駒由の日記/書き物
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1. 2012/04/04 同日2番目 「Earth Song / Michael Jackson」 分類: 楽曲 [この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)] 2. 2012/04/04 「コント」 分類: その他 [この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]http://stimaro.seesaa.net/article/182449992.html
大したことないと思っていた和食屋が美味しかった。実はチーズが大好きで、チーズ鍋を頼んだら、はまった。 また今度行ってみよう。    
3. 2012/02/01 「マシュ・ケ・ナダ / Mas que nada」 分類: 楽曲 [この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)] 4. 2012/01/08 同日3番目 「自由とはの抜粋」 分類: その他 [この書込みのみ表示(記事URL紹介用) / 編集 / 削除 / トラバ送信 / 共有分類に追加(タグ付け)]1. 自由について   1. 精神について
1. 自由について
自由とはどのようなことであろうか。自由とは、一般的には束縛あるいは強制がないこと、もっと根本的には必然がないことであろうか。つまりそれは、複数の可能性が存在しているということを意味しているのであろう。
確かに、例えば自由電子といわれるものは、特定の原子の原子核にとらえられていないという、特定の対象からの束縛を受けないということのみから、自由であると解釈し得るかもしれない。それはこの場合、その具体的な何かから自由であるかどうかということだけが問題とされているからであろう。例えば、自由電子も物理法則に縛られているとしても、上述の意味では自由であり得るということである。そして、それは原子核にとらえられた電子より多くの移動の可能性を有しているということであろう。
しかし、我々の行動における自由を考えようとした場合、必ずしも上述のような解釈だけで自由を捉えることはできないのではないだろうか。なぜなら、束縛を受けないというだけでは、例えば偶然そうなったのでしかないという解釈もあり得るからである。そして、普通我々は偶然の結果と自由な行動の結果を区分して解釈しているのではないだろうか。
つまり、このような(所謂)客観的な何らかの必然性によってのみ決定されない、言い換えれば、それらから自由であるということだけで、行動において自由であるということは必ずしもできないのではないかということである。このように、行動における自由をどのように解釈するのかということは非常に難しい問題のように思える。そして、ここで主に問題としたいのは、我々の行動における自由についてである。
ここでは先ず、前述のような偶然と自由を我々はどのように区分しているのかについて考えてみたい。それは、我々が自由をどのように捉えているかを明らかにしたうえで、そのような自由は存在し得るのか、また存在するとすればどのように存在するのかを考えてみたいからである。
このとき前提としては、偶然も自由も何かからの必然的束縛を受けないということでは共通しているのであろう。更に自由が偶然と区分されるということは、この方向性での何らかの差異を我々がこれらに見出しているということではないだろうか。
そして、ここでの方向性とは<必然的束縛>ということであろう。このとき、この方向性での対比としては<必然と非必然><必然の強弱><束縛の有無><束縛の強弱>が考えられるのではないだろうか。ただ、偶然も自由ももともと何かからの束縛を受けない、つまり<束縛の無>という前提であるのだから、<束縛の有無><束縛の強弱>という対比は今更問題とならないであろう。
とすれば、この対比は<必然と非必然>か<必然・非必然の強弱>ということになるのであろう。このとき、<必然・非必然の強弱>という対比には違和感があるかもしれない。だが例えば、偶然に関してランダムな偶然と確率的偶然があるとするなら、そこには<必然・非必然の強弱>の対比を見出すこともできるのではないだろうか。それは、全くの偶然と完全な必然性は無いが何らかの法則性が内在した偶然かという区分とも解釈し得るのではないだろうかということである。しかし、これは偶然という概念内の区分であり、偶然と自由の対比はこれとは別の区分ということであろう。
つまり、ここでの対比は<必然と非必然>ということになるのではないだろうか。そして、偶然とはもともと必然との対比なのであって、ここでは全くの非必然ということになるであろう。そして、必然とはある関係性において原因が結果を一義的に束縛しているということではないだろうか。そうであるとするなら、その対比としての偶然とは原因からの必然的束縛を与えられないとともに、可能性(結果)への必然的束縛も与えないことなのではないだろうか。
これに対比される自由とは、その関係性の連鎖の内部に何らかの必然性を伴っていると解釈されているということであろう。このとき、自由も偶然と同様に、原因からの束縛を与えられないという前提であるのであるから、この必然性は結果に束縛を与えるということになるであろう。
そして日常的にも、我々は自由な行動というのは何らかの束縛を受けずに、対象あるいは結果に対して有意義な影響を与え得ることであると思っているのではないだろうか。つまり、自由とは原因からの必然的束縛を受けずに、結果への必然的束縛を与えること、言い換えれば、複数の可能性の存在を前提としたうえで、その可能性のいずれかを必然的に束縛し決定付けることである、と我々は解釈しているのではないだろうか。
ここで更に問題となるのは、この結果あるいは可能性への必然的束縛とはどのようなことであるのかということであろう。それは、外部からの必然性(原因)から関係性における飛躍があったうえで、我々の内部において結果への束縛が行われるとすれば、この飛躍以降何が新たな原因として結果を束縛し結び付けるのかということである。
そして、日常的に我々は意志(指向性)がこの結果を結び付けると考えているのではないだろうか。言い換えれば、それは可能性を能動的に選択することによって結果を束縛することができる、つまり行動における自由には選択の余地が残されており、選択という行為によって結果に影響を与え得る(場合によっては、結果をも選択し得る)と考えているのであろうということである。
このように、行動における自由について考えようとするなら、何かからの自由ということだけでなく、何かへ向かおうとする自由も考える必要があるのではないだろうか。このように、自由とは可能ということと選択ということが混在する概念として解釈されているように思える。
このことも踏まえたうえで、もう一度日常的な自由の解釈について考えてみる。恐らくそれは「複数の可能性の存在を前提とした上で、それを選択すること(あるいは選択することが可能なこと)」というような解釈なのではないだろうか。
では、我々が日常的に解釈するこのような自由とは存在し得るのであろうか。
しかし、それを考えようとする前に、この解釈自体をもう一度吟味する必要があるように思える。それは、これがどのような状態を表しているのかは曖昧といわざるを得ないように思えるからである。それは、前述のようにこの解釈の前半は原因からの必然的束縛を受けないということであり、後半は結果への必然的束縛を与えることであるとするなら、ここで共通に使用した必然的束縛は別の内容のはずである。なぜなら、もしこれらが同じ内容であるなら、そのような束縛を受けるか受けないかのどちらかのはずであろう。
つまり、この解釈は別次元の内容が混在した解釈になってしまっている為、曖昧であるということである。そして、このような解釈は一般的には前半が客観的な視点であり、後半が主観的な視点になってしまっているのではないだろうか。言い換えれば、前半は客観的な複数の可能性の有無の問題であり、後半は主観的な選択という行為の有無の問題だということである。その為、以下で客観的視点と主観的視点に分けて、自由とはどのようなことであるかを解釈し直してみたい。そして、そのうえでそれぞれの視点において行動における自由ということはあり得るのかを考えてみたい。
まず、客観的視点で、前述の内容を解釈し直すとすればどのようになるであろうか。ただこのとき、安易に客観的視点といってもそれは多重の内容を含んでいる。それは、この客観性とは純粋な(つまり主観との対比ではない)客観性、言い換えれば絶対的客観性であるのか、それとも主観の存在を前提とした直接的な主観との対比としての、全てのあるいはより多くの主観においての共通性としての相対的客観性であるのかという問題である。その為、それぞれ別に論ずることにする。
では、絶対的客観性における自由から考えてみよう。しかし、このような絶対性は我々を超えてしまっているようにも思える。それは、(私の意見の「真理とは」でも述べたように)我々に捉えることができるのかことであるのかは疑問だということである。ただ、それでももう少しだけ考えを進めてみようとすればどうであろうか。
このとき、前述の定義の前半部分はどのように解釈できるであろうか。それは絶対的な事実として、複数の可能性が存在するという前提ということであり、少なくとも世界のある部分は非決定論的世界であるということであろう。そして、ここで問題となるのは、世界の全てが非決定論的であるのか、一部が非決定論的であるのかということであろう。
ただ、もし我々が日常的に解釈するような自由が存在するとすれば、選択という行為を可能にする非決定論的世界が存在することを前提とするだけでなく、その行為によって結果に必然的な束縛を与えられるという決定論的世界が両立しなければならないであろう。それは、結果的に特定の可能性を選べないような世界では、このような自由は存在し得ないであろうということである。例えば、ある選択による結果を全く予想できないような完全に非決定論的世界では、例えどのような選択が可能だとしても、その結果に有意義に影響を与える自由は存在しないであろう。
では、決定論と非決定論が両立する世界とはどのような世界であろうか。ただ、もしこの世界のそれぞれの領域が相互作用可能だとすれば、このような世界は成立し得ないであろう。なぜなら、相互作用が可能だとすれば、決定論的領域においても非決定論的領域から非決定論的相互作用を受ける可能性があるのであって、このような世界は全体としては非決定論的にならざるを得ないであろうからである。
ということは、もしこのような両立が可能だとすれば、それらは相互作用不可能であるということになるのであろう。とすれば、我々は結局決定論的世界か非決定論的な世界のどちらかに存在しているということに変わりは無い。
ただこのとき、例えば我々は非決定論的世界に住んでおり、それに影響だけ与えこちらからの影響を受けない決定論的別世界があると仮定すれば、我々の内的精神世界と外的環境世界の関係性のある部分を説明し得るかもしれない。(もしこれを逆に想定すれば、先の論理からすれば全体として非決定論的世界にしかなり得ない)それは、例えば決定論的別世界からの最初に影響を受けるところは決定論的な変化をするのかもしれないが、それが我々の世界の中で相互作用を受ける過程によって、徐々に非決定論的な変化を示すようになっていくのかもしれないということである。つまり、我々が外的必然性に完全には束縛されずに(しかし、ある程度の影響を受けつつ)選択をする可能性を保障し得るかもしれないということである。ただ、この仮定では外的環境(決定論的別世界)に対して我々が影響を与え得ることは完全に否定されるということでもあるだろう。
しかし思い出して欲しい、もともとここで決定論的世界の両立を要請したのは、我々が結果に有意義な影響を与える自由を保証しようとした為である。それにもかかわらず、このような仮定をするなら結論としてそれは完全に否定されることとなる。そして、更にこのような相互作用不可能な世界を仮定するなら、我々は世界の全てを捉え得る可能性は必然的に否定されるということになるであろう。(ここまでの内容は、私の意見の「(自由)意志とは」で既にもう少し詳しく述べた。)
また、もし逆に我々の選択という行為が少なくともある部分で非決定論的要素を含むものとして、世界に影響を与え得ると仮定すれば、もともと世界が決定論的であるか非決定論的であるかに関わらず、我々の選択という行為によってそれは非決定論的にならざるを得ないということになるであろう。そして、それは結果に有意義に影響を与えるという意味での自由を自ら奪う行為とも言えるのではないだろうか。
このように、前半部分の解釈だけでも我々が日常的に解釈するような自由は否定されるようにも思える。しかしここで、前述の後半部分についても解釈し直してみよう。とりあえず、前半部分の複数の可能性の存在を問題としなければ、それは何かからの束縛を受けずに結果を必然に束縛することであろう。とすれば、少なくとも世界の一部は決定論的であるということであろう。
このときも、先と同じ議論と結論が可能であろう。ただ、この場合必ずしも非決定論的世界の存在が要請されるとは限らないのではないだろうか。例えば、それぞれ別の原理によって関係付けられた複数の決定論的領域が世界に存在しており、それらの領域がそれぞれの原理を崩さない形で、限定的な作用関係を持っている世界を仮定すれば、他の領域から完全に束縛されずに何らかの結果に必然的束縛を与えることも可能であるかもしれない。(このような世界を厳密に想定できるかどうかは疑問でもあるが)
しかしこの場合、世界は決定論的なのであって、複数の可能性は否定されざるを得ないであろう。つまり、ここでも我々が日常的に解釈するような自由は存在しないであろう。
このように、世界を決定論・非決定論という方向で解釈しようとすれば、我々の自由は否定されるようにも見える。では、我々が日常的に解釈する自由などということはありえないのであろうか。しかし、確かに我々は自由を感じているようにも思える。それは、自由とは絶対的客観性によって語られることではなく、何らかの限定の中で語られることなのではないだろうかとも言えるのではないだろうか。
例えば、前述の自由電子の例のような特定の何かからの自由という、限定的自由について考えるのもひとつの必要な方向性ではないだろうか。それは、我々がその行動に関して自由であるといった場合も、通常何らかの必然性の存在を認めながらも自由であると思っていることが多いのではないだろうか。より具体的には、日常的に我々は物理法則そのものには縛られながらも、何時・何処で・どのような行動を起こすかという自由は残されていると思っているのではないだろうか。具体的には、例えばビリアードで一度打ち出された球の動きは必然的に決まってしまうかもしれないが、的球の何処をどのような角度・強さでどのタイミングで打つのかというような自由があると思っているのではないだろうか。
もしそうであるなら、どのようなことに縛られなければ自由とし得るのかということも、ひとつの重要な問題ということになるであろう。それは、ある限定を意識したうえで自由について語るということである。
次に、相対的客観性における前述の自由を解釈し直したとするとどのようなことになるであろうか。ただ、この相対的客観性も多重の内容を含んでいる。それは、これが全ての主観における共通性、言い換えればある種の普遍性を持つ相対的客観性であるのか、多くの主観における共通性、言い換えれば文字通り相対的客観性なのかという問題である。
それでは、前者のある種の普遍性を持つ相対的客観性における自由について先ず考えてみる。このとき、前述の定義の前半部分はどのように解釈できるであろうか。それは、普遍性を以って我々が複数の可能性の存在を確信できる状態が存在するということであろう。
もちろんこのような状況の存在を、どのように普遍性を以って証明し得るかということは問題である。しかし、それ以上に世界がこのように現れるということだけから、直ちに我々が自由な行動を起こせると帰結することはできないということが問題ではないだろうか。
それは、既に述べたように偶然ということもあり得るからである。このことは、全てが必然性によって縛られないという前提を保障するのみであって、残りの全てを偶然(それがランダムなものか確率的なものかに関わらず)によって縛られる可能性を否定するものではないということである。
その為、前述の定義の後半部分も解釈する必要があるであろう。それは選択という行為は客観的にどのように捉え得るのかという問題である。言い換えれば、それは意識されて以降、いわゆる精神の過程の中にある結果を束縛する必然性がどのようなことであるかを明らかにしなければならないということである。
このとき、もし選択という行為が行われるとするなら、何らかの指向性存在が証明されなければならないであろう。それはつまり、この結果を束縛する必然性とは合目的性であるということである。しかし、ここで問題となるのは結果から省みる限りにおいて、合目的性と必然性とは客観的に区別できないということである。なぜならこれらの相違は初期前提の問題であるからである。
例えば、もし世界に複数の可能性が存在することが前提とされたとして、どのような状態が観測されれば選択という行為が客観的に証明されたと言い得るであろうか。このとき、前提とされた複数の可能性の内のどれかが観測されたという結果のみで、選択という行為がなされた証明にはなり得ないであろう。それは、何度も述べているように偶然であるかもしれないからである。
もちろん、だからといってその行為者にそれを選択したかどうか確認したところで、意味が無いであろう。それはあくまで主観的な問題であり、客観的な正当性を保障するものではない(例えば、錯覚でしかないという可能性を否定できない)であろう。
つまり、前提として指向性が有るか無いかということが合目的性と必然性を区分する問題であり、それはどのような結果からも証明し得ないのであり、普遍的な客観性を以ってそのような自由の存在の有無を語ることはできないのではないかということである。言い換えれば、普遍的客観性において語り得ることがもしあるにしても、それは何かからの自由のみであって、それが自由であるにせよそうでないにせよ(例えば、必然にせよ偶然にせよ)我々が世界に対して能動的な影響を与え得ることを保障することも否定することもできないということである。
では、後者の純粋な相対的客観性における自由とはどのようなことであろうか。このような、多くの主観による共通性には、その主体の構造的共通性と文化的共通性を考えることができるのではないだろうか。
前者はつまり、多くの主体が自由を感じている構造的共通性はどのようなことかということである。そして、これは客観的証明によって普遍的客観性になり得る可能性を持っているということでもあるだろう。
このことは、行動の過程の中のどの部分に束縛が無ければ、自由であるということになるであろうかという問題でもある。それは、我々が偶然と区分して自由と捉え得るような客観的状況があることが前提とされるということではあるだろう。これは前述のように、我々は原因からの必然的束縛を受けずに、結果への必然的束縛を与える存在であること、言い換えれば、複数の可能性の存在を前提としたうえで、可能性への必然的束縛を与える存在であることがその状況ということであろう。
つまり、我々に与えられる何らかの原因からの刺激と、それを意識して以降の行動選択をして更に何らかの結果へ影響を与える過程との間に、それ以外の過程の中には無い特別の飛躍が客観的に存在していることが前提とされなければならないということであろう。
これについては、私の意見の「精神とは」で扱った問題である。ここでは簡単に述べてみたい。それは、感覚や感情という指向性が原因からの飛躍と結果への束縛を行うのではないかということである。先ず、根本的には感覚という対象指向性によって、対象は意味付けされ意識されるのではないだろうか。言い換えれば、それは対象化することであり、客観から飛躍して物事を関係付けるのではないだろうか。更に、感覚や感情等における快・不快という目的指向性によって結果を束縛するのではないかということである。つまり、そのような関係を必然的に決定しないが方向性を示す指向性の自覚によって、我々は自由を確信しているのではないかということである。
しかし、この指向性は証明し得ない。逆にこれを証明することは、指向性を必然に捉え直すことに他ならないからである。(この問題は私の意見の「意志とは」で、主観的に証明することを試みた。)そして、指向性は客観的結果の必然性も保証し得ない。それが保障するのは主観的必然性のみである。その為、これは普遍性を持った相対的客観性にはなり得ないのは確かである。もし、それを肯定するものがあるとするなら、それは主観の確信でしかないであろう。
では、後者の文化的共通性における自由とはどのようなことであろうか。それは、社会の構造的あるいは制度的な束縛の有無、言い換えれば強制の有無の問題ということである。そして、最も日常的に使用される自由とはこのような意味においてであろう。
ただ、これは基本的に我々の自由を前提としているのではないだろうか。その前提に立ったうえで、ある限定的な何かがそれを阻害しているかどうかということであろう。つまり、この場合はそのような具体的な束縛の有無のみが問題であり、それからの自由という意味だけで自由ということができるであろう。そして、これは最も明確な自由の解釈であろう。
最後に、主観的視点で先の自由の定義を解釈し直したとしたらどのようになるであろうか。この場合、客観的視点において問題になった定義の後半部分は大きな問題とならないであろう。それは、一般的に主観における指向性は意識されていることであり、それを指針とした選択は自覚されていることである。そして、この自覚の意識という根拠において、この意味での自由は保障されるのである。逆に、この自覚の意識が無ければ自由は否定されることとなるであろう。
ただ、今度は定義の前半部分が問題となる。それは、主観において複数の可能性が存在しているというのは、どのようなことであろうかということである。これも、多重の内容を持っているのではないだろうか。それは、結果的にそれが可能なことなのかということと、選択することが可能なのかということである。そして、これらは必ずしも両立しないということが問題である。
例えば、「私は何の道具も使わず鳥のように大空を飛ぶ自由があるか」という疑問に対して、現実的にそのようなことは不可能であるから、そのような自由は無いというのが一般的解釈であるかもしれない。ただ、このような現実に可能であるかどうかというのは客観的な問題であろう。しかし、これまでの議論のように客観的視点で自由を語ることの不可能性が問題となる。つまり、ここでの結果的な可能性の有無は、主観においてそのような確信の有無の問題である。
とすれば、「何の道具も使わず鳥のように大空を飛ぶ」ことが不可能であるという確信が私に無ければ、そのような自由が私には残されていると解釈することも可能ではないだろうか。このような意味においては、我々はその無知さに応じて自由であることが保障され得るということになるであろう。
しかし、普通このような解釈には違和感があるのではないだろうか。それは、我々は結果に対してより関心を示すからではないだろうか。なぜなら、我々は指向性を意識しているからであり、指向性(志向性)は結果を求めるからである。
確かに、結果への確信は実際に体験される結果との無矛盾性が高ければ、結果への可能性という意味において自由を広げることができるであろう。しかし、それは同時に選択の可能性という意味において自由を狭めることであるだろう。それは、その確信に妥当性があれば、不可能であるという確信によってその選択筋を消すことによって、より高い確率で望む結果を選択することが可能になる一方で、選択筋の多さという可能性を低くすることであるということである。
ただ、もし我々の行動の全てを結果への確信が完全なる自明性を以って束縛するとすれば、我々に選択の余地は残されないであろう。このときも、我々はやはりその無知さによって自由を保障され得るのではないかということである。
つまり、主観的な視点での自由の解釈とは、主観が無知であることを前提として、選択することなのではないだろうか。そしてこの意味で、我々は少なくとも主観的には(良くも悪くも)自由であると言えるのではないだろうか。
このように、自由というのは限定的な何かからの自由についてのみ語るか、また何かへの自由について語ろうとするなら主観においてのみ語られることなのではないだろうか。そして、主観において不可能の確信への懐疑は我々にとって最大限の自由を保障することではないだろうか。
1. 精神について
精神とは何であろうか。精神が何であるかはともかく、そう呼ばれるものの少なくとも一部は、我々が常に感じているもののことであることは確かであろう。また、それが意識されたもののことをいうのか、無意識のものも含むのかはともかく、少なくとも意識された何かというものが確かにある(感じている)ことは自明であるとは言えるだろう。それは、例えそれが錯覚でしかないにせよ、その錯覚を感じてしまっていること自体は確かであろうということである。つまり、それ以外のどのようなものが否定されるにしても、何らかの精神的なものの存在を否定することはできないように思える。
更に、客観的な物質存在を前提とした場合でも、例えばそれが物質的な何らかの因果関係によって現れる(感じさせられる)と考えるにせよ、我々が感じているものそれ自体が、物質というものとは別のものとして感じられているのも確かなのではないだろうか。例えば、視覚というものを外界からの物理的な刺激が感覚器官によって捉えられ、それを脳が処理した結果だと考えるにしても、その処理された全体像として我々が実際に感じている映像という感覚自体が物質であるとは言えないのではないだろうか。
それは、我々が何かを実際に感じてしまっている、つまり意識していることによって、精神を何らかの必然性だけで説明することの困難さが感じられてしまうということでもある。逆に言えば、もし我々に(主体の)意識というものがなければ、世界はそれがどのような在り方をするにせよ、世界そのものとして(他の可能性のない絶対性として)存在しているだけとも言えるのかもしれない。しかし、そのときはそれを捉え・考え・表わすものがいなくなってしまうということであろう。
ただし、これは必ずしも超自然的な何かが、存在することを前提とするということではない。例えば、それが物質的な何らかの結合により必然的に生み出されたものであるにしても、いわゆる物質とは異なる存在の仕方をしている、精神と呼ばれるような何かがあることは(少なくとも現時点での我々の知的レベルにおいて)は認めざるを得ないのではないだろうかということである。それは、我々はその精神によってのみ(少なくとも一般的には)何かを知り得るのであり、それを意識することによって何らかの存在を語り得るのであろうからである。
それでは、もう少し具体的に考えてみるとどうだろうか。精神というと、ひとつには物質との対比として、もうひとつは肉体との対比として捉えられるものなのではないだろうか。
物質との対比として精神をどのように捉えるかというのは難しい問題である。この問題に関しては、「真理とは」で述べたようにその根本解決は困難であるように思える為、ここでは取りあえず扱わないこととする。
ただ、先に述べたように精神の存在を大前提としてその立場から捉えるとすれば、ひとつには感じるものと感じられるものとして捉えられるのではないだろうか。ただし、精神は自らによって感じられるものとしての、二重の意味をも持っており、単純に対比にはなっていない。つまり、精神によって感じられるものとして精神と物質が対比になっているのであり、感じる側の精神は物質との対比とはなっていない。これをどう考えるかという問題もありそうである。
それでは、もうひとつの肉体との対比としてはどうであろうか。まず、肉体とは何であろうか。肉体というものがただの(物質的)存在と区分されるのは、何らかの行動をするものとして捉えられるということではないだろうか。つまり、(「生きているとは」でも述べた、自ら変化するものとしての)生きているものとして肉体を捉えるのであろう。このように肉体を実際的な行動をするものとして捉えたとすると、その対比としての精神とは、行動を決定するものとして考えることができるのではないだろうか。ここでは、このような行動との対比としての精神を考えてみたい。
では、このように行動との対比として精神を捉えた場合、精神とは何処から何処までの範囲のことをいうのであろうか。ただ、意識されたもの以外の存在は不明確であるとも言えるかもしれない。その為、もしそれ以外の存在を否定するのであれば、精神とはまさに世界の全てであると言えるのかもしれない。ただし、ここでは行動ということを前提として考えようとしている為、実際に行動するもの及びその行動によって影響を与えられる対象としての、精神とは別の外界の存在を前提とせざるを得ないのではないだろうか。
それは、行動(必然的ではない自らの変化)を問題とするのであれば、「生きているとは」でも述べたように、ひとつには自己の内界と外界との区分が前提とされなければならないように思える。また、その内界のおける行動決定の主体においては、選択可能性(非決定論的世界性)や意志(目的指向性)の存在などが要請されるということであり、外界においては「(自由)意志とは」で述べたような、予測可能性としての決定論的世界が要請されるように思える。つまり、それらは同じものではあり得ず、精神とは異なる別世界の存在が前提とされるのではないかということである。
では、精神にとって内界と外界はどのように区分されるのであろうか。この捉え方には実質的区分と形式的区分を考えることができそうである。
まず、実質的区分としては、例えば肉体的な機能つまりどのような部位(器官)が精神を創り出しているのかといった問題があるだろう。現在、精神は脳によって創られていると一般的に考えられているのではないだろうか。では脳の機能とは何であろうか。脳は動物特有のものであるとすると、まさに動く物としての動くということに関する器官ということであろう。そして物理的な力を生み出すものが筋肉だとすると、脳は基本的にはその動きを調整する為の神経の集まりということであろう。つまり、脳とは動物が行動を統制する為の器官であり、これが発達していき行動決定としての精神活動を行う為に特化された器官になったと言えるのではないだろうか。
しかし、動物以外の生物も当然何らかの行動をしている。例えば、脳という器官を持っていない植物や菌類や微生物なども、様々な環境に適応する為の活動をしているのは間違いないであろう。そしてその為には、何かを感受しそれをもとにその環境に適応する何らかの行動の決定がなされるということではないだろうか。つまり、動物のそれとはかなり違うものだとしても、何らかの(感受し、行動を決定するものとしてという意味での)精神と言える範疇に入り得る何らかの活動をしているはずであると言えるのではないだろうか。
もしそう考えるなら、脳だけが精神を創り出しているとは、必ずしも考えられないのではないだろうか。そのような意味では、動物(もちろん人間も含めて)も精神活動の全てを脳によって行っていると考えることはできないかもしれない。確かに、精神活動の多くは脳によって行われるのかもしれないが、それだけではないのではないだろうか。例えば、それらを形作っている細胞のひとつひとつもまた、ある種の精神を持っていることを考えることもできるのかもしれない。つまりそれは、精神というものを局在的なものとして捉えることは困難なのではないだろうかということである。
このように、精神の内界と外界について実質的(肉体的)区分をどのように捉えるかということの結論を出すのも単純なことではないように思える。ただ、ここでは肉体的な分析をする術もないので、このような方向で考えるのは範疇を超えるであろうからここまでとしたい。
では、形式的な区分を考えたらどうであろうか。このような意味では、精神とはその行動を起こす何らかの切っ掛けから、実際に行動を開始するまでの範囲ということであろう。つまり、精神とは行動決定をする何らかの過程ということになるだろう。このように考えたとすると、実際の精神活動と言われるものはどのようなものであろうか。ここでそれについて考える為に、具体的に人間がどのように行動を起こすのか考えてみる。
まず、行動というものを必然ではなく何らかの選択的な行為として捉えるとすると、それを行うには、例えば何故そのような行動をするのか、あるいは何の為にするのかというような、何らかの指向性(意志)の存在が前提とされなければならないであろう。それは、もしそのような指向性がなければ、どのように行動決定をしてよいのかということ自体が解らず、偶然以上の意味で行動決定を行いようがないであろうからである。
ただし、そうすると、当然どのように意志が生まれるのか、あるいは何が意志を生み出すのかという疑問も出てくるであろう。しかし、それを何らかの必然性によって説明しようとすることは、逆に意志を否定してしまうということにもなってしまうであろう。それは、何らかの選択の余地を前提として初めて意志の存在を肯定できるはずであろうからである。つまり、行動というものを考える以上は、それが何故生まれるかは別にして、何らかの指向性(意志)の存在を自明のものとして考えざるを得ないのではないかということである。
またこれとは別に、行動を行うということは、それがどのようなものであるにせよ、当然何らかの行動ができる能力(機能)があることも前提とされるだろう。
このようなものの存在を前提としたとすると、行動決定がなされる為にはまず情報の獲得が必要であろう。それは、もし何の情報もなければ、指向性(意志)にとって適切な行動の決定を行いようがないであろう。そして、更にその情報は外界におけるものだけではなく、内界におけるものも必要であろう。それは、自己の現状が解らなければ、やはり適切な行動の決定が行えないであろうからである。
そしてこのとき、その行動決定の材料となる情報というものも、全く中性的なものではあり得ないのではないだろうか。もちろんその感受能力という制約をまず受けるであろう。しかし、それだけではないのではないだろうか。それは、その情報が何らかの行動にとって何らかの意味を持って捉えられたとき、あるいは以前に捉えられたか、知識として何らかの意味を含めて記憶されているかしたときに、初めて行動決定の材料になり得るのではないであろうかということである。逆に言えば、何の意味付けもされていないような情報は存在しないのことと同じ(まさに意味がないこと)であり、指向性という方向性によって眺めたときの、何らかの意味付けがなされた感受として情報が存在するのではないだろうか。つまり、情報には単純に客観的ではない指向性を持った飛躍があるということである。
このような情報をもとにした行動を考えたとき、単純な生物では、この情報に反応して直接的に行動が結び付くのかもしれない。つまり、その生物の目的(指向性)に促した反応のパターンがすでに存在しているという状態であり、それは非常に単純なソフトウェアであるとも言える。このような行動が行われるのは、このような生物の場合、行動の決定及びその具体的な表出能力自体が比較的限定されている為ではないだろうか。つまりその能力の限定という範囲において、目的という指向性も限定することにより、それに関わる情報だけを選別して、その状況に対応しようとすることでなのではないだろうかということである。
またより高等な生物でも、本能や自律神経などと呼ばれるものは、このような反応の範疇として捉えることができるのかもしれない。しかし、この時点では、目的が限定的に選択された状態で、感受された情報と行動との関係はより既定的であり、それは必ずしも意識的なものである必要はない、つまり無意識的なものであってもよいように思われる。
しかし、このような反応は単純な行動には適しているが、より高度な問題解決には不適当であると言わざるを得ないのではないだろうか。我々は通常様々なものを感受しており、そしてそれらに様々な影響を受けていると感じているのであろう。しかし、それらの全ての情報に対して、行動のパターン化をすることは不可能であろうし、それ以上に個別の情報に対してそれぞれのパターン化された行動を行うだけでは、全体としてそれがその状況に適応した行動になるとは限らないであろう。つまり、このような反応は単純である為、量的には効率的と言えるであろうし、単純な問題に対しては一定レベル以上で平均点を取り易いであろうが、複雑な状況には対応しにくいという問題が起こるのではないかということである。
その為、そのときの全体的な状況判断が必要になるということであり、それに応じた行動決定を行うということであろう。そしてそれには、その状況における全体的な指向性としての目的を想定する必要になるのではないだろうか。それは、様々な指向性がただ混在しているのでは、どんな指向性の為に行動決定を行えばよいのかが解らないはずだからである。そして、このときそれぞれの感受された情報を統合、あるいは比較することによってその状況全体的な指向性(意志)を想定し、その目的(意志)の達成手段としての行動決定する為の情報の処理をする場として、ここに意識というものの存在意義があるのではなかとは考えられないだろうか。
例えば、誤って熱い物に手を触れたとき、手を引っ込めるのが無意識のパターン化された行動であるなら、このとき必ずしも熱いと「感じる」必要はないように思える。熱いと感じるのは、例えばそのとき負った外傷(火傷とか)をその後に保護するとか、今度は注意するようにするとかいう、二次的な行動決定を促進する為の情報のひとつになるという意味で「感じる」必要性があるのではないだろうか。それは、この「熱かった」という感覚の記憶は、それ以後の行動を必然的に決定付ける訳ではなく、行動決定の為の指向性として記憶されるのだろうということである。例えば、火の中に何か大事なものがあったとき、熱いのが解っていながら手を伸ばすこともあるだろう。つまり、そのとき熱さとそのものの大切さが比較されたということであり、その「熱かった」という情報は、それ以後の状況の全体的指向性を決定する為の情報のひとつになるということであり、その為に「感じる」必要があったと捉えることができるのではないだろうか。
このように考えるとすると、この情報処理を行う為に意識化された最も基本的なものとして、感覚と言われるものを捉えることができるのではないだろうか。このとき、感覚という情報にはふたつのものがあるように思える。
ひとつは内外におけるある程度客観的情報である。しかし、これも全く客観的情報ということではない。繰り返しになるが、先ずはその主体(生物)の感受能力(機能)に制約を受けることが考えられるだろう。ただそれだではなく、主体の対象との係わり方(意志)に影響された、何らかの意味付けをされた情報であると言えるのではないだろうか。それは、何らかの指向性というフィルターを通して捉えられた(意味付けされた)情報であり、逆い言えば、そうであるからこそ行動決定の材料としての情報になり得ると言えるのではないだろうか。
またもうひとつは、快・不快を含んだ情報であろう。それは、例えば美味しい・気持ちいい・まずい・痛い・臭いなどである。そして、快とは行動を促進するものであり、不快とは行動を抑制するものであると捉えるとすると、これはより明確な指向性(意志)としての価値を含んだ情報ということになるであろう。
ただし、感覚というのは具体的な(外的及び内的)対象との関係によって誘発されるものであろう。そしてそれは、例えば五感に代表されるような、各々の対象が別々に分割されて感じられてしまっているのではないだろうか。つまり、感覚による行動決定(思考)の促進は適用の場面が限定されるということである。
その為、より抽象的な、あるいは全体的・包括的な状況における、指向性を持った情報として意識化されるのが、感情であると考えられるのではないだろうか。
例えば、自分の過失で何かにぶつかっても、誰かに打たれても痛いという感覚は同じかもしれない。しかし、後者の場合はその状況の全体的・包括的な指向性として怒りなどという感情が起こるのではないだろうか。現在でも、感情が人間の環境適合行動をする為の活動であるということは言われている。しかし、そのとき我々が感じている感情自体は、あくまでその付随現象として捉えられているように思える。ただ、感情が人間を自動的に適応行動に仕向けるものであるのなら、やはり感覚で考えたときと同じように、特に「感じる」必要はないのではないだろうか。
つまり、感情の場合もわざわざ「感じる」ことに意味があるのではないだろうかということである。感情の区分の方法にも様々なものがあるのだろうが、大雑把に言えば、基本的に快と不快の2種類であろう。ここでも、快とは行動を促進するものであり、不快とは行動を抑制するものであると捉えるとすれば、感情とは何らかの(特に感覚と比べて、より抽象的あるいは全体的・包括的な)情報に指向性(意志)を与えるものであると言えるのではないだろうか。
そして、感覚や感情とは行動を規制する(方向付ける)が、完全には規定しないということが思考の可能性を増大させ、創造性を創り出すことができるのではないだろうか。つまり、感覚や感情は行動を決定するのではなく、情報の意味や思考の方向性を示すだけであり、感覚や感情に反した決定をも行うことをも可能にしているところに、より大きな可能性があるのではないだろうかということである。そして、それは多様な指向性(意志)を持ち得るからこそ、より大きな可能性があるということでもあるだろう。しかしそのことは反面、適応に反した行動(決定)もできてしまうという宿命を負っているとも言えるのかもしれない。
また、精神と言われるものの中には記憶と呼ばれるものも含まれているであろう。記憶とは過去の(原因と結果を含む)経験の何らかの蓄積であろう。そして、それが感覚・感情としての経験であれ、また思考(複数の経験の何らかに処理)によって生じた捉え方や考え方(例えば、好みや価値観や主義や信念など)などであるにせよ、それが行動決定に利用できるとすれば、それらにはすでに何らかの方向性(意志)が付加されているのは確かではないだろうか。それは、その情報が何らかの指向性の達成・非達成にどのような影響を与えたのかを蓄積することにより、以後の行動決定に役立てようということであろう。そして、これらが再び呼び出され指向性を持った情報のひとつとして利用されるのであろう。
そして、このような情報をもとにより高度な問題解決をするのには、感受と行動の決定の間に何らかの情報の処理、つまり思考を行おうとするのだろう。では、思考とは何であろうか。先にも述べたように、行動というものが一見適応に反したようなことをも行うことができるにせよ、本来的にそれは何らかの目的達成の為の行為と言えるのではないだろうか。それは、前述のように行動とは必然ではなく何らかの指向性を持ったものであるとすれば、結果的にどのような目的(指向性)が想定されるにせよ、また具体的な行動の結果がどのようなものになるにせよ、指向性に向かおうとするという意味では目的達成の為の行為ということには違いないであろう。
つまり、感受と行動を何らかの形でつなぐ思考とは、その状況における全体的な指向性(意志)の決定として、またその目的達成の為の行動決定をすることとして行われるものなのではないだろうかということである。そして、それにはどのような行動がどのような結果を生み出すのかという予想ができなければならないであろう。それは、それが解らなければどのような行動決定をしてよいかも解らないはずであろう。また、予測をする為には対象が予測可能であることを前提として、具体的な対象の何らかの規則性を見出さなければならないということであろう。このように考えると、思考とは規則性という何らかの必然性を含むように思われる。しかし、必然性だけを以って思考を捉えることができるであろうか。
ここでもう一度、思考とは何であるか考えてみる。思考とは何らかの情報(インプット)に対して、何らかの決定(アウトプット)を導き出す行為であることは確かであろう。このとき、インプットとしての情報に対する、すでに決定されている単純な対応(例えば一対一対応)としてのアウトプットを行ったものを果たして思考と言えるだろうか。例えば、普通我々はコンピュータなどが行っていることを指して、思考しているとは言わないであろう。
それでは、インプットとアウトプットがどのような関係を示したときに思考したというのであろうか。おそらくそれは、始めから決まったものではない何らかの新しいものが生み出されたとき、我々は思考したというのではないだろうか。つまり、そこに何らかの飛躍があるということであろう。
しかし、飛躍があれば全て思考と言えるであろうか。例えばインプットに対してランダムに(確率的偶然に)アウトプットが選択されたとしても飛躍があるとは言えるだろう。しかし、それを普通我々は思考とは言わないのではないだろうか。例えば、ルーレットが思考していると言えるであろうか。それは、ただの偶然の飛躍であり、そのようなものを思考とは捉えないということであろう。つまり、思考とは(他の選択の可能性を前提とした)何らかの指向性(意志)を持った飛躍を含むことなのではないだろうか。
別の見方をすると、情報があるだけで思考ができる訳ではない。もちろん、例えばそれを行えるだけのハードウェアとしての脳の発達も必要であるかもしれない。だが、前にも述べたように、それだけでは不充分である。思考をするには、情報にどんな意味を持たせるか、あるいは主体が何を求めるのか(意志)などの、基本的な方向性(指向性)を決める必要があるのではないだろうか。そうでなければ、思考をどのように進めていけばよいのか解らないはずである。
しかし、この指向性をあまり明確に決めてしまうと、その分思考の範囲(可能性)を限定してしまうことになるだろう。それは例えば、情報(インプット)に対する反応(アウトプット)が既存の対応関係だけに縛られるとすれば、そのプログラム以上の反応(アウトプット)はあり得ない。その為には、ひとつのインプットに対するアウトプットの可能性を広げる必要があるはずであり、そこに何らかの飛躍が存在するのではないだろうかということである。逆に言えば、何らかの飛躍があるからこそ思考と呼べるのではないだろうかということでもある。
つまり、思考においても必然性と(指向性を持った)非必然性が要請されると言うことであろう。ここで、具体的に思考の過程とはどのようなものであるか考えてみる。
先に述べたように、行動決定において予測する為には、対象の何らかの規則性を見出さなければならないということであろう。更に、規則性を発見する為には、対象のその状況特有の具体的事柄を排除して、より一般的な共通性を見出す(抽象化する)ということになるのではないだろうか。つまり思考の過程とは、予測をする為に情報を抽象化して何らかの規則性を見出し、その見出したあるいはすでに見出されている規則性を元に、その状況に対応する(具体化する)ようなその時点で考え得る最適行動を選択しようとすることではないだろうかということである。
それは、より単純に言えば帰納と演繹の循環過程であると言えるのではないだろうか。そして、それは何らかの規則性を元に(論理的に)なされているのは確かであろう。しかし、それだけではないのではないだろうかということである。具体を一般化する帰納に関しては当然飛躍が存在するだろう。だが、演繹にも飛躍があると言えるのではないだろうか。
演繹とは自明なことと条件を組み合わせて何らかの結論に至るのであろう。そして確かに、前提と結論の間には論理的で(少なくともある前提の範囲内においては)絶対的な帰結があるかもしれない。しかし、ひとつにはどのような情報を組み合わせるかというところに、飛躍があると言えるのではないだろうか。もしそこに何の飛躍もないのであれば、無数にある情報の何故それを選んだのかという理由が見当たらなくなる。何の飛躍もなくそれを行うのであれば、全ての情報の組み合わせを試してみて、偶然現実に合う結論を見つけなければならないことになるのではないだろうか。それは、理論的には無限の時間があれば可能であろうが現実的ではないように思える。
またそれ以上に、演繹のもととなる自明なことにしても、それが全く何の情報もなしに直接得られるものではないのであれば、何らかの具体性に起因するものということになり、何らかの帰納的過程は必要ということになるのではないだろうか。例えば、何かを捉えることができるもの(主体)の存在があって何かが捉えられるとすると、それがどのようなものであるにせよ、その捉えたものの全てがその主体にとっての具体性であろう。そしてその捉えた(感じた)ということ自体以外に何らかの自明性を見出そうとしたとき、その主体にとって捉えたものの全てである具体性からの推測という形でしか、それを行い得ないのではないだろうかということである。
このように、思考には必然的(推論)ではない、あるいは意識的な処理の過程を経ないような(無意識的な)飛躍、例えば一般的に感性やひらめきと呼ばれるような、より全体的・包括的な対象に対する直観的な判断というものが含まれるようにも思える。ただし、それが何であり、またどの位の可能性を持っているのかなどは難しい問題であであろうが、それが無意識的なものである以上捉え所がないこともあり、ここでは立ち入らないこととしたい。ただ、その直観的なものがどのようなものかはともかく、飛躍のない思考は思考ではないのであって、絶対的因果関係のみによって思考を行おうとする方向には無理があるのではないだろうかと思えるということである。
以上見てきたように、精神とは外的及び内的事象の感受と行動決定を行う、生物の内的活動であるということができるのではないだろうか。ただ、情報の感受にしても行動の開始にしても、何処から何処までというのは難しい問題ではあるだろう。ただ、形式的な区分として精神の範囲をもう一度考えてみると、情報の(無意識的)感受から(具体的な)行動の開始までが広義の精神であり、(意識的な)感覚から意志決定までが狭義の精神であると考えることができるかもしれない。
このように捉えたとすると、先に述べた、感じる側の精神と感じられる側の精神の問題は、前者が広義の精神であり後者が狭義の精神と言えるのではないだろうか。つまり、今感じている狭義の精神もひとつの情報として、広義の精神が無意識的に感受し、それを更に意識化することによって思考の対象とすることができているのではないだろうかということである。
そして、意識的な精神においては、具体的に感覚・感情・記憶・思考の活動として捉えることができそうである。そしてそれらは飛躍の過程であり、そのそれぞれが創造性を創り出していると言えるのではないだろうか。そして、意識とはそれらの指向性を持った情報の比較及び全体化(統合化)の場であり(この統合化は曖昧な「気分」というようなものから、思考によって明確化された目的性まで広範なものとしてである。)、また思考の作業領域として捉えることができるのではないだろうか。
(ブログに抜粋)ちなみにこれをぜんぶよんだらすごい
       5. 2012/01/08 同日2番目 書いた本人専用メモ書き =>古記事6. 2012/01/08 書いた本人専用メモ書き
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