| プロフィール | 私書 受 /送 /送済 | 評価(一覧 /絞) 投票 /共:受 /送 | 他己紹介 11/12/27 | 書き物 [書く] | リンク集(無) |
|---|
また意味不明的な日記になって大変申し訳ないです。
しかし、以前このサイトで間テクスト性について語ったことがあったと思うので、このサイトで書こうかと。
その時は、「間テクスト性によって作品が作家性を失っていく」と言った指摘に対し、「いや間テクスト性ってパクリを体系化した概念じゃない」的なことを言った記憶があります。かなーり省略し、かつ、上手く対比関係を見出せるようにデフォルメしているので、語弊を産んだらすみません。しかし、つまり言いたいことは、前者が間テクスト性に対するネガティブな指摘で、後者がポジティブな指摘です。
が。
しかしながら正直な話、ポジティブな間テクスト性について、知識としての理解はあったのですが、体感としての理解はありませんでした。いやー。最近ようやくそれを体感したのですが、宮崎駿って人はすごいですね。富野監督もすごいですが、宮崎駿っていう人は本当にすごいなぁと感じます。
体感を得て、やはり間テクスト性こそ、作家を至高に昇らせて止まない重要な要因だと確信しました。
以前名もなき詩人さんが、良い作り手は良い受け手とおっしゃりましたが、まさにその通り。作家志望の方で文学部に入り、書くスキルではなく読むスキルばかり教えられて辟易している方がいると思います。しかしそういった受け手教育こそ、最も大切な作家育成であることは間違いないですね。
| コメントする | 1個 |
|---|
| フェティア さんのコメント (2012/02/04) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)] コメントありがとうございます。 >名もなき詩人さん 土日ちょっと用事があり、時間があまり取れないので簡単になってしまい申し訳ないですが、少し。 >HNがでていたのでつい。 ああ。すみません。記号化社会的に、テクストだけ持ってきてしまいました。確かにこの書き方ですと、名もなき詩人さんの意図して使っていた、「良い作り手は良い受け手」とは違った文意になっていたと思います。申し訳ありません。記号化社会の弊害については意識するようにしているのですが、集合的無意識とは恐ろしいもので、なかなか抗うことができませんね。 >本人はあまり物語の語り部として歴史の中間点である事を意識して無い 今回の「間テクスト性」についての日記の主題はここあります。今回の日記は文学部云々が出てきたように、どちらかというと作り手へ向けたものですね。もともと私んが「間テクスト性」を作り手的に捉えているのがその理由です。 私は、受け手が作品と関わる際に意識する「間テクスト性」ではなくて、作り手がいち受け手として作品に触れる際に意識すべき「間テクスト性」をイメージしていました。 日記の題名には、『間テクスト性:女神アテネと弥勒菩薩』と書きました。女神アテネと弥勒菩薩は、叡智のアニマの具現物として知られています。あとはモナ・リザとか。このように作品には、人間の無意識が非常に高い濃度で凝縮されて存在しています。ある人は文化人類学からイニシエーションを見出すでしょうし、ある人はギリシャ神話から叡智のアニマを見出します。社会学的な「間テクスト性」の分類に当てはめれば、これは「縦」の間テクスト性ですね。 作家は、世界に拡散して存在する凝縮された無意識を、「縦」「横」の間テクスト性やハイパーテクスト性として抽出し、自らの内在的世界に集積していきます。内在的世界に集積された様々な「間テクスト性」が、時に意識的に、時に無意識的に作品に体現され、過去の人々が作品という形に凝縮した無意識を、次の人に託していく。 『ヒカルの碁』が良いことを言っていますし、ご存じだと思うので『ヒカルの碁』に置き換えます。 最終話、韓国の永夏がヒカルに尋ねます。 「聞きたいな。なぜ碁を打つんだ?」 それに対して、ヒカルの答え。 「遠い過去と遠い未来をつなげるために。」 その後、楊海が「碁に限らず、今生きている誰もがそうじゃないか」と言うのですが、このやり取りがまさに作家が求めなければいけない「間テクスト性」です。 おそらく天才は作品に凝縮された人間の無意識を読み取れるのでしょう。宮崎作品見てると、この人は尋常ではないと感じます。私は凡人なので、誰かが分かりやすく体系化してくれた無意識を、心理学として学ぶことしかできません。文化学部等で、読むスキルを徹底的に仕込まれるのは、歴史に四散した凝縮された無意識を拾わせるためなのだなと、最近理解しました。 自ら指導者となり、歴史の中間点に立つことはできます。 しかし宮崎氏が良き指導者とならず、書を捨て街に出よ、とだけ言うのは、おそらく、世界に四散した凝縮された無意識を拾わせるためでしょう。もちろんアニメも高濃度の無意識が凝縮されたものではありますが、アニメ以外の媒体に触れる大切さを、彼は知っているわけです。建築物に秘められた「間テクスト性」であったり、里山に見える「間テクスト性」であったり、児童とのかかわりで見えてくる「間テクスト性」など。 世界や社会に原石として数多に転がる、凝縮された無意識というテクストを拾い集める。 はたしてこれはパクリなのだろうか。 私はそうは思いません。アニメや漫画だけを見ていては得られないことだと思います。実際の子供に触れるからわかることもたくさんあります。これは私の経験です。アニメや漫画や書物に触れることを否定しているのではないです。しかし、それらはすべてデフォルメされているのです。オリジナルを知っているからこそ、触れて意味ある作品なのでは。宮崎監督の言動は確かに矛盾しているように見えますが、それが矛盾で無くなって見えた時、彼の天才性を垣間見れると思います。 >アニメを作る事の内省のレベル >人生観 「間テクスト性」が人生観に繋がっているかは微妙なところです。 無意識はたいていの場合、無意識でしか感じることができません。よって集積された世界の無意識は、多くの場合、無意識的にしか作品に反映することができません。 このように考えると、「間テクスト性」によって充実した精神とは、良く内省された精神というよりも、世界の無意識によって良く外省された精神と言えるかもしれません。 宮崎監督が、次世代の作家に求めるのは、そうした外省された精神なのかもしれません。(外省なる単語はたぶん存在しません。内省と対義的に造語しました。) >大衆文化 作り手に求められる外省は、何もアニメや小説に限った話ではないと思いますよ。たとえば建築物だって、そうでしょうし。 どこまで作家性を求めるか、という問題だと思います。 まぁ正直なところ、受けるテクニックを磨きたいのであれば、芸人になれば良いかと。いや極端な話をするとですよ。近年、芸人と作家の違いが曖昧になりつつありますが、個人的には違うものだと思っています。結局作家は、人間の無意識について探求していく生き物なのですよ。西洋の文化史を見ても、日本の文化史を見ても、最後はやはり自己や社会の無意識への探求です。 芸人も一面では、人の喜び等といった無意識への探求を行っているわけですが、やはり方向性は違うと思いますね。 テクニカルな作品の難しさは、作品論的にしか見ることが出来ないということです。テクストを抽出して考えると、途端に作品、あるいは文章としての面白さを失ってしまう。これはテーマ主導の作品の問題点でもあります。しかし真に作家性の高い作品とは、テクスト単位で抽出しても、そこに高濃度の無意識を凝縮させています。『ヒカルの碁』もそれです。 いやしかし、テクストを抽出的に持ってきてしまい、申し訳ないです。 以後気を付けさせていただきます。 まぁ日記の話としては、作品論や視聴者論というよりも、作家論的な話をしている感じですね。 名もなき詩人 さんのコメント (2012/02/03) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)] HNがでていたのでつい。ただ宮崎本人は微妙な所あります。後進の人に何かをつたえようとして語る事が少ないです。江戸っ子オヤジの愚痴みたいのが多くて、話す中身はビートたけし、石原慎太郎そっくりです。言ってる事とやる事ちがうじゃん!って事を平気で言ってしまう。鈴木Pがこれをネタにしていて、携帯の文句をたらたら言うけど、一度騙して使わせたら重宝して使ってるよってばらしてました。作品についてそれがあるのは、体感をすごく重視して、アニメ漫画ばかり見てて何が作れるんだと批判が多いのですが、ラピュタの元ネタ漫画だったと聞きます。ものすごい量の本読んでいます。ただ宮崎駿は創作物だけからヒントを得ないのはちょっと単純じゃないなと思います。書を捨てて街に出よって単純な意味ではないと思います。でも、どうみてもこの人、明確に創作物って言う本を読みまくってるじゃないかとは思います。確かに漫画アニメとかはあまり見て無いのかもしれません。ただ、言動不一致が常なので怪しいとは思っています。富野監督は良く新しいアニメ見たりするらしいので、宮崎監督の言動は嘘臭いとは思っています。物言いが、そういう気質の人なので。 何が言いたいかといえば彼本人はあまり物語の語り部として歴史の中間点である事を意識して無い気がします。 この点庵野監督が全く正反対のタイプで、必要以上に自分の功績を卑下してパクリだと公言しています。これ私は作家としてはパクリだとしても演出家としては素晴らしい個性の持ち主なので勿体無いと思っています。オリジナリティとは言いきれませんが、演出としてはアニメでは始祖に近い事を多数していると思います。私この点って物語として文字ののっかる部分と別じゃないか?と思うのです。彼は新しいエヴァの位置づけをアニメーターとしての自分への原点回帰の様に位置づけています。この点惜しいと思っています。彼は絵の演出も素晴らしいですが、ストーリーの演出力がずば抜けています。多くの人がストーリーに対して叩いたの不味かったのかもしれません。もっと褒めれば彼も自身のこの力もっと高く評価するのにと残念です。 彼の高い能力は作家と言うより芸人です。良い作品ではなくて、受ける作品。おそらくここがフェティアさんと私の大きなズレが生じる部分だと思います。フェティアさんは受けるテクニックを見て無さすぎる。それは観客によって変わると言う批判出るのは分かっています。その点自分でも問題点があると分かってるので。 じゃあどうしてエヴァの最後はああなのか?一応作家としてのプライドがあるんだと思います。芸人が作家になろうとしたけど失敗した。そう見ています。 宮崎監督は理性的ですが、作品に置いてならすぐに理解できるのですが、言動が不一致のところが多くて彼の方法論についていまいち分かりにくいです。その点庵野監督は分かりやすいです。良い読み手だと思います。宮崎監督は原作もち以外自分のソース滅多に言わないんですよね。庵野監督は事細かにソースのどの部分をとったかとかいうので読み手としての力が計りやすいです。現時点では知りませんが、過去の作品に置いては特にアニメではすごい分析力だと感じます。何より彼の評価の鋭いのは自身の作品を使ってその面白さを高いアレンジ力で再現する事です。作るための読む形が出来ています。後から生かしてるので見ているときはどう思っているか知りませんけど。彼は物語としてのアニメをコラージュとして割り切っていることを確か公言していました。 宮崎駿がすごいのは、アニメを作る事の内省のレベルが庵野監督と違います。人生観みたいのが入ります。庵野監督はもっとテクニカルです。だから分かりやすいんだと思います。彼が他のアニメの話する時は面白いですよ。 私がフェティアさんと決定的に違う点で、やっぱりフェティアさんは正統派だと思うところです。急がば回れをきちんと見ていると思います。私が見るところ、受けるって事は高い作家性ばかり重視されないと思っています。物語作りとしてはずるい方法ばかり見ています。 結局ね、マニアックになっていて細分化しても、漫画アニメって大衆性がその根本にあります。そこをずばりつくのに、物語論って弱いです。それは実写映画においても似ています。文学作品は所詮大衆文化じゃないんだろうなとつくづく思います。 受けるほうのテクニックの体系がすっぽり抜け落ちてるから、そりゃパクリの連続でしょ…。前者の方のオリジナリティがどっちかといえば高いのだから。 おそらくフェティアさんの鋭い眼力なら宮崎監督のその部分見抜けるのかもしれませんが、私は読み手の話をしましたが、庵野監督の方が分かりやすいですね。あくまでどちらが分かりやすいかの話で、決して宮崎監督を例に出したフェティアさんの話を否定する話ではないので。恐らく目的は高い作家性これが主題であるためで、そのために庵野監督はフェティアさんの頭に上らなかったと言う事かと。ただ私のHNが出たので、私は宮崎監督のその部分についてそうだと思ってますが、語るほどの考えは持ってないですよ?と書きたくて。 私過去に宮崎監督でそれを話していたら申し訳ないです。庵野監督なら書いたけど、覚えが無いなと思ったので。 |
[他の記事も読む]
<=新記事2012/02/05 書いた本人専用メモ書き
=>古記事2012/02/03 ギルティクラウン 15話:感想