=>古記事6. 2012/02/07 観客と製作者の垣根について その他最近のコメント 1. 2012/05/26 「作品を鑑賞するにあたって」 [この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:3個作品を鑑賞するにあたって、私は何らかの不完全な知識を持ち帰ろうと欲してはいない。 私が欲しいのは生の全体感であり、物語は説明ではなく、行動によって明らかにされるべきものだ。 2. 2012/05/18 「恋愛について」 [この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:3個恋愛は結合と分離の二つで成り立っている。 恋愛は結合のみが重要視されがちだが、恋愛に幻滅はつきものであり、むしろ幻滅は恋愛の出発点と言える。 真の愛情とは、分離なくしては成り立たない。 愛情の裏には憎悪があり、それに気づき、肯定することが求められる。 恋愛というものが、この二律背反とも思える要素で出来上がっていることを理解できなければ、相手に過剰な自分のための幻想を抱き、そしてその陶酔の後には相手を憎悪し、破局を迎えるだろう。 結局のところ、結合のみを追い求めた恋愛は単なる児戯に過ぎないのだ。
無論、こんなことは誰もが経験の中で感じ取ることなのだと思いたいのだが、どうもそうでない人も多いらしい。 3. 2012/03/05 「なぜ悲劇を求めるか」 分類: 個人的メモ書き [この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:1個日常はひとを平面的にしようとする。 演戯によってひとは日常性を拒絶する。 しかし、それは現実からの逃避ではない。 全体を見通せると錯覚し、我々は部分に成り下がり、全体という観念が消失し、知識も智慧も消失する。 個人の全体性を回復するには、部分であることを自覚し、部分としての自己を味わい尽くす。 その過程において、全体感が印象的に甦る。 自我の確立である。
全体としての必然性は個人の抹殺であり、非現実的であり、観念的である。 個人の全体性、その必然性を確立するためには、現実の偶然を拒絶しなければならない。
演戯とは絶対的なものに迫って、自我の枠を見出すこと。 絶対的なものを見出そうとすることが、演技。
完璧な行為とは、強度の必然性に貫かれているということである。 たとえ、それが死への過程でしかなくとも、我々はそれを愛する。 いや、むしろ死への過程だからこそである。 いかなる自由意思にとっても、死だけはままならぬものであるからだ。 死を必然化する手立ては、自殺をおいてほかにない。 いかなる個人も、その生涯を必然化しようとするならば、完全に自由であろうとするならば、自分の死を必然化しなければならない。 人間にとっては不可能事である。
が、悲劇の主人公は、私たちに代わって、それをやってくれる。 彼らの死がことごとく自殺に似ているのは、不可避なしに向かって、歩み寄るかのような行為の統一性のためである。 彼らにとっては、死から遠ざかろうとして歩む方向が、つねに死への方向と一致する。 真の必然であるためには、偶然に自分を突放し、できうる限り必然を避けなければならない。 そうして、宿命の必然性は発現する。 4. 2012/02/21 「ちょっとショック…」 [この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]拍手:5個ボーっとネットを検索していてですね。 たまたま昔好きだったシリーズものの小説(完結済み)のファンサイト(ウィキペディアのような)を見つけたので懐かしくてつらつらと読んでいたわけです。 で、どうもシリーズ読破していたはずの自分が全く覚えのないことが書かれているのでおかしいなと思いましたら、今更になって続編が出ていたわんですよ。 別に今更続きが出たからと言って読んでみようという気は全く起こらないので、そのサイトでネタバレ含め読んでいたんですが……どうも暗澹たる気分になってしまいました。
ぶっちゃけ蛇足にしか思えないというか、なんというか。。 たとえば、いくら007が好きな人でもボンドのその後の人生なんてものを見せられても困るわけですよ。 ヒーローなんてものは素敵に恋をし、冒険をし、パッと煌めき、はい物語は終わりサヨウナラでいいのです。 物語なんてものは、疑問点を残したまま終わるくらいで、先が気になるところで終わるくらいでちょうどいいのです。 惜しまれるが花、過ぎたるは及ばざるがごとしということです。
そういう美意識は持ってる作者だと思ってたんだけどなぁ… まあ、割り切った集金行為である可能性は大いにあります…というか、それ以外思いつきませんが。 5. 2012/02/11 「戯曲的」 [この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]ここのサイトでほかの方との話題に上ったので書いてみるが、小説の中には、小説というより戯曲に当てはまるのではないかというものが多い気がする。 それは単に対話が中心とか描写が中心かという違いではなく、特に心情と事件が現されているか、性格と行為が現されているかという違いだ。 戯曲では終局に向けて登場人物を駆り立てる運命というものがあり、それに向かってまっしぐらに進む登場人物の行為が描かれる。 一方、小説は徐々に進行し、主人公の心情が全体の急激な進行を引き留めるものでなくてはならない。
だから、小説の主人公は受動的、戯曲の主人公は能動的でなければならないと言われるが、この点に関しては私はむしろ逆だと思っている。 戯曲では主人公を悲劇へと誘う運命というものがあるわけで、登場人物は巻き込まれているにすぎない、しかし、小説は主人公の心情を描くことで自らの過去と現在の清算や点検をするわけだ。 運命に巻き込まれる主人公と、事件という偶然の要素はあるものの、自分という人間を表していくことが主題である主人公ならば、私は前者こそ受動的で、後者こそ能動的であると信じる。
結局、戯曲の主人公というものは、物語が動き出す程度に非凡で観客が感情移入できる程度に平凡でなくてはならない。それならば、私は平凡の中の個性を描く小説の方にこそより大きな意義を見出す。 しかし、一方で私は戯曲も大好きだし、悲劇に向かって登場人物たちを駆り立てる運命の恐ろしさを感じられるのは戯曲ならではのものだ。
ただ、小説と戯曲というものが別箇独立して存在しているものではなく、あのハムレットのように両者の要素が入り混じった作品というものは数多い。 だから、戯曲的な小説があるのもごく自然なことだし、文学と小説の違いというものそのあたりにあると思っている。 多様性は新しいものを生む苗床になるし、結局作品の評価とはその外形ではなく意図にこそある。 だが、駄作への第一歩は作品媒体の特性への無理解だろう。 =>古記事6. 2012/02/07 観客と製作者の垣根について
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