[フェティアの日記/書き物]

弱者の論


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1. 2012/02/07 「弱者の論」 分類: 雑談
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以前、強者の論という日記を書いた。
相対して弱者の論について。
こんなことを書くからはぶられる、と言うのは某人の言う通り。
 
 
強者の論が決して弱者に届かないように、弱者の論も決して強者には届かない。
 
いい加減この構図飽きたな。いつまで強者と弱者の枠組みに縛られるつもりなんだろうか。
 
 
強者が潜在的な自尊心から逃れられないように、弱者は潜在的な劣等感から逃れられない。
 
結果、弱者は否定的アイデンティティを形成したり、いつまでもモラトリアムを彷徨ったりすることになる。
 
 
真に強者と弱者の二元論を生み出しているのは、強者ではなく弱者。
 
弱者が潜在的な劣等感から脱せない限り、この社会的な風潮は続くのだろうなー。
 
 
と。考えてしまうあたり、私も強者と弱者の二元論に縛られているのだと思う。
 
 

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フェティア さんのコメント (2012/02/13) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
コメントありがとうございます。

>アンレーさん

>ヒトラーもサディズムでありながら支配される人間に依存していたという点では倒錯的なマゾヒズムであったのですが現代の強者にはそれがありません。

これはまたディープな。
強者の持つマゾヒズム性ですか。なるほど。私としては新しい観点です。フクシマの例をそのまま持ってくるならば、残ると決めた人々は倒錯的なマゾヒズムに浸っているのでしょうか。んー。どうだろう。それとはまた少し違うか。
うーん。セクシャルな面で、社会的な強者が倒錯的なマゾヒズムに浸っている例は数多くあります。しかしサイコロジーな面で、精神的強者が倒錯的なマゾヒズムに浸っている例が、いまいち思いつきませんでした。ヒトラーは確かに後者かもしれませんが、個人的には非常に特異なケースな気がします。セクシャルなマゾヒズムの背景に、精神的な強者性が存在しているのかについては、申し訳ないですが二項の詳しい関連性はわかりません。勉強不足ですみません。


>弱者は強者から逃れようとはしないけど弱者は強者の強者性を顕在化させようとしないのではないでしょうか。

んー。弱者も強者から逃れようとしていると思いますよ。
強者のように積極的に逃れようとはしないまでも、消極的には逃れようとしていると思います。あー、つまり排他的な行為に走る。例えば閉じこもったり引きこもったり。
これは私の妄想なので実際に統計取るとどうかわかりませんが、アイデンティティ形成が低い人と高い人で、2chとFacebookの利用割合を調べると、結構変わると思います。匿名性と実名性の心的な防御力はだいぶ違いますからね。ただFacebookもシンパシーを求める時代性を色濃く反映しているので、どの程度結果が綺麗に出るかはわかりません。仮に出たとしても、相関関係は作りにくいでしょうから良いデータではないでしょうね。

弱者が強者の強者性を顕在化させようとしないのは、間違いないと思います。
次項で書きます。


>弱者が弱者として群れていた所でその本質的な繋がりが無意識下の集団性に因るものだとしても、表面的には意識的集団性を保つ以上はリーダー、強者を持ちあげなければならない。
>だけどその強者の強者性、ようはリーダーを生み出した事によって発生する上下関係やその強者自体の独自の価値観、私情を認めない、とまではいかなくても受容しない方向があるように思います。

引用長すぎますが、それでもなるほどと思ったので。
いや現実の体験ほど良い教材はないですね。
これは面白いです。面白すぎて上手く自分に還元できませんw
しかし、弱者が強者の強者性を顕在化させようとしない、社会的な心理が良く説明されていると思います。


>自分達の価値を守る為に多様性って言葉を使っちゃダメなんですが・・難しい所です。

ああ。なるほど。
自衛的な「価値観の多様性」ですか。
確かに。
これはもはや、確かに、としか言いようがないです。


>長いばかりでまとまりも深みもないコメントになってしまいました

いやむしろ私こそ上手く返信できず申し訳ない。
しかし全体的に新しい知見が増えて、私としては得るものがとても多かったです。
いい具合にまとめていただいたので、こんな拙い返信をするのは気が引けたのですが、お礼も含めまして簡単に返信させていただきました。

あ。本年もよろしくお願いします。
と、バレンタインデー間近に言ってみます。
アンレー さんのコメント (2012/02/10) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
返信ありがとうございます

何気なくコメントした手前予想以上に掘り下げられて聊か焦っております(蹴
引用しながら論理的に思考するのは苦手なので、答えられる範囲で徒然と記させて頂きます。

>倒錯的なサディズムへ中毒的に没頭する人は、現代的弱者の中に多々いるのではないでしょうか。

現代的な観点でみた場合のサディズムは寧ろ弱者にあるでしょうね。全くの同意です。これが以前と違うのは、ナチスのヒトラーもサディズムでありながら支配される人間に依存していたという点では倒錯的なマゾヒズムであったのですが現代の強者にはそれがありません。前のコメントでいった強者が弱者の手から離れるという奴です。
確か以前IT革命がまだ全盛期だったころに、官僚の人がテレビで「最近のエリートは省庁よりIT企業に流れる」と嘆いていた事があります。そりゃ官僚なんて今や国民の非難の的である上削減の対象、政治家には冷たくあつかわれるの三竦みですし、気持ちは分かりますが、ここには弱者から逃れたい心理があったのではないでしょうか。
しかしIT企業で成功した所でホリエモンのように潰される定めもある訳なんですがね(

日本が特にそうですが、成りあがりを許さない風潮が未だに強く根付いている社会で弱者の倒錯的サディズムは色濃く表れているように思います。

>強者が弱者から逃れようとする様や、強者が弱者の弱者性を顕在化させようとする様は、強者的に捉えると、こういった構図になっているのではないでしょうか

モデル化された例は非常に分かりやすかったです。ありがとうございます。
だけどふと思ったのですが、この構図の逆はひょっとして成り立っていないんじゃないかと思います。
弱者は強者から逃れようとはしないけど弱者は強者の強者性を顕在化させようとしないのではないでしょうか。

弱者が弱者として群れていた所でその本質的な繋がりが無意識下の集団性に因るものだとしても、表面的には意識的集団性を保つ以上はリーダー、強者を持ちあげなければならない。だけどその強者の強者性、ようはリーダーを生み出した事によって発生する上下関係やその強者自体の独自の価値観、私情を認めない、とまではいかなくても受容しない方向があるように思います。
サークルをやっていて思うんですが、リーダーの指示に文句があろうが、極力リーダーの指示と割り切り、それを生かしながら全力を尽くす人間と指示に従わない気持ちのあまりに愚痴る、ちゃんと行動しない人間に分かれたりする光景を見て思った事なんですが・・。
政治を見てもそうですよね。自分達の既得権益の侵犯とまではいかなくても、自分達にとって不都合な、あるいは辱めと感じるような発言をした大臣は即刻辞任させるのもそういう心理があるんじゃないでしょうか。まぁ本当にアホな不謹慎発言をする人も事実っちゃあ事実ですが・・。

東のエデンで物部が言っているのですが、大衆にはプライドがあり、従わされる事を良しとしないという発言も、弱者は弱者としてのアイデンティティを確立しており、そこに強者が介入する事を許さないという心理の表れではないでしょうか。

多文化社会の観点からみると白人至上で作られた社会に黒人至上主義者が噛み付くといった所ですかね。

この構図の最も嫌な所は、フェティアさんも認識されているでしょうが、弱者の強者への認識、あるいは自分達への認識は相手の多様性を認めている訳ではなく、無意識的に自分達の価値観を共有する事を求めているだけなんですね。フェティアさんも仰られた価値観の多様性、の間違った使われ方の典型例だと思います。

自分達の価値を守る為に多様性って言葉を使っちゃダメなんですが・・難しい所です。

>個人化と集合化の問題が、現代的に強者/弱者の二元論に大きく関与し、相互に影響を与えあっている

自分はわりと聞きかじった社会学の観点から見ているのでちゃんとフェティアさんの考えに沿えているのかはイマイチ自信は無いのですが、恐らくその通りだと思います。

個人化社会は結局弱者の為のものに貶められてしまった。それがグローバリゼーションという言葉とは全く裏腹な構図を生み出してしまった訳だと思います。

・・改めて見るかなり強者よりのコメントですね、自分・・。
でも自分は間違いなく弱者だと自負しています(笑)

んー長いばかりでまとまりも深みもないコメントになってしまいました、すいません。
フェティア さんのコメント (2012/02/09) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
コメントありがとうございます。

>アンレーさん

>社会心理学でいうサディズムとマゾヒズム

近代的二元論ではそれがあったと思います。
支配する側の喜び、支配される側の喜び。
ただ後でアンレーさんがおっしゃるように、そんな70年も前の話と現代ではその様が変わってきているというのは、まさにその通りです。


>ただそんな七十年も前の話と今は全然違うように感じます。

現代的弱者が弱者であることに喜びを感じているのは間違いありません。
ただそれはマゾヒズム的な喜びではないでしょう。
現代的弱者は、弱者でありながら強者を支配するという、倒錯的なサディズムに酔っている気がします。
倒錯的なサディズムへ中毒的に没頭する人は、現代的弱者の中に多々いるのではないでしょうか。
結果多方面でモンスター化するのでしょうね。

他の方へのコメントで書きましたが、弱者にとっては弱者であることが強者なのです。
だって弱者は、弱者というだけで価値観の多様性を認められているから。
ゆえに弱者は強者のいう強者には成りたくない。

基本的にこれは何にだって当て嵌まります。例えば作品の提供者と視聴者の関係性。この場合、提供者は主体的に作品を提供する側なので強者です。逆に視聴者は提供者から提供された作品を受動的に受ける側なので弱者と言えます。だから提供者は強者で、視聴者は弱者。視聴者は弱者であるため価値観の多様性が認められる。そのため強者である提供者に好き勝手文句を言ったり批判をしたりしても許されるわけです。しかし提供者は強者であるため価値観の多様性は認められない。ゆえに提供者(=強者)が視聴者(=弱者)を批判することは基本的にはご法度。この二者関係に全く金銭的な拘束性がなくともです。

弱者は弱者であることで強者からその身を守っているのです。

何度か書きましたが、近代と現代では弱者と強者の関係性が逆転したというのは、まさにこういうことだと思っています。
現代的弱者は、弱者としての顕在的な自尊心を示そうとするのです。しかしその背景には潜在的な劣等感を抱えている。まさに近代的強者像だと思いますね。


>弱者、強者である事に対してある種の開き直りが発生しているみたいに見えます。

強者であることに対するある種の開き直りって観点は新しいですね。確かにそれはあると思います。
後の返信項で触れますが、強者であることへの開き直りは確かに存在すると思います。
弱者が弱者であることに対する開き直りとは、まさに否定的アイデンティティの形成です。
これはもう何度か書きましたし、その実も伝わっていると思うので省きます。


>弱者が潜在的な劣等感を捨てる必要性を無視し、増長していくのに対し、強者は自分達が既得している実力?めいたものを守る為に弱者の手から離れていこうとする。

これ、とても面白いです。
弱者については、まぁ何度も書いたので省きます。
精神的強者になるためには、顕在的自尊心の裏にある潜在的劣等感から脱する必要があるって話です。

ただ強者が弱者の手から離れていこうとするって指摘は面白いですね。
個人的には目から鱗でしたし、新しい知見が広がりました。ありがとうございます。

強者が弱者から離れていこうとするとは、具体的にどういうことなのか。
例えば有力企業の海外移転や優秀な科学者の海外漏洩などですか。つまり強者の日本社会からの逃亡。まぁしかしこれをやり始めると、結構難しい問題になるのでここでは非常に簡単に。一言でいえば、日本社会は均一化を目指す社会だからです。それに対してアメリカなどは勝てば官軍の気風が強いです。
おそらくアンレーさんの強者が弱者の手から離れていこうとするとは、上記のようなことだと解釈しました。私の友人もオランダとかアメリカとか海外に行っちゃいましたし、体感と大きな差はありません。

確かに強者のすべてが、弱者との積極的な関係性を望んでいるとは言えませんね。
んー。この構図を原発問題に例えると、わかりやすくモデル化できると思うので少しやります。
ただし非常に強者的視点からのモデル化なので、要注意です。

日本社会をフクシマだとします。
社会をフクシマとした場合、強者は福島に住む人々で、弱者は放射性廃棄物だと例えます。
福島の人々は、放射性廃棄物と共に生活するデメリットを理解し、放射性物質の危険性を十分に体感しています。その上である人は、福島から離れる判断を下します。またある人は、デメリットを承知で福島に留まる判断を下すでしょう。そこで仮に留まる判断を下した場合、福島に住む人々が望むことは、放射性物質の危険性の顕在化です。もちろん離れる/留まるの判断を下す際も、放射性物質の危険性の顕在化は非常に大切になりますけどね。だからこそ福島の人や科学者は、放射性物質の危険性を顕在化させようと努力します。本当に放射性物質と共に生きて安全なのか。福島に住む人々はみな、それが知りたくて仕方がないのです。もし住み続けることができるならば、どうやってそれらと共に生きていくのが良いのか。それを模索しながら生きていかなければいけません。

強者が弱者から逃れようとする様や、強者が弱者の弱者性を顕在化させようとする様は、強者的に捉えると、こういった構図になっているのではないでしょうか。

再度書きますが、非常に強者寄りの視点からのモデル化です。
その点良くご理解した上でお読みください。


>個人化が進む今の社会の特徴

またこれも難しい問題なので、この場ではあまり詳しくすることはできません。申し訳ない。

ただ個人化が進む社会という指摘は、まさにその通りだと思います。
しかしそれと同時に、アンコンシャスな部分で共感を求める社会になったのではないでしょうか。

確かに現代社会は、社会制度や意識的なコミュニケーションなどでの繋がりを重視しなくなりました。
代わりに無意識的なコミュニケーションを、より指向するようになったと感じます。例えば、理解よりも共感を重視したり、ネットによる集合的無意識の細分化と過激化が進んだり。意識的に行うコミュニケーションより、無意識的に行うコミュニケーションを重視する傾向にあるってのは、少し前から盛んに言われています。

このように、意識面では個人化は進みつつも、同時に無意識面での集合化が進んでいるのです。

まぁこれって結構怖いことなんですよ。
だから結構いろんなところで盛んに言われていて。

意識的な集合性を重視するなら、嫌いなやつとも付き合います。しかし無意識的な集合性を重視するなら、意識面で嫌だと思ったやつと付き合う必要性はありません。従って仮に意識面で個人化が進んでも、無意識は集団に属せているので、人は自己(=意識+無意識)としての孤独感は感じないのです。結果、意識面での個人化を激化させ、無意識の集合化を邁進させます。

これは別に強者/弱者のどちらに起こっている問題で、どちらが起源で、どちらが増長させているとかではなく、平等に降り掛かっている問題だと思います。ゆえにちょっとこの日記内で扱うには、複雑すぎる問題ですね。個人化と集合化の問題が、現代的に強者/弱者の二元論に大きく関与し、相互に影響を与えあっているという指摘ならば、大いに賛同します。
アンレー さんのコメント (2012/02/08) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
フェティアさんが言う構図って社会心理学でいうサディズムとマゾヒズムに似てますね。

まぁ大雑把にいえば支配したい側とされたい側です。

以降、フェティアさんがいう強者と弱者の枠組みのニュアンスと違ってしまうかもしれませんのであしからず。

強者と弱者、この両者の繋がりが見えにくくなってしまっているのが今の世の中なんでしょうね。支配する方もされる方も基本的に歪な形で結びついているものなんです、それが顕著に表れた代表例がナチスみたいな。ヒトラーが自身の政権を構築する為にドイツ国民を扇動するように、ドイツ国民は当時の国情を払拭してくれるような権威を求める。支配したい欲望とされたい欲望をお互い満たしあう為に結びつくのが本来的な両者の在り方なんでしょうね。

ただそんな七十年も前の話と今は全然違うように感じます。
リア充と非リアみたいに、日常レベルにまで弱者と強者(語弊はありますが)を分けられるようになっている点を見ると、弱者、強者である事に対してある種の開き直りが発生しているみたいに見えます。友達のグループも、自分達を全体として非リアと呼称したりするのが典型例といったところでしょうか。

弱者が潜在的な劣等感を捨てる必要性を無視し、増長していくのに対し、強者は自分達が既得している実力?めいたものを守る為に弱者の手から離れていこうとする。

歪な形であれ、正しい形(本当にあるのか?)であれ結びついていた両者が離れていったのは個人化が進む今の社会の特徴なのかなーって思ったりします。
社会の様々な側面が個人の為に在る事が出来るようになってきたからこそ、人が自分の為に生きていけるようになったからこそ、自分達と異なる存在とのつながりを放棄する姿勢が見えてきたのかなーって

拙い意見で吸いません。後半とか酷過ぎるwww
フェティア さんのコメント (2012/02/08) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
コメントありがとうございます。

>アマンドの木さん

引用するほどでもないと思うのでそのまま。

現代における強者/弱者の二元論が、ニーチェの時代における強者/弱者の二元論とは異なった風貌を見せ始めているってのは、JRさんへの返信で書いた通りです。

また「ハイデガーのように」と言われても、何をもってハイデガーと言われているのか分からないので、私としては何とも言い難いです。非常に記号的ですね。ただ私はエスパーするのが得意なので、その特技を発揮するならば、「二元論から一元論へ移行させることで解決」とならないように気をつけないと、って指摘でしょうか。違っていたらすみません。ハイデガー自体がかなり哲学的な人なので、本人のテクストを如何に解釈するかで変わると思います。本人が言ってることも結構時代と共に変わっていますしね。


そんで、「ハイデガーのような解決」が「二元論から一元論への移行」を意味し、それへの問題提起ならば、個人的にはかなりホットな話題です。
ここ数日、それについて私書でやり取りしていたので。
私たちも、ちょうどそれを問題視していたところでした。

「二元論から一元論へ」の風潮は、価値観の多様性に対する、今回で言うところの強者が出したアンチテーゼなんでしょうね。

だって世の中、「二元論から一元論へ」ってキャッチに溢れすぎている。
例えば、ディープエコロジー、環境論的認知と記憶、次世代育成力などなど。
アニメと作品の関係性も、「自己」と「作品」という二元論から、「作品=自己」という一元論へ移行させようという動きがある。

どれが正しい「二元論から一元論へ」の流れで、どれがその余波なのかが分からなくなっています。
今回で言う弱者も、この「二元論から一元論へ」って流れを逆手に取っている部分もあると思いますしね。



「二元論から一元論へ」って指摘が、すべて間違っているとは個人的には思っていません。
それこそ、ニーチェの時代の二元論と、現代的な二元論は違います。

必ずしも現代社会が目指す、「未分化から分化、そして統合へ」という流れは間違っていないと思います。

ただし、統合と融合と結合は違います。
融合とは赤と白でピンクになること。結合とは赤と白で紅白になること。より二元論的に例えれば、分化された陰陽を再び混沌(=未分化)に戻すことが融合。分離されてしまった陰と陽を再び陰陽に戻すことが結合。各思想が目指す統合が、融合なのか結合なのか、それを見極めていく必要があるのだと思います。

一概に統合が善、あるいは悪、と断定できるような社会ではすでになくなっているのではないでしょうか。
フェティア さんのコメント (2012/02/08) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
コメントありがとうございます。

日記はかなり強者側に立って書いたので、コメントは中立的にできればと思います。
んー。てか、コメントが弱者的なので、バランスを取るために私は若干強者的に書いて、日記を含めて総合的には中立になるようなものにしますね。


>JRさん

>>真に強者と弱者の二元論を生み出しているのは、強者ではなく弱者。
>という考えもまさにその二元論における強者の意見ですね。

いやまさにその通りだと思います。
やはり私も二元論に縛られて止まない人間であり、結果からみると私は強者側なのだろうと感じています。


>強者と弱者の埋まることのない溝は人間社会における永遠のテーマだし、
>だからこそしつこく強調されるものだと思います。

人間社会の永遠のテーマであるのは間違いありません。
しかし近年、より取り沙汰されているのは、内容が変貌しつつあるからだと思います。
近代までの強者/弱者の二元論は、強者になろうとする弱者の勢いが非常に強く、強者が弱者の反抗に対抗していた構図でした。それに対して現代的な強者/弱者の二元論は、弱者が弱者であることに否定的アイデンティティを見出し、強者が弱者を強者にしようと躍起になっているように思います。
同じ「強者と弱者の埋まることのない溝」というテクストですが、その実は変化しつつあるのではないでしょうか。


>強者の自尊心だってその裏には負けること、見下されることへの恐怖があるのだろうし
>弱者の劣等感だって時には反骨心に変わってその人の強みになるかもしれない。

近代的な強者と弱者の対立は、強者の虚栄心と弱者の反骨心に因るものだったと私も思います。しかし現代的な強者と弱者の対立が、近代のそれとは異なったものになりつつあるというのは、上記した通りです。従って現代的な自尊心の位置づけは、近代的な虚栄心を孕んだ自尊心とはまた違うものだと思いますし、学術的には区別されています。
また弱者の劣等感が反骨心に変わる時とは、まさにそれこそ弱者が潜在的な劣等感から脱する瞬間です。つまり弱者が潜在的な劣等感を反骨心に変えたとき、現代的な強者/弱者の二元論からみると、それが弱者から強者になった瞬間だということです。

しかし弱者は、弱者であることに否定的アイデンティティを形成しています。ゆえに弱者は、劣等感を反骨心に変える(=強者になる)ことが出来ない。なぜならば弱者にとって強者になることとは、弱者であるという自らの否定的アイデンティティを自己拡散させることと同義であるから。ニートが「働いたら負け」と言っているのと同じですね。万が一ニートが働いたら、ニートはニートという否定的アイデンティティを失ってしまう。だから彼らは働けないのです。
このように、現代的弱者は劣等感を反骨心に変えることに消極的になってしまった。近代的弱者との大きな違いです。近代的弱者はむしろ劣等感を反骨心に変えることに積極的だった。強者はこの弱者の変化を問題視しているのです。しかし弱者にとって見れば、弱者であることが弱者的な強者なので、強者的な強者になろうとはしないわけです。その結果対立構造は激化し、強者は「これだから弱者はry」と考え、同時に弱者は「これだから強者はry」と考えてしまう。

強者は弱者に積極的に関与していこうとするのですが、弱者は他者からの積極的関与を拒む。かつてはこれが逆でした。弱者が強者を積極的に揺り動かそうとした。現代はその逆で、弱者が強者から何としても揺り動かされまいとする。その結果対立構造は激化しry。

個人的に、こう言った部分が現代的な強者/弱者の二元論の難しさだと考えています。


>別にどっちがよくてどっちが悪いという価値判断を下すべき問題でもないし
>どっちがどっちに合わせなければならないという問題でもないでしょう。

強者はそう考えていないのでしょう。理由は様々あると思います。政治的な要因もあれば、社会的な要因もあり、同時に倫理的な要因もある。もちろん弱者側の主張、という断定は避けるべきですが、消極的な二者関係を善しとする主張も分かります。

ただそれこそどっちが善い悪いは言えなくて、積極的な二者関係(強者の論)を善しとするのが良いのか、消極的な二者関係(弱者の論)を善しとするのが良いのか、それは価値判断の下しようがないのでしょう。

しかし、いい加減この構図飽きたなーってのが、日記の主題ですね。


>一人ひとりの個人が自分自身をどう捉えるか、どうありたいかが問題

まさにその通りですね。本当にそうなのです。
しかしこの言葉が、この言葉の持つ意味のまま正しく使われない場面が増えてきたな、と強者は考えているのでしょう。例えば、「この言葉の持つ正しい意味も、人それぞれ」なんて言い始めると、本当にそれはこの言葉を正しく解釈した結果なのだろうか、と強者は悩んでしまうわけです。


>アイデンティティなんか無くたって死にはしないし、それこそこの国のどれほどの人間が
>立派なアイデンティティを持って生きているというのか。

何を持って立派とするかはわかりませんが、どれほどの人間が肯定的アイデンティティを持っているかは統計を見ればわかるはずです。
ただ時間軸を取ると、現代になるにしたがってその数値は落ちてきているかもしれませんね。それを現代的な価値観の肯定的変化と捉えるか、大人になれない青年が増えてきたと捉えるかは、判断が分かれるところだと思います。現代社会を生きる当事者たちは前者と考え、かつての社会を生きた当事者たちは後者と考えるのでしょう。しかし、後者の主張を単なる変化への忌避と断定することは、いろいろと問題点を残す判断だと、私は思っています。


>「強くあらねばならない」「立派に生きよ」
>そういう言説が二元論をより強化し対立を煽るってことに、自覚的じゃないといけないなと思っています。

これはおっしゃる通りだと思います。
現代的な強者/弱者の二元論を中立的に見れば、弱者が二元論を生み出し、強者がそれをより強化し対立を煽っているのでしょう。
的確な指摘だと思います。

いやー。難しい問題だと思いますよ。
結局、二元論の解消を望めばそれは強者であり、望まなければそれは弱者であるとも取れます。
一体どのタイミングで近代的な強者/弱者の関係と逆転したのか疑問ですね。

あー。んー。望まなければ弱者ってわけではないか。
弱者的にはそもそも二元論を意識的に考えること自体が間違っていることなので、対比的な表現でカテゴライズするのはダメですね。

だから強者は弱者の潜在的な弱者性を顕在化させようとするのだけれども、弱者は積極的な関与を善しとしないから、それを拒む。

うん。堂々巡りというね。
アマンドの木 さんのコメント (2012/02/08) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
>真に強者と弱者の二元論を生み出しているのは、強者ではなく弱者。
>弱者が潜在的な劣等感から脱せない限り、この社会的な風潮は続くのだろうなー。

ニーチェの時代からそうなのだから、これからも続くのでしょう。
むしろ、その風潮をハイデガーのよう解決してしまわないように気をつけないと。
JR さんのコメント (2012/02/08) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
こんばんわ。

>真に強者と弱者の二元論を生み出しているのは、強者ではなく弱者。
という考えもまさにその二元論における強者の意見ですね。
なんて意地の悪い指摘をしてみたり。

強者と弱者の埋まることのない溝は人間社会における永遠のテーマだし、
だからこそしつこく強調されるものだと思います。

強者の自尊心だってその裏には負けること、見下されることへの恐怖があるのだろうし
弱者の劣等感だって時には反骨心に変わってその人の強みになるかもしれない。

別にどっちがよくてどっちが悪いという価値判断を下すべき問題でもないし
どっちがどっちに合わせなければならないという問題でもないでしょう。
否定的でネガティブな自分だけど、それで生きてきたし自分自身に愛着あるしそれでいいよ、なんて人も居ます。
一人ひとりの個人が自分自身をどう捉えるか、どうありたいかが問題なのであって、
弱者・強者の二元論で人のあり方を捉える在り方はどうしても視野を狭めると思います。

アイデンティティなんか無くたって死にはしないし、それこそこの国のどれほどの人間が
立派なアイデンティティを持って生きているというのか。

「強くあらねばならない」「立派に生きよ」

そういう言説が二元論をより強化し対立を煽るってことに、自覚的じゃないといけないなと思っています。

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