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# http://www.accessup.org/anime_j/Mobile%2520Suit%2520GundumSEED%2520DESTINY.html
# についてのコメントが長すぎるそうなので、こちらに持って来ました
前代未聞の「最終回(take2)」観ました。
で、むしろこれまでの怒りがおさまりました。
「ああ、こんなもんなんだな」、って。
ネット上の流行語に迎合したくはないんですが、いわゆる「だって種だもん」、ってやつです。
「SEED」がその急先鋒ではあるけれど、
今の時代のアニメなんて、この程度でも「しかたがない」んだよ、うん、なんて諦めがつきました。
こんなのに新年までかかずらわっていたくないので、
テキトーに総括します。
超長文失礼。
■■まず、幾つか褒めるところがあります。
■終盤にとってつけたようにとってつけた「デスティニープラン」、あれは悪くないと思います。
それまでの「戦争はなぜ起こるのかを考える」という、自らの力量を顧みない、
馬鹿みたいに仰々しいテーマを、何のまともな答えも提示できないまま放り出して、
非常に卑近、だけど普遍的なもの、「人の生きる目的って何?」みたいなものにいきなりすり替え、
あげくそれも適当な奇麗事を並べただけで誤魔化したわけですが、
テレビアニメという場でろくでもないプロパガンダを垂れ流されるよりは、はるかにマシです。
件の最終回(take2)のみを見ると、初期に担ぎ出したテーマは最早どこかにうっちゃってあったので、
まあ、なんか、「SEED」って、そういうことに取り組んできたように見え、、、なくもない。
そういうわけで、本編は一年間ずっとダメダメダメのダメ尽くしだったけれども、
「終わり悪くなければ、すべて悪くない、かもしれない」ということにしといてやる。
■シン・アスカのテロリスト誕生物語として終始ブレが無かったのは、
何もかもがテキトーな「SEED」にあっては珍しく初志貫徹した感じで、良かったのではないでしょうか。
まあ、定められた一定の期間頑迷にそれをやり続けはしたとしても、
その結果、最後に何か実になることが描けたか、そもそも良くも悪くも何らかの結果を出せていたのか、
というのは全然別の問題なんですけどね。
彼は結局、最後まで妹以外の家族のことはなんにも思い出さなかったわけだし、
それ以外の友人その他の人間関係も全く分からないまま。
彼が失ったとされる幸福な生活とは如何様のものであったのか、全然見えてこないから、
彼の絶望とその後の凶行には相変わらず共感のしようもない。
彼を見て唯一分かるのは、
要するに、現実の世のテロリストって、そういう不幸な復讐鬼なんだよね、
ってことが「SEED」の企画書に書いてあった、ということだけです。
その見解の是非について云々する気は、私にはもう無いです。
ここでの問題は、その企画書から完パケまで、話が全く膨らまされてなかった、ということです。
つまり、「SEED」の描き手は、プロ作家たるには想像力が致命的に貧困である、と、
調べものをしたり人に話を聞いたりして己の貧困な想像力を補って書くには、あまりにも怠惰である、と、
いうことなんだと思いますね。
少し脱線しますが、彼らの技がプロたるには稚拙にすぎるか、
あるいはその性質の怠惰さゆえに足りない才能を努力で補うことができないと断定するならば、
「SEED」が誰も見たことの無いような、異常な量の回想シーンで埋め尽くされていたことも説明が付きます。
つまり、彼らは新しい表現を模索することを恐れ、これまでに出来たお気に入りシーンをスクラップした
"My Best Album" を何度も何度も繰っていた、ということなのでしょう。
先へ進むこともできず、引き下がって別の道を探すことも出来ない。
仲間内の宴会芸の人気者が突如武道館のステージに上げられてしまい、引き出しの無さゆえに
いつもの芸をひたすら繰り返す以外何も出来ない窮状、あれはそういう様子だったのだと思います。
■子供こそが感じやすいセンチメンタルなたたずまいを湛えていたこと。
これこそが、「SEED」がウケた最大の理由ではないでしょうか。
同時に、「SEED」は到底人間とはみなし得ないキャラクターデザイン、
傍目には奇異にしか映らない記号的「友情」や「信念」の表現、大げさな格好付けポーズ、
なにかいわくありげで、子供にはぎりぎり理解できるか出来ないか、絶妙な位置を狙うネーミングの数々など、
あらゆるフィーチャーがそうした特定の層の嗜好のど真ん中を突いていた。
一方で、そうした層が私たちの思いの外厚く堆積していた、ということなのだと思います。
事実、このページの上部に記載されているデータにも、
これほど多くの批判が寄せられる中にも少数ながら支持者が居ることが示されています。
その割合が一定であるならば、こうして騒動が続き、注目が集まる限り、
どんなに批判を受けようとも、集客は続いていくでしょう。
即ち、彼ら一部嗜好を持つ層の求めるものがようやく提供されたということであり、
これまでこうした要求に応えるものは比較的少なかった。
ということは、「SEED」はある意味、個性的であった、と言えるのかもしれません。
もっとも、その個性が木に竹を接ぐような、アニメにアニメを接いで生まれたものであり、
他人と違うこと、現実から乖離逸脱していることだけがその価値であるならば、
おかしな話とおかしな登場人物に塗り固められた、支離滅裂な、箸にも棒にも掛からない、
どうしようもなくくだらない内容になってしまうのも道理ではあります。
■「SEED」はテレビを媒体とするエンターテイメント・コンテンツとして、新境地を切り拓きました。
多くのファンを抱える過去の人気作の名を騙り、でたらめな世界観の下に、
極端にえこひいきされた主人公を立て、いい加減な政治論、戦争論を放り投げると、ネット上で
「良識あるファン」たちが寄ってたかって食い合い、引き裂き合い、バッシング合戦を楽しんでくれる。
そういう、エンターテイメント産業における新しいビジネスモデルを発案し、数字を出した。
邦画など一部では好成績が挙がっているようですが、全体の雰囲気としては
いまだ閉塞感漂う現在のコンテンツ・エンターテイメントビジネスに
生臭いながらも新風を吹き込んだ「クリエイター」の手腕は、評価されるべきものでしょう。
まあ、それによって犠牲となるのは、私たちの文化とか、社会風潮の悪化とか、人間性の硬直化とか、
そんな目に見えないものばかりですから、彼らの金儲けの弊害と指差されることも無いので、
そういうことを気にしないなら、じゃんじゃんやったがいいですよ。
私は今後、彼らの名前を聞いただけで切り捨てますけどね。
■「SEED」はアニメ消費者と J-pop 購買層が重なることも発見しました。
これまた、市場が近年縮小傾向にあると言われる和製ポップミュージックの供給先として、
「SEED」はアニメを活用する、両者を合体させることを思いつき、実行し、成果を挙げました。
近年の J-pop はどいつもこいつも似たり寄ったりで、春先になると桜、桜、桜、桜歌う連中が
山ほど湧いて出てきます。
そんな音楽に、1990年代以前のように、皆の食指が動かなくなるのも道理であり、
別段違法コピーの影響が無くとも、売り上げが上がらないのは当然の帰結でしょう。
そこで J-pop 側が新たな収益源として目をつけたのが、特定の志向性を持ち、
ある程度の購買力と購買意欲を持つ、雰囲気さえ良ければあまりうるさいことを言わないアニメオタク層です。
一方のアニメの側も、J-pop のことは常々憎からず思っており、
自分たちの「オタク」という蔑称に対するコンプレックスを返上するためにも、
これまでは高嶺の花であった、きらびやかな J-pop が自分たちに色目を使うのを見て飛びついた。
かくして、両者の利害が一致した結果、アニメは退潮傾向の中堅ミュージシャンの姥捨て山となり、
技も個性も無く売り込み先も無い使い捨て新人のための廃棄物処理工場となったわけです。
こういう単なる野合の蜜月が続くものなのかどうか、そこに良い子供が生まれるのかどうか私は知りませんが、
今は単なるもたれあいですから、少なくとも福田監督の言っていた「音楽に気を遣った初めてのガンダム」は、
的を射ていないと思います。
ちなみに、私は J-pop なんか好みじゃないので、「SEED」は音楽もダメダメだった、と思ってます。
■■で、次に悪い点ですが、
私はこれまで、「SEED」の最大の問題点は「テレビアニメにろくでもないプロパガンダを乗せていること」、
としてきたのですが、これは上に書いたように、もう、いいです。
また、そもそも私個人にとっては、「こんなのは『ガンダム』じゃない」だとか、
そんな論議はどうでもいいことでした。
残る問題は、「SEED」は怠惰で知性の無い、退化したオタクたちの自己顕示欲の発露だった、
ということです。
■「SEED」には知性が無いことは、そのセリフ回しによく表れています。
人間は 認識し、考え、意志し、行動し、反省する存在です。
しかし「SEED」の主役たちが作中で行ったのはこの内の「行動」のみでした。
彼らはいつも物事を曖昧にしよう曖昧にしようとし、どこに向かおうとするのか、
どうしてそう考えるのか、なぜにその行動が必要なのかを明らかにしようとしない。
自らを取り巻く世界をどう認識し、そこにどんな問題を見、どう正すべきと考え、
そのためにどのように行動して、結果そこに生まれたものが何であるのか、
きちんと言葉で考え、示そうとしない。
それでいながら、この世界の中で彼らだけに特権的に付与されている他者を上回る大きな力を無闇に振り回し、
「自分たちが唯一真剣に取り組んでいるんだ」と格好つけて見せることにだけはご熱心でいらっしゃる。
そこには非常に大きく欠落したものがあります。
それが「知性」です。
人間は感性と知性が並存して成り立つ存在です。
確かに、「SEED」の「何かしなくてはならない」という焦燥感のような雰囲気は、
感性としては優れたものもあるいはあるのやもしれません。
しかし、それはあくまでも人間の動物としての側面、半身でしかない。
人間としてのもう半身は、それを混沌とした感情の渦から、論理性を以て引き上げなければならない。
そこで必要になるのが「言葉」です。
言葉があるから人間は論理的思考が出来る。
言葉による論理的解釈なくしては、あらゆる事象は混沌としか映らない。
ところが、「SEED」はこの人間として大切な言葉をないがしろにしている。
「SEED」のセリフはいつもこうでした、「だが…」、「それは…」、「それでも…」、「………」。
そして極め付きなのが、何もかもを誤魔化し、押し流してしまう「しかたがない」。
「SEED」の登場人物はいつもこれらばかりを口にし、思考の過程と結論を曖昧にし、
自らの考えを理知的に統合しようとせず、他者の考えを理解しようとせず、
共に人間としてより良い存在たらんとしない。
即ち、「SEED」には知性が無い。
即ち、「SEED」は、人間から、むしろ退化した存在であるのです。
■「SEED」は疎外感に悩む人が往来で意味の無い奇声を張り上げるのに似ている。
単なる自己の存在確認のための行為、自己顕示のための奇行でしかなかった。
現代人の「心」は、昔の人に比べ容積が大きくなっているのだそうです。
しかし、それを埋めるものはなかなか見付からず、空疎であり、
原理原則などによってそれを補おうとしがちなのだとか。
近年のやたらに虚飾としての哲学を語りたがるアニメこそは、その顕在化の最たる例でしょう。
そしてそれは、「SEED」によって、かつて無いほどの深みへ、漆黒の暗闇へと突き落とされた、と言えます。
「SEED」の描き手たちは、体が大きくなっても、中年になっても人生の現実を直視できず、
アニメという居心地の良い揺りかごに引き篭もったまま、ママが歌ってくれた子守唄の語彙と
彼女の眉をひそませることでその関心を引こうと発した卑猥な単語だけを積み重ねて世間に物申そうとする。
彼らはぬくぬくとした揺りかごとしてのアニメなるものに拘泥し、
その閉じた魔法の世界の中で自らの定めた物理法則に則る支配権を振りかざす快感に耽る。
「SEED」はこれら病的な、神経症の中年オタクたちの、単なる自己顕示のための奇行の産物であった。
この恥を恥と知らないオトナコドモたちの痴態に、
それを監視してきたこちらの方が平衡感覚を狂わされそうになり、眩暈を、吐き気をすら覚えるのです。
はっきり言います。
ただの奇行でしかない「ガンダム SEED」は、世に問うメディア・コンテンツとして、
「作品」と呼ぶことすらも出来ない、四流以下のシロモノでした。
■今回の最終回(take2)に至っても「SEED」に描かれる「大人」たちは
衝動的で無意味かつ無責任な死を選ぶ。
「ガンダム SEED」は死をあいも変わらず、己の自己顕示欲の前に矮小化し、記号化し、ユニット部品化し、
デジタル化ているのです。
架空世界の中で、人を何人殺そうが、登場人物にどれほどの手傷を負わせ、
あるいはその命や縁ある人の命を奪おうが、
描き手たち自身は、ただ原稿用紙に向かい、血の通わないアニメ絵を描いて、いい加減な演技をするだけ。
現実には自分たちは何一つ痛みも感じないことに甘え、
死と、それと表裏一体の生を、粗略に扱って恥じるところを知らない。
前作ではが、ウズミ・ナラ・アスハが、本作ではトダカが、タリア・グラディスが無意味に死にはやった。
一見すると、彼らの死は、己の堅固な理念理想に殉じたかのようであり、格好良く見えるかもしれません。
しかし、現実の社会に照らして考えれば、それは何ら大人としての格好の良さを示してはいません。
彼らは状況に対し投げやりになり、「やけくそ」になっただけ。
自らに課された責任を放棄し、あげく、死という、本来は石のごとく冷たい、
反論の余地の無い絶対的な現実であるところのものをちらつかせてまで自己顕示を図る、
「『自殺願望』願望」の描き手たちによって、三文芝居の末に退場させられたに過ぎないのです。
今回のタリア・グラディスの死はまったく象徴的でした。
結局彼女の死んだ理由は、昔の恋人と添い遂げようとしただけでしかなかった。
別に彼女自身が積極的に死を選ばなければならない理由はどこにも存在しなかった。
それを何か殉教か何かでもあるかのように大仰に見せる。
あげく、胡散臭い家族ごっこの末に、深手を負ったわけでもない、
早逝の運命にあるとはいえ今はまだ生きているレイ・ザ・バレルが巻き添えを食うことになった。
かつて「生きることの方が闘いだ」と主役の一人に言わせたことは、
ここで、ただの奇麗事であり、まったくの欺瞞であったことが暴露されるわけです。
そして、その場に居合わせたのは最高のコーディネイター、
「本気で喧嘩したら僕にかなう者は無い」、「それでも守りたいものがある」
そのために「闘う」キラ・ヤマトと、それと並び立つ僚友だったのでしょう。
なぜ無理やりにでも助けないんですか。これこそあなたの力の見せ所ではないのですか。
自分と「似ている」と認めたもの以外、翼賛会メンバー以外、
死にたがりは勝手に死なせておけ、ということですか。
それがあなたの「闘い」ですか。
死と生をを弄ぶと言えば、アンドリュー・バルトフェルドの描写も私には好ましく映りませんでした。
彼はアニメにアニメを接ぐオタクたちが考える、「『ガンダム』にはこういうカッコイイ大人が必要だよね」
という記号、部品を、過去のアニメとガンダムの中から切り出して組みあげらられた紙人形でした。
その彼は、人道主義者ぶってインチキな軍事作戦を実施し、結局民間人を砂漠に飲まず食わずで放り出す一方、
戦闘でどれだけの部下が傷付き倒れようとも意にも介さず、つまらない趣味に没頭していた。
そして、ただその死の伏線としての薄っぺらな信念を鼓吹し、企画書に書いてある通りに死に、
そのあげく、いい加減な理由と経緯で生き返らせられる。
まったく、死と生と人間を馬鹿にするにもほどがある、不愉快なエセ大人キャラです。
キラ・ヤマトの母、カリダ・ヤマトの描写にしてもそう。
腹は痛まなかったにしても、仮にも自ら育ててきた息子をむざむざ、あんなにもあっさりと、
戦地に送り出す母親が一体どこにいますか。
ちゃんとした大人ならむしろ、死にはやる馬鹿息子を、
「他人様に銃を向ける情けない子」と一喝して張り飛ばすべきです。
もっとも、「SEED」の場合、それをやったら、「やめてよね(以下略)」になってしまうんでしょうけど。
■ラクス・クラインの示す超個人偏重主義は、
結局ギルバート・ディランダルの提示した第三者による人生の目的計画生産機構となんら変わることはなく、
人の尊厳を凍てつかせ、人を損なうものです。
彼らは、自分は人として生まれてきたのだから、
その存在、そのことによって他人から敬意を払われたい、またそうでなければならない、と考えています。
これは、ラクス・クラインがその偽者、ミーア・キャンベルに向けて放ったセリフ等によく現れています。
「名が欲しければ差し上げましょう」
「それでも、あなたは自分なのでしょう?」
ここに描き手は、自分の身体にまとわり付いたしがらみのようなもの、
冗長な物事をことごとく取り去ってみると、最後に「自分」というものが残る、という人間観を示しています。
しかし、人間は生きて、学んで、生まれの不平等を乗り越えてゆくものです。
それら全て、これこそが「自分」を構成するのです。
それを、ただ何もせずぽかんと口を開けて空を見上げていれば、そのうち食べ物が降って来て
「自分」は生かされると期待すなどは、ひたすらに怠惰な精神であるとしか言えません。
このようなものの考え方は、私にはどうも、
アニメなどという霞を食って生きるような理想に埋没して道を見失った人間の、
投げやりでニヒリズムとさえも言えない、万年モラトリアムな、
自己弁護のための歪んだ言い訳のようにしか思えません。
むしろ、そのままでは、「自分」はやがてぼやけて、遂には消えてなくなってしまうでしょう。
そして、それを補うのが「コーディネイター」やその他の個人に特有の資質であるのなら、
人はただの部品としてしか扱われなくなることでしょう。
実際、最後の場面において、キラ・ヤマトとアスラン・ザラは、
死にはやる二人を、彼らがそれを望むから、という理由で見捨てました。
個人を過度に尊重するあまり、人を損なったのです。
それが彼らの望む世界と人間なのです。
■■■総括します。
■「過去は取り戻せない、しかし、過去は乗り越えることが出来る」、
それが、描き手が、"Faith" = 「信念」という肩書きを頂いておきながら、
あっちへふらふらこっちへふらふらしてきたコウモリ男、アスラン・ザラに
最後に言わせたかったはずのことでしょう。
でも、「SEED」はそれを書くことができなかった。
ある文筆家が述べていましたが、それが書けないということは、
その人はそれを考えていないのと同じなのです。
しかも、今回は take2。前作とその後のセル DVD も合わせれば take4 です。
しかも、「過去は取り戻せない」と口で言いながら自分は過去の捏造をする。
お笑い種です。
結局、「SEED」はただやたらに感傷的であるばかりで知性と他者への関心が無く、
文芸として、また人の息遣いとして、何の智慧も示せなかった。
中年オタクたちの自己顕示、自家発電の行為でしかありませんでした。
飽食の中年オタクが、腹がくちくてセンチメンタル気分に浸っているに過ぎない。
「SEED」は「作品」じゃない。せいぜいが下品な替え歌カラオケでしかありませんでした。
■先日、「ヴィナス戦記」について書きながら気付いたことがあります。
それは、かつて「ジャパニメーション」、あるいは、単に「アニメ」と呼ばれたものは、
既成社会からの離反、即ち「反逆」を求めていた、ということです。
当時矮小な一サブカルチャーであったアニメのクリエイター、及びそのファンたちは、
親元を離れようとする子供のごとく、彼らの想像力を武器に、
現実を拡張したパラレルワールド、空想の世界に遊び、
大人たちのルールの及ばない自分たち独自の世界、ユートピアを築こうと試みたのでしょう。
しかし、従来、そのような反攻は、結局現実に飲み込まれ、いずれ忘れ去られてきました。
でも、「エヴァンゲリオン」のヒットの前後あたりからそれがおかしくなってきている。
「ポスト・エヴァ」時代のアニメは、アニメによって育てられた世代によって担われ、
アニメを作るためにアニメに学ぶ、アニメにアニメを接ぐ、
私たちの身体感覚とはかけ離れたグロテスクな進化を続けています。
「ガンダム SEED」はその怪物の最新の姿なのです。
■かくて「ジャパニメーション」は死んだ。
共感も夢も楽しさもイノベーションへの意志も無い現在のアニメには、
一部のオタクの集金装置として、自家発電の機関として以外、存在する意義はありません。
私にとってアニメは過去のものとなりました。
恐らく、他の多くのファンにとっても同様でしょう。
「機動戦士ガンダム SEED」シリーズによってそれが確定しました。
「SEED」三作目?
私は見ませんよ。もう。
監視もしません。
後々、色々書き漏らしたことに気付くこともあるでしょう。
でも、これで終わりにします。
私は過去を乗り越えるのですから。
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