳』であると捉えて、まとめている。
■『新訳 Z』において、20年を経てリメイクされた部分を過去のそれと比較してみると、
人物の画面上での細かな振る舞いの描写について、
不自然でいかにも「アニメくさい」芝居、台詞が増えたことに気付かされる。
◇例えば、劇場版には、エマ・シーンが、敵の月面都市へのコロニー落とし作戦を阻止した後、
パイロット用更衣室で会話をしながら、カミーユ・ビダンの肩にもたれかかるようにして耳元でささやき、
彼の能力を称えるシーンが新しく加えられている。
エマ・シーン中尉は、その育ちの良さから来る上品さを持ち、しかも精神的に自立した、
憧れのお姉さん的なキャラクターが持ち味だったはずだ。
そうした人物が、男と女とを問わず、安易に自ら進んで親密に人の肌に触れようとするとは思えない。
このような振る舞いはそのキャラクターからして、不自然であろう。
また、そうした人物であれば、話をする時には相手の目を真っ直ぐに見たりもするだろう。
ヘンケン・ベッケナーから(恐らく、艦載機部隊の隊長として)乗艦の予定進路を伝えられる際、
あらぬ方向を見て話を聞く描写が新しく加えられているが、このようなことも不自然である。
当初は彼の男性的な押しの強さに苦手意識を持っていたから視線を避けた、という理由も考えられなくはない。
が、たとえ苦手な相手でも仕事上の話(しかも自分達自身の命が懸かっている)である。
それを対人関係を理由におざなりな態度で聞くような人物とは思えない。
そして、その直後、ヘンケン・ベッケナーは、背を向けたままのエマ・シーンの後姿に憎からず思う表情をする。
もっと突っ込んで言えば、異性として、その仕草を「可愛い」と取った表情である。
むしろ、それが、この演出となった理由なのではないのか。
この表情は、なんとも、描き手達自身のそれに重なって見えるのである。
ここで、20年前は個性的なお姉さんキャラであったものが書き換えられ、
現代風の、十把一絡げな、いわゆる「萌えキャラ」の大きな括りに
投げ込まれてしまったかのように感じるのである。
そのことに、小さくない違和感を覚えた。
◇また、例えば、サラ・ザビアロフについて新たに描き起こされたシーンにも色々と違和感を誘われる。
まず、彼女が月面都市に潜入し、街もろとも敵艦を爆破する作戦を敢行した後、
宇宙服の固定装置を拘束衣代わりに拘禁されるシーン。
ここで彼女は、「我々の指導者は自爆テロを奨励しない」と言う。
これはこのシーンとパプテマス・シロッコにカルト的に心酔する彼女の心情には不適切な選択だった。
テロリストは往々にして、自らがテロリストであることを否定し、その敵対者に同じ言葉で反撃するものだ。
自らの過激で独りよがりなイデオロギーが他者と衝突しても、自分が傷つかないようにするためである。
彼女の異常さを表現するなら、この場合は、まず、「我々はテロリストではない」と、
敵対者の意思を全面的に撥ね付けさせなければならなかった。
続けて、「我々の指導者が自分に命じたのは自爆テロではなく、正当な軍事作戦である」、とさせるべきだった。
このような、どこかのニュースからツマミ食いしたかのような安易な言葉の選択は、
物語としての深みを疑問視させるものだ。
また、彼女は、地球圏周辺のスペースノイドを見下すように「とっても下品」と言い放つ、
しかも、その蔑みの言葉を向けられたカミーユ・ビダンらは、これに怒りを覚えたような反応をする。
ここでも、何か噛み合わないものを感じる。
確かに、パプテマス・シロッコら木星帰りの一党は、自分達以外を人格的に見下す姿勢をとっている。
が、洗練と野蛮などと言うならともかく、「下品」とあっては、両者の差異を必ずしも的確に言い当てていない。
野蛮人であれば洗練された文明人が教化するのはむしろその義務である、と考えた歴史が人にはある。
しかし、下品さを誰かが教化しようとしたなどとは聞いたことがない。
このセリフは、私には、生殺与奪の権を握られたことに対する、ただの負け惜しみのように聞こえた。
感情的な負け惜しみを口にするような少女が、単身で作戦を遂行する潜入工作員に抜擢されるなど、
とても考えにくいことだ
(それこそ、捨て駒である自爆テロ犯に仕立てられるならありそうなことではある。が、これは、
サラ・ザビアロフは、パプテマス・シロッコにとって重要な人物であることが描かれていることに矛盾する)。
そして、的を射ない言葉であれば、捕らえた側は、哀れみこそすれ、怒るような理由はここには無いだろう。
「縄抜けなんてできない」。こんなセリフも不必要だった。
「縄抜け」という言葉は、脱出マジックを連想させる。
しかし、ここは真剣なシーンであり、サラ・ザビアロフは過激なカルト集団の尖兵なのだ。
その彼女に俗な言葉は似合わない。冗談を言うべき場面とも思えない。
ここでは、単に、手錠をなんとか外そうともがく動作とその時の息遣いだけを描けばよかったのだ。
去り際にレコア・ロンドが放つ「追っ手を追い払えることは、祈っててね」、というセリフも、
言葉選びが不適切に感ずる。
「あなたも生き延びたかったら、この船が沈められないように祈っててね」、というのであれば分かる。
が、「追っ手」を追い払うことは、艦内に拘束されているサラ・ザビアロフの利益にはならない。
従って、その彼女に、「追っ手」の撤退と艦の無事を結びつけた上で望め、というのは筋の通らない話である。
それに、そもそも、直前にサラ自身が答えているように、ここで攻撃を仕掛けてきているのは
敵陣への潜入工作を終えた彼女の奪還を試みる一隊であり、「追っ手」でさえなかった。
理念に凝り固まるあまり「原理主義者ではない」と自分では否定しながら、
実際はガチガチの原理主義者である彼女が、拘束を脱して回収班に出会えた幸運に対する感謝の念を表し
独り叫ぶ言葉が「神さま!」であるのも、おかしな話だ。
彼女の崇拝対象は個人なのだ。
そして、その個人が私に与えてくれるものはその尊厳であると思っている。
だから、ここで感謝を捧げる対象が私と相対する形而上のものであるはずがない。
むしろ、彼女の立場では、神などは古い人間が縛られる迷信の類として軽んじてしかるべきだ。
■『Z』もそうであるが、初期の『ガンダム』シリーズ作品には、現在、それを語る時、
名台詞や名シーンと呼ばれるものが強固に関連付けられている。
それは、各々の思い入れと思い出を語り、共有する、ファンの文化の所産であろう。
しかし、それだけではないはずだ。
週1回、1話の視聴ペースであれば1年近く、ぶっ続けで観ても丸1日以上かかる作品との付き合いを、
抽出された少数のパターンで代表させ、視聴者の側の作品への参加の労力を極限まで減らすことで、
馴染みの客をつなぎとめ、新規の客を誘い込み、既に過去のものとなった作品の商品価値を維持する、
作り手側の戦略の所産でもあるだろう。
新作カット制作に際し、その路線を規定する戦略もそうした方法論を充分以上に意識していたことであろう。
印象に残るカッコいいセリフ、カッコいい絵を組み込もうというわけだ。
だが、その結果は、現在の描き手の力不足と物語作品としての価値の甚だしい形骸化を露呈するものだった。
そうしたパターンは、それが成立した当時は、
物語が様々な要素が絡み合う中で進行し、様々な綾を織り成し、遂に、その極値として表れたものだった。
ところが、今は、逆に、既成のパターンをかき集めて一つの物語を組み立てようとしてはいないだろうか。
キャラクターの個性を殺し、流行の路線に放り込む。
形式的なキメ台詞やポーズを前後の脈絡やキャラクターの立ち居地に関係なく使う。
○○属性だとか××フラグだとか、そんなものばかりで物語を構築しようとする。
近年私たちが目にする「作品」と称するものは、そんなものばかりのような気がする。
しかも、それらが、売れるための戦略として選択してやっている、というだけにはあらず、
どうも、最近では、「クリエイター」達のセンスが偏向してしまい、かつ、一方向に収斂してしまって、
そういうものしか作れなくなっているように思えることが、更に問題だ。
富野監督自身が今回の新作カットの制作にどの程度深くコミットしていたのかは知らない。
が、肩書きを監督とする以上、ノータッチなどではありえない。
監督自身が老害となり始めているのかもしれない。
しかし、これは、その老人との共同作業を通じてより良いものを産みだすことの出来ていない、
後継者達のふがいなさを示すものでもある。
■近年、確かに、絵はきれいになった。が、それで描き出されるものの中身が惰弱になった
(アナログ画材の深い色合いなども失われたが、それはまた別の話である)。
人間の容姿をファッションモデルのように理想化し、
なおかつ、それをマンガ絵で表現しようとした旧作画に対し、
新規作画の人物は、皆どんぐり眼で、肉付きが良く、尖った所やぎらぎらした所が無い。
若いアニメファンやマンガ愛好家の使う言葉を借りると、いわゆる「見やすい」ものにはなった。
だが、それで表現したいものが何であったか、と考えると、
その答えは、ただ、「アニメ」としか思い浮かばない。
何かを表現したくてアニメをやっているのではなく、
既存のアニメみたいなものがやりたくてアニメをやっている、そんな印象だ。
そこに、表現としての、アニメとしての美しさがあったのかは甚だ疑問である。
「見やすい」絵というなら、その反対は「見にくい」絵、ということになるだろうか。
そうした「見にくさ」とは、描き手の自己主張が邪魔をして、キャラクターを好きになれない、
感情移入が出来ない、見る側が、何か自分が入って行けないものを感じる、ということを表すのではないか、
と私は考えている。
逆に、「見やすい」ものとは、甘口で、見る側と描き手の人格の摩擦が生じにくいものを指すのだろう。
今や、描き手は、サービスを求められているのだ。
さもなくば、見る側との価値観の合一が求められているのだ。
「見やすい」絵面の代償に、アニメは大事なものを失った。
そうではないのか。
■地球上での超高空からの自由落下中の空中戦のシーン。
落下しつつスラスターを噴射させることで、めまぐるしく相対高度が入れ替わり、距離や姿勢が変化する。
この浮遊感と立体感。
この映像表現は、アニメ作品としては、新しい部類に入るのだろう。なかなかに良い挑戦ではあった。
ただ、それとても、ハリウッド映画やビデオゲーム等に CG アクションが溢れる昨今では、
真に新しい表現と言い切ることは躊躇される。
表現への飢えをここに感じられるか、といえば、簡単には首を縦に振れない。
20年の歳月を経て、アニメが得たもの、失ったもの、
『新訳 Z』の視聴を通して、そういうものを考えさせられた。
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