おきゃんの日記/書き物


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1. 2011/11/06 「作品の本質について(作品を楽しむために)」 分類: その他
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「作品の本質」というのは簡単だと思います。

『いつ、どこの、誰の、どういう物語・お話なのか』、です。

なんだ当り前じゃん、と思うかもしれませんが、ところが、これをちゃん把握して
作品を見ている人は意外と少ないのです。表面的な現象にばかり囚われすぎなのです。
映像作品というものは表層的なものなのでそうなるのはしょうがないんですが・・・(^^;)。
逆に小説(ライトノベルは台詞ばかりで表層的ですが)は心理内面的表現が主体になりますね。

第1話だけで作品を評価している人たちで一番欠けているのはこの点です。
『いつ、どこの、誰の、どういう物語・お話なのか』が全く分かってないのです。
つまり作品の本質が何か分からないのに評価するからおかしげな作文になるのは当り前なのです。
これって作品にとっては「ただの闇討ち」だよね(怒)。○○○○が試し切りしているみたいな。

例えば、曲のイントロだけ聞いてその曲がどんな曲か、そのジャンルが分かりますか?。
全曲聴いてもジャンル分けができないこと曲だった、なんてこともありますよね。
POPなのかロックなのかイージーリスニングなのかクラシックなのか環境音楽なのか現代音楽なのか、
クラッシックのオーケストラアンサンブルのイントロでも実はハードロックだったなんてことも。
そもそもジャンル分け、というのはただの分類であって、分類する人の感覚でいくらでも
変ってくるのです。ジャンルは作品の本質とは何の関係もない、ということだと思います。
例えば「ラブコメ」だから「こうでなければいけない」ということは全くないのです。
もっと作品って自由だと思います。視聴者ももっと柔軟(自由)に見ても良いと思いますよ。
狭いジャンルや分野や世界におさまらないスケールのでかい作品だって沢山あります。
「この作品、そんなもんじゃないよっ」っていう感じかな。

「萌えアニメ」だと決め付け、最初から卑下して作品を見るほうが間違っていると思います。
また美少女が出ればなにを見ても「萌えアニメ」に見えてしまう感覚もおかしいと思います。

だって「萌え」そのものに良いも悪いもないのですから。「萌え」に嫌悪感を抱いていれば別ですが。
そもそも「萌えアニメ」なんてそれぞれの勝手な都合でそんなものは存在しません。
ジャンル・カテゴリを規定して評価することには殆ど意味がないのです。

ジャンルやカテゴリにこだわるとそれこそ「本質」を見失うのではないかと思います。
さらに過ぎると「作品実感」から懸け離れてしまうのではないかと思います。
「あれ?、この作品、こんなお話だったけ?」と作品の実体と実感から懸け離れた評価が、
意外と多いと思いませんか?。というか第1話で評価しているものはそんのなばっかりです。

『いつ、どこの、誰の、どういう物語・お話なのか』という作品の本質を理解していないからです。
理解できていないから表面的な現象・「表現の揚げ足」をとることしか出来ないのです。

例を挙げると、スポーツカーを評価しているのか、軽自動車を評価しているのか、はたまた
新幹線を評価しているのか、飛行機を評価しているのか、電気釜を評価しているのか、それを
わかって評価しているのか?、ということです。
シートが狭くて低すぎて前が見難いとか、ギヤやクラッチが固くて手が痛いとか、燃費が悪いとか
スポーツカー(競技車)にそんな文句・評価をつけるほうがどうかしているでしょう(笑)。
軽自動車に速度がでないだの、乗り心地が悪いだの安っぽいだの文句をつけてもしょうがないのです。
新幹線に「空が飛べないから飛行機よりダメだ」なんて評価はおかしいでしょう。
根本的なコンセプトが違うのです。当然、評価する「観点」「価値観」も違ってくるはずなのです。

もっと、自分が「何を」評価しているのか、「本質」を良く考えて欲しいと思います。

ところが、こと小説(ライトノベル)や映像(アニメ)作品に関してはおかしげな評価が多いのです。
例えるなら、自動車と電気釜を比較するようなちんぷんかんぷんな評価がまかり通っています。
それは、「何を」評価しているのか分からずに評価しているからなのです。

おそらく、ライトノベルやアニメは「マンガ的」で分かりやすいからなんでしょうね。
誰が見ても分かる(と、思い込んでいる)から、自分では何も努力をしない。軽視しているのです。
努力をしなくても受動的にテレビから流れる映像を眺めれば分かるものだと思い込んでいるのです。
だから「原作を読まなくても分かるアニメにしろ」なんて自分勝手なことが言えるのです。

なんでもひとのせいにして自分が努力していないことを棚に上げているのではないでしょうか。

楽しむための手間を惜しめば得られる喜びも幸せも感動だって減る。
作品だって料理だって何だって手間を惜しめば失われるものが増えていくのは当然なのです。

曲がりなりにもおこがましくも作品に対して「評価」しようという人間がそれでいいのでしょうか。

例えば、「境界線上のホライゾン」というライトノベル、アニメ作品がありますが、これがいま
とても面白くなっています。しかし、恐らく、この作品を「面白い」と感じることができるには
相当の努力を要します。だって、圧倒する物凄いスケールの世界観をもった作品なのです。

なぜ、圧倒する物凄いスケールの世界観なのか?。
だってこの「境界線上のホライゾン」、アニメ第1話だけではさっぱりわからないんだもん(笑)。
この時点で、書店に原作を買いに走った人は、この作品から正しい情報を受け取ってます(笑)。
つまり、そんなに簡単に伝えられるような世界観じゃないってことなのです。

この「境界線上のホライゾン」のアニメ第1話で『いつ、どこの、誰の、どういう物語か』
理解できた人がいますか?。恐らく原作を読んでいないとさっぱり分からないと思います。
しかし、アニメ第1話では「なんだ?、この作品は?」と思わせる「つかみ」だけでいいのです。
分からない(断片的だ)から、より注意して次回の映像や表現に集中して見ることになるからです。
そしてこのアニメがどう表現していくのかその手順、手法を順次理解していけばいいのです。

このアニメ作品、毎回「いつ、どこの」から始まります。時系列の明確化というやつですね。
それを頭の中で組み立てていくのは視聴者にゆだねられた事なのだ、とまず理解しなければいけない。
映像表現としては他にベストな手段はなかったのだと想像します。私もそれしかないと思います。
よって視聴者は、時間と場所そして登場人物を行列(マトリクス)の要素として相関関係の全体像を
設計構築(アーキテクト)する作業(思考)を通して作品の世界観を理解していくことになるのです。
逆に、そういうふうに視聴者は見ていかないとこのアニメ作品は到底理解できるとは思えません。
その努力をしないで作品に対して文句だけをいうのは筋違いだと思います。

第3話くらいまでで、なんとなく世界観が把握でき始めて、第4話にド迫力の痛快・爽快アクション、
第5話でのいきなりのカタストロフィ、処刑へ?と、驚くと同時にさらに作品世界に引き込まれました。
・・・なんて言う人は、今の段階では実はとても少ないのではないかと思います。(^^;)
というのは、恐らくそれまでに、殆どの人(特に原作未読者)は脱落していると思います。
深夜アニメらしく「大人が見ること」を意識して敷居を高く設定せざるを得なかったのではないかと
思います。そうしなければ表現しきれる作品ではないのでしょうね。脱落者は想定内ってことです。

作品から脱落するのはそのひとの勝手です、しかし、それでこの作品が「悪い」とは言えない。
作品を受け取る側の問題です。作品を理解するのに努力を要する作品だってあるのです。

原作も読みたくない、努力もしない、ついてこない、ついていく気がない視聴者の面倒まで
看なければいけない義務や責任が果たしてアニメ作品にあるんですか?。

スケールのでかい作品は重箱の隅をつつくような近視眼的な鑑賞の仕方では全体を理解することは
とても出来ません。作品を俯瞰的に捉えるには「流れ(プロット)」を大きく把握するに限ります。
もともと映像作品というのは時間的な流れを表現するのが得意なのです。
映像における「心を動かすための時間」プロットというものを無視してはいけないと思います。

作品は安易に感動の得るための「サプリメント」じゃないのです。

感動は勝手にやってくるものではなく、ちょっと努力して作品に最後まで付き合った人への
ご褒美なのではないかと思います。感動作だから見てやろうじゃないか、なんてスタンスや
発想はそもそも間違っていると思います。そんな上から目線で作品をみて楽しめるわけがない。

料理を味わうには目を閉じるのが一番だといいます。まっさらで謙虚な姿勢になることです。
視覚を遮断することにより味覚をより敏感に研ぎ澄ますことが出来るのです。
よい料理は視覚的にも工夫されていて楽しませてくれますが、料理の本質は「味」。
料理のマンガやドラマで美味しそうに料理を口にした時、よく目を閉じているシーンがありますよね。
あれは正しいのです。ちなみに目を閉じると味がよく分かるので食べ過ぎずにダイエットにも
良いらしいよ(笑)。

何を食べても、すぐに吐き棄てる悪食をいつまでも繰り返して、作品が美味しいですか?。
料理を言語分析して数値化して感情を垂れ流して、それで料理が美味しくなりますか?。
料理が味わえますか?、作品が楽しいですか?。

作品を楽しむための努力、楽しむための手間・時間、楽しむための工夫、していますか?。
作品との付き合い方を考えるのも、またひとつの視聴者としてのステップアップだと思います。
評価なんてのはそれからだと思いますよ。
なにがなんでもまず「評価」ありき、というのは間違っていると思います。

作品は変らない、でも人間は変われる、んです。

作品の評価って、その人の感性や受け入れる「心の器」が問われているのかもしれませんね。

※この雑記は、シグマル 様、カジマさん 様、Kirin 様の日記の「作品の本質」「萌えアニメ」
「境界線上のホライゾン」などに啓発されて書かれたものです。
※特にシグマル 様のこの日記は今一度よく読んで考えて欲しいと思います。
http://www.accessup.org/pj/6_A5B7A5B0A5DEA5EB/20111006.html
ありがとうございました。m(_ _)m

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おきゃん さんのコメント (2011/11/11) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
>>ホンコンヤキソバ 様 はじめまして コメントありがとうございます。
>>ぼくちんはそれって「作品概要」とか「あらすじ」と呼ばれているもののような
気がするです。

ホンコンヤキソバ 様がそうお考えならそれでいいと思います。
わたしの日記の意図としては「本質」についてそれぞれ考えてもらいたい、ということなので
それぞれが考え、疑問を持ち、答えを見つけていけば、それで(啓発に)成功したと思っています。

・・・では終わってしまう(笑)。

ということで、その疑問に対して、わたしなりの考えを書きますね。
簡単にざっくりいきますね。

「本質」は作品の原初・原点・核(ソース・スタート)。
「概要」は作品全体の筋書き・仕組み(プログラム)・仕様(スペック)。
「あらすじ」は作品のストーリー・物語の要約(ソースコード)。
「テーマ(意図・メッセージ)」は作品の目的(ターゲット・ゴール)。
つまり対象(ユーザー・読者・視聴者)に発信・伝える感情・共感(コミュニケーション)。

とわたしは捉えています。これが正解というわけではありません。以上。
こういうことは作品と向かい合うひとがそれぞれ自分で考え見つけることだと思います。

で、ここからあとは例を挙げての補足です。読まなくてもオッケー。長いので(笑)。

ではまず、例えば、
『クレヨンしんちゃん』の「本質」ってなんですか?。

わたしは、
>>「現在(いま)」「春日部」の「5歳児(重要)」が「とんでもないことを巻き起こすユーモア(物語)」
だと思います。
作品との触れ合い方や時間・時期によって多少は変るかもしれませんが、たいだいこれで
コンセンサスが得られると思いますよ。

これ、「あらすじ」ですか?。「作品概要」ですか?。
最初の上の『本質』だけを読んで、作品を見ていない人が「ピン!」ときますか?。
まだ作品を見ていない人でもある程度、おおまかに物語がわかるのが「あらすじ」ですよね。
「あらすじ」では詳細はわかりません。詳細が「作品概要」になるのではないですか。

「本質(ソース)」から作品が生まれ、その物語全体「概要(プログラム)」を視聴者に対し
分かりやすく要約し説明したものが「あらすじ(ソースコード)」だと思います。

「あらすじ」は筋書き(プログラム)やシナリオ・プロットによって変わりますが、「本質」は変りません。
『クレヨンしんちゃん』は原作も、TVのどの話も、どの映画も「本質」は変らないと思います。

この「本質」を理解するには、作品をちゃんと見ないと分かりません。
視聴者は最初に映像(マンガ)という表面に見える様々な表現・情報・現象で肉付けされたドラマから
少しずつメッセージ(テーマ)を受け取り、そこから本質に近づいていくからです。

そしてTVの個別の話や劇場版映画で、それぞれに異なった「テーマ(メッセージ)」が
あるのではないでしょうか?。「メッセージ」や「テーマ」なんて普通に見れば伝わるように
創作・制作されているはずです。「メッセージ」や「テーマ」はたいてい普遍的な心理や感情で、
わざわざ読み解く必要なんてないんじゃないでしょうか。テーマは表現のゴールだから。

具体的なストーリーやテーマや設定は肉付け演出する監督やデザインや描く人によって
色々と変わってきますが、「本質」そのものは変らないと思います。というか変えられない。
例えば「クレヨンしんちゃん」の「本質」のどこかを変えてしまったら全く別作品に
なってしまうのではないでしょうか。例えば「5歳児」と「6歳児」では全く違うと思いますよ。
しんちゃんは5歳児のまま、「いま」を生きてるので、最新の社会事情(風刺)だって反映する。
「クレヨンしんちゃん」はただのギャグマンガではなくブラックだったりシュールだったり
ハートフルだったりする「ユーモア」のある作品だと思います。この作品の気質です。
ギャグだけを追求していたら、ここまで息の長い作品にはならなかったと思います。

というふうに、「本質」を捉えてからストーリー、演出、ディテール、登場人物の心理などを
考えていくと「評価」の文章なんてどんどんでてきます。で、長文になると(笑)。

また、2006年版の映画「日本沈没」は原作小説とは全く変ってしまった作品です。
それは設定や登場人物、作品概要や表現が同じでも、『本質』が全く違うからだと思います。

作品を創作する人にとっては「本質」は作品として表現される前の大切な原点(スタート)です。
創作の動機といってもいいかもしれません。でも、消費者・ユーザー・視聴者は「本質」の
ことより「メッセージ」や「テーマ」が大切と考えているのかもしれません。
でも、「評価」するとなると「本質」というのはとても大切なのではないかと思います。
ホンコンヤキソバ さんのコメント (2011/11/10) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
どうもはじめまして(になると思います)。ホンコンヤキソバと申します。

えーと、今回は誰もこのことをツッコまれていませんでしたので、
ぼくちんのほうから一点だけツッコませてくださいです。

おきゃんさんは作品の本質とゆうのを

『いつ、どこの、誰の、どういう物語・お話なのか』

と定義されておりますが、

ぼくちんはそれって「作品概要」とか「あらすじ」と呼ばれているもののような
気がするです。

ぼくちんは作品の本質を理解するとゆうのは、

作者が伝えたい、もしくは作者の意図しないところで作品自体が内包
しているテーマやメッセージみたいなものを読み解くことなのではないのかなあ、

と思うのですけれども、おきゃんさんはそのあたりについてどのように
思われますでしょうか?

なんだかおきゃんさんがこのエントリで伝えたいこと(それこそこのエントリの本質)
を理解できてない無粋な質問になっちゃいますけれど、
個人的にとっても気になったことでしたのでコメントさせていただきましたです。

もしお気を悪くされたようでしたら申し訳ありませんでしたです。

それではこれで失礼しますです。
おきゃん さんのコメント (2011/11/09) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
>>quiet 様 コメントありがとうございます。

私の書き方が非常に回りくどくて、すぐ横道にそれたり文章の意図がわかりにくいところがあり
申訳ありません。m(_ _)m

quiet 様はもう自分で答えを書いてらっしゃるので改めてわたしが書くまでもないのですが、
一応お答えします。

>>総動員してわからなかった場合、おきゃんさんはなんと言いますか?もっとよく考えろ、でしょうか?変な理屈ですが、日本人でも、読解力のない人はいます(私のように)そこはせめられません。私は。

わたしは「わからない」ことを責めてはいません。
個人個人の理解度がどうのこうのといってるわけでもありません。

quiet 様は「評価」を書くときは努力している、という姿勢がよく分かりました。
それだっら、わたしが言うことはありません。

分からなかったら、とりあえず諦めて別のことをすればいいのではないでしょうか。
気分転換して、発想を転換して出直せばいいのです。そこで無理する必要は全くない。
人間が作ったものを同じ人間が理解できないわけがないので、いつかきっとわかると思います。
だから、「わからない」からその作品はダメだ、なんて「評価」はおかしいのです。

>>だから私は切ったとしたら、コメントで書きます。

quiet 様自身がこう仰っているように「わからない」まま「評価」はしないでしょう。
わたしもそれが正しい分別のある判断だと思います。

そういう場合は「評価」ではなく、「コメント」、個人の「日記」や「掲示板」はたまた「投票」など
このサイトでは活用の場は他に色々あるのではないかと思います。
このサイトは色々な提案(問題?)が起こるたびにシステムに機能が実装されたり改善されています。
それを有意義に使うかどうかは利用者次第だと思います。
その利用の仕方や分別まで他人任せ、ルール任せになったら終わりだと思います。
自由であるからこそ、自分を研鑚する場にも、自分を堕落させる場にもなるのです。

あなたはどちらを選びますか。もう選択していますよね。(^^)/

>>そうでしょうか?それは買うだけの余裕がある人限定だと思いますが・・・作品の良し悪しに関係ないとは考えたことがありません。キャラの人気によってグッズの売れ行きも違うと思います

私も含め余裕のない人がほとんどだと思います(笑)。だから、やっかみも増えるんだと思います(笑)。

「キャラクター」の人気は、その作品が優れているってことですか?。
わたしは違うと思いますよ。この場合、作品とは切り離された「商品(キャラクター・アイテム)」だと思います。
だからこそ作品が終わっても継続して「キャラクタービジネス」は成立するのだと思います。
例え、原作やアニメ・作品が優れていなくても、魅力的なキャラクターを魅力的な商品として
リリースすれば、作品ファン以外にも市場を広げることが出来ます。ブランドとして。
またフィギュアなどを購入しコレクションしている人たちは、必ずしも原作やアニメファンとは
限らないのです。キャラクターは知らないけど魅力的な商品だったから、で買ってる人も
多いと思います。映像ソフトはさっぱり売れないのにグッズはバカ売れなんてこともあります。

米沢嘉博 氏著書『売れるマンガ、記憶に残るマンガ』のなかでうまいこと書いているのですが、
「完成され、つけ入る隙のないマンガはいじくれない。つっ込みどころが多く、キャラの数が多く、
かってに妄想や物語を膨らませていくことができる作品の方が女の子たちを魅了する。」と。
別に女の子に限らなくても男の子だってみんなそうだと思いますよ。
作品(物語)から自由に楽しむことができるキャラクターたちであるかどうかなのです。

今月始め放送された「MAG・ネット11月号」はライトノベルの特集でした。
そこでも、まずはキャラクターを魅力的に描くことが大切だと制作サイドは言っていました。
ライトノベルがアニメやグッズなど様々なメディア展開をしやすいのは、もともと、最初から
キャラクター・ビジネスを販売戦略の中に盛り込んでいるからだと思います。

>>ここでまだ新人の私から質問なのですが、ここのサイトって、世間一般に認められるような評価を書くサイトなのでしょうか?これはあくまで質問ですが・・・

世間一般に認められる評価ってなんなんでしょうか?。答えなんてないと思います。
評価の文章や内容の質なんて書くひとによって違って当り前です。
このサイトは色々な「評価」があるから面白いということもあります。

ただ、自分や他の方たちが書いてきたこと、それがこのサイトの「評価」の前例になっているのは事実です。

人間って、だいたい、良いマネはせずに悪いマネばっかりするのです(笑)。
特にネットは匿名性が高く、悪い誘惑に簡単に安易にのってしまうくらい人間は弱いのです。
だから、いい加減な「評価」だけはやめて欲しいと思うのです。

このサイトの場合、「評価」の段階(ランク)は数値化され作品の順位としてデータベース化
されています。シグマル 様も書いてらっしゃいますが、数値にこだわると作品の本質、一般的な
作品実感や市場(売り上げ?マーケティング)とは懸け離れた結果になることがあるのです。
特に、評価の数が少ない場合、極端な意見がでるときなど。時には悪意(荒らし)による操作も。
「評価」の内容に関係なく段階(ランク)で数値化されるので、極端な話、作品をわかってようが、
わかっていまいが、悪意があろうがなかろうが、データベースに大きく影響してしまうのです。

少なくとも、このサイトを利用している人は、そのことをもっと意識して「評価」を書いても
いいんじゃないかな〜と思います。
quiet さんのコメント (2011/11/08) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
私が言いたいのは、原作なんて読まなくてもある程度アニメ単体で理解できるのに、自分が
知らない・気付かない・分からなくなると直ぐ、ライトノベル原作がどうのこうのと文句をいう安易さです。
「自分がわからない」ってことをすぐに作品が悪いのだ、と転化し結論付ける安易さです。

・・・気づく人気づかない人、絶対いると思います。すべての方が考えた結果とは言い切れませんが、自分で考え、そしてわからなかった人もいると思います。
あと、すいません、私の勘違いがありました。私は作品を楽しむための努力の部分を、原作などを買う、と勝手に脳内変換していたようです。すいません。

>わたしは、「境界線上のホライゾン」は原作を読まなくてもある程度理解できるアニメ作品に
なっていると思います。でも「こりゃ原作も読んだ方が面白そうだ!」と感じたことは事実です。
しかし、誰もが原作を必要とするアニメだとは思っていません。想像力を総動員して見れば分かります。

それを「わからない」なんて・・・「評価」する人間が「評価」で使う言葉(台詞)ですか?

総動員してわからなかった場合、おきゃんさんはなんと言いますか?もっとよく考えろ、でしょうか?変な理屈ですが、日本人でも、読解力のない人はいます(私のように)そこはせめられません。私は。

>だから「評価」って面白いんですけど、理解されなかった作品にとっては傍迷惑な部分もあると思うのです。
特に、第1話切りで本質を理解される前に評価されてしまった日には・・・。
恐らく作品は「わたし、そんな作品じゃないんですけど(ツンデレ)」と言いたいに違いないと思うのです(笑)。

一話切りに関してですが、コメントでだせばいいのではないかと、第三者が誤解するような?ことは禁止するために憶測などで書いてはいけなかったと思います。
だから私は切ったとしたら、コメントで書きます。

>わたしは、第1話で評価した人たちは、作品を最後まで見て書き直すと思っていました。
それが「評価」する人間の姿勢としては当然だと思っていたからです。
このサイトは評価をいくらでも編集(書き直せる)できるのですよ。

ここでまだ新人の私から質問なのですが、ここのサイトって、世間一般に認められるような評価を書くサイトなのでしょうか?これはあくまで質問ですが・・・

>作品を楽しむことと、お金を使う(商品を買う)ことは全く違うと思いますよ。
作品と商品って同義じゃないと思うのですよ。

同意です。作品の話は、おきゃんさんの人が評価する・・・というところに対して言ったつもりなのですが・・・勘違いさせてしまいすいません

>さらにいうなら、優れたよい評価の作品は必ず売れるか、といえば違うと思います。
もっというと、「売れる」ということと「売る」ということは全く違います。
優れた営業マンならどんな(悪い・粗悪な)商品だって売ることが出来ますよ。
しかも、お客様は喜んで買います。本当です。だから営業という仕事は大切なのです。
つまり商品が「売れている」ということは、会社が「売る」営業努力をしているのであって、
作品の良し悪しには全く関係がないのです。

そうでしょうか?それは買うだけの余裕がある人限定だと思いますが・・・作品の良し悪しに関係ないとは考えたことがありません。キャラの人気によってグッズの売れ行きも違うと思います

>逆に、売れてるからとか売れてないからで評価することのほうがおかしいと思いますよ。
「ちっ、この作品、売れてやがる、ケチ付けてやれ」なんてやっかみ評価も多いですが(笑)。
そういう評価は、ただただ、みっともないだけだと思います。

すいません・・・そして同意です

>作品を楽しんだから、良い評価になるとは限りませんよね。
逆に、ちょっと楽しい時間を過ごせたけど、作品としてはダメなほうだ、なんてことも多いです。
作品を「楽しむ」ということと「理解」すること、さらには「評価」は違うからだと思います。
作品を読み解く・理解していく「楽しさ」、ってあるでしょう。
だからといって理解したから作品そのものが優れた作品であったとは限らないのです。

ここは先ほど言った、ここのサイトはどういうサイトなのか?それが私にはあいまいなのですが、そういうものなのでしょうか?

ちょっと時間がないので、あまり時間をかけて書いていないので、なんか話が変になってしまいましたが、すいませんでした。
失礼します
おきゃん さんのコメント (2011/11/08) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
>>quiet 様 はじめまして。コメントありがとうございます。

>>ここはあまり共感できませんでした。ここのサイト、アニメと小説で分けていますよね?
>>結局はアニメはアニメ、原作は原作、ではないのでしょうか?

確かにこのサイトではアニメと小説はカテゴリに分けられています。
だからといって別作品ですか?。
同じ『ひとつの作品=いつ、どこの、誰の、どんな物語か』だと思いますよ。
伝えるメディアや提供される形態などが大きく違うだけです。
例えるならアニメと小説は二つのリングだと思います。
二つのリングは接している部分もあれば離れている部分もあり、重なっている部分もあれば、
重なってない部分もある、はたまた二つのリングは大きさが違いひとつに含まれていることもある。
それぞれの作品のメディア展開の違いといえるのではないでしょうか。

>>「アニメでこっちが伝えられないところは自分で原作を買って・・・」は少し違うのではないかと思います。

確かにそれは違うと思います。

しかし、アニメ作品で「詳しくは原作を読んでね。」なんて最初から言ってる作品ってありますか?。
もちろん、スポンサーは原作をもっと買ってもらいたいし売り上げを伸ばしたいでしょうね。
だからといって最初から「原作を読まないと分からないアニメ」原作必須として制作されるでしょうか。
出来たものがそうなってしまう可能性は否定できませんが(笑)。

>>アニメでは表しきれなかった・・・ここを減点とせずに自分の責任にする・・・それは違うと思います。

確かに仰るとおりです。
そのときは「表現し切れなかった」という根拠・確証を評価で述べればいいだけだと思います。

しかし『それは本当にアニメで表現し切れなかったことだったのでしょうか?。』
また、言い換えますと、
『それは本当に原作を読まないと分からないアニメ(表現)だったでしょうか?。』

私が言いたいのは、原作なんて読まなくてもある程度アニメ単体で理解できるのに、自分が
知らない・気付かない・分からなくなると直ぐ、ライトノベル原作がどうのこうのと文句をいう安易さです。
「自分がわからない」ってことをすぐに作品が悪いのだ、と転化し結論付ける安易さです。

わたしは、「境界線上のホライゾン」は原作を読まなくてもある程度理解できるアニメ作品に
なっていると思います。でも「こりゃ原作も読んだ方が面白そうだ!」と感じたことは事実です。
しかし、誰もが原作を必要とするアニメだとは思っていません。想像力を総動員して見れば分かります。

それを「わからない」なんて・・・「評価」する人間が「評価」で使う言葉(台詞)ですか?。

下の日記のレスポンスで「ペク 様」が仰ってますが、
>>作品を読み解こうとするのは、こうやって評価を書こうとするものの最低限の心構えだと思います。
そういうことだと思います。

とある論客とのとあるアニメについて私信でのやりとりですが、同じアニメ作品を見ているのに
いきなり「このシーン(Aパート)は不要だ」と言われたことがあります。そのシーン(シークエンス)は
そのアニメでは非常に重要な心理描写であるにもかかわらずその方は全く理解していなかったのです。
どうしてこういうことが起こるのか?。その作品をちゃんと見ていないからなのです。
見ているのに見えていないのです。矛盾した言葉遊びにみえますがそうなのです。
ただTVの画面を眺めていることと、作品をちゃんと見るということは全く違います。
見るということは脳を使うということです。眼球に写るものを脳はそのまま忠実に写している
わけではないのです。「見えている(と感じる)もの」は脳が理解していることなのです。
その人がどんなに注意して見ていても、作品を理解する気がなければ気がつかないということです。
色々な評価を読んでいて思うのは、「なんでこの人は気が付かないのだろう?。」さらに、
「あっ、なんで私は気が付かなかったのだろう、バカだな〜。」ということがよくあるのです。
だから「評価」って面白いんですけど、理解されなかった作品にとっては傍迷惑な部分もあると思うのです。
特に、第1話切りで本質を理解される前に評価されてしまった日には・・・。
恐らく作品は「わたし、そんな作品じゃないんですけど(ツンデレ)」と言いたいに違いないと思うのです(笑)。

わたしは「評価」というものは作品にとっては最終判決のようなものだと考えている部分があります。
『十二人の怒れる男』という映画がありますが、最初から最後まで有罪と主張する人物がいます。
「このクソったれ野郎がやったに決まっている。」と、しかし、協議・大議論の末に最後には
振り絞るように「む、無実だ」と言います。わたしはこの人物が一番好きです。
この人がいなければ議論は尽くされずに、いい加減でうやむやな結論に至ったかもしれません。
そして、最後には正しい判断をした。これが一番大切です。
間違ったことを間違ったままにしなかったのです。

あれ、・・・これ以前どこかで書いたな(^^;)。ま、いっか(^^;)。

わたしは、第1話で評価した人たちは、作品を最後まで見て書き直すと思っていました。
それが「評価」する人間の姿勢としては当然だと思っていたからです。
このサイトは評価をいくらでも編集(書き直せる)できるのですよ。

しかし、そうでない人もいるのです。そのまま評価ともども視聴も放置。
作品(裁判)を途中で投げ出した人に作品を評価(判決)する権利があるのでしょうか?。

判決(評価)が死刑(最悪)や無期懲役(とても悪い)だからイカンというのではないのです。
冤罪が冤罪のままなのはイカンと思うのです。

判決(評価)をする人が「(作品を)わからない」なんていわないで欲しいと思います。
評価はギャンブルじゃない。目隠し撃ちで当たればラッキーなんておかしいと思います。
評価するなら納得いくまで作品を見て欲しい。それを尽くして本当に作品が伝えるべき内容を
伝えていないと確信するなら、誰もが納得できる判決(評価)ではないかと思います。

>>売上に差が出るのは、おきゃんさんの中では、この作品は多くの人が楽しもうとした、この作品はみんな楽しもうとしていない、ということでしょうか?)

ちょっと文章の趣旨が推し測りかねますが、それに対してわたしはこう思いました。

逆にお伺いします、『あなたは商品を買うことで作品を評価していますか?。』
わたしは違います。欲しい(物欲)から買うのです。いわば愛(無償・本能)の代償ですね(笑)。

作品を楽しむことと、お金を使う(商品を買う)ことは全く違うと思いますよ。
作品と商品って同義じゃないと思うのですよ。
さらにいうなら、優れたよい評価の作品は必ず売れるか、といえば違うと思います。
もっというと、「売れる」ということと「売る」ということは全く違います。
優れた営業マンならどんな(悪い・粗悪な)商品だって売ることが出来ますよ。
しかも、お客様は喜んで買います。本当です。だから営業という仕事は大切なのです。
つまり商品が「売れている」ということは、会社が「売る」営業努力をしているのであって、
作品の良し悪しには全く関係がないのです。

逆に、売れてるからとか売れてないからで評価することのほうがおかしいと思いますよ。
「ちっ、この作品、売れてやがる、ケチ付けてやれ」なんてやっかみ評価も多いですが(笑)。
そういう評価は、ただただ、みっともないだけだと思います。

作品を楽しんだから、良い評価になるとは限りませんよね。
逆に、ちょっと楽しい時間を過ごせたけど、作品としてはダメなほうだ、なんてことも多いです。
作品を「楽しむ」ということと「理解」すること、さらには「評価」は違うからだと思います。
作品を読み解く・理解していく「楽しさ」、ってあるでしょう。
だからといって理解したから作品そのものが優れた作品であったとは限らないのです。
作品を見て理解していく過程は「楽しい」、けれども作品を全部見た後、心に残るものがあまりない、
ってこともあります。

作品は本質をよく理解した上で「評価」して欲しいのです、評価がどうであれ。
quiet さんのコメント (2011/11/07) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
前にもコメントしたのですが、変だったので、ちょっと変えてまたコメントさせていただきます。

あ、quietといいます。

>『いつ、どこの、誰の、どういう物語・お話なのか』という作品の本質を理解していないからです。
理解できていないから表面的な現象・「表現の揚げ足」をとることしか出来ないのです。

>もっと、自分が「何を」評価しているのか、「本質」を良く考えて欲しいと思います。

ここはもう頭を下げることしかできませんm(_ _)m

>おそらく、ライトノベルやアニメは「マンガ的」で分かりやすいからなんでしょうね。
誰が見ても分かる(と、思い込んでいる)から、自分では何も努力をしない。軽視しているのです。
努力をしなくても受動的にアニメで流れる映像を眺めれば分かるものだと思い込んでいるのです。
だから「原作を読まなくても分かるアニメにしろ」なんて自分勝手なことが言えるのです。

ここはあまり共感できませんでした。ここのサイト、アニメと小説で分けていますよね?
結局はアニメはアニメ、原作は原作、ではないのでしょうか?
と、いうか、「アニメでこっちが伝えられないところは自分で原作を買って・・・」

は少し違うのではないかと思います。別に説明不足だから・・・だけで大きな減点になるわけではありませんが・・・想像することも楽しいって時もありますし。
でも、原作を買って、アニメの説明不足を補完する、これって視聴者側が補完してやっとわかるものなんですよね?
アニメでは表しきれなかった・・・ここを減点とせずに自分の責任にする・・・それは違うと思います。

>曲がりなりにもおこがましくも作品に対して「評価」しようという人間がそれでいいのでしょうか。

物の売上に差が出ている時点で人が言っていないだけで評価されています。それ言っちゃったらすべての作品のグッズやDVD等、売上均一にならなければいけないと思うのですが・・・全て同じになってやっと、このサイトの方の評価におきゃんさんの考えをいえるのではないかと(売上に差が出るのは、おきゃんさんの中では、この作品は多くの人が楽しもうとした、この作品はみんな楽しもうとしていない、ということでしょうか?)

文が下手ですいません。失礼しますm(_ _)m
あと読解力なくてすいません。


2. 2011/08/18 「wikiと評価」 分類: その他
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気になることがあります。

原作を読まずにwikipediaなどの情報から評価をすることです。
wikiを読んで知ったつもりになり、まったく作品の方を見ていないのです。
これはカンニングして捏造しているようなものです。
要領のいいものは出典もなにも書かないが、ところがどっこいまるわかりだ。

全くフェアじゃない。

作品の中に描かれていること全てがwikiなどで分かるはずないのである。

簡単なことだ。

作品で大切なのはその物語や内容ではない。内容の濃さでもない。
中味があるかでもない。

むしろ作品の中味なんてどうでもいいのだ。

いつの時代にもあるたわいのない恋愛物語(メロドラマ)かもしれない。

いつか、書いたかもしれないが「作品で大切なのはその登場人物が
なにを成したか」ではなく、どう考え、「どう」行動し、「どのように」間違い、
「どう」感じ、「どのように」愛し、「どのように」生きたか、なのである。

「どう」「どのように」という・・・。
その表現・表情・演技、役者そのものの存在感の委細に魅力があるのです。
たとえば、映画で台詞が何もなくても見ているだけでその人物が何を考え、
何を感じているのかを魅せるのが映像の力だ。
魂は細部に宿る、というのはそういうことなのだ。結果ではない。

現在、映画「人間の條件」が連夜放映中です。
原作を読んでいる人からすれば、細かいエピソードや重要な要素やアイテムが
かなり大きくばっくり削除されている。では、この映画は全くダメなのか。
違う、この映画は「人間の條件」を実に洗練し圧縮し選別し、そぎ落とし、
映画として出来得る映像表現を究極的に抽出することに成功している
素晴しい映像作品です。
主人公「梶」の風貌や表情やしぐさは小説では分からない。読者の想像の範疇だ。
第2部までモノローグやナレーション(台詞での説明)は一切なし。
しかし、映画では映像の表層に表れる全てで表現しきっているのです。
「苦悩」「憎しみ」「愛情」「憎悪」「後悔」、言葉ではなく表情や映像表現が
全てを伝えるのだ。何千の文字に匹敵するはワンカット。
映像はそれを極め、そこにひとは心を動かされる。

そして、作品に直に触れれば、それに共感し、感動するかだけなのです。

しかして、情報(wiki)は情報(wiki)でしかない。情報は作品そのものではないからです。
そして正しい情報だから、正しい評価が出来るわけではないのだ。

なぜなら、『情報』で感動できるわけがない。『表現』に感動するのだから。

不思議なのはどうしてちゃんと原作に触れたり作品を見ないのか?、である。
時間がない?、それならどんな「感動」「感銘」も受けることはかなうまい。
沢山の情報で満たされても心は貧しいままなのです。

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おきゃん さんのコメント (2011/09/10) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
>>kirin 様 レスが遅れてすみません。m(_ _)m

緋弾のアリアは原作のほんとうにさわりの部分しかアニメ化されませんでしたね。
わたしは原作をちょっと読んでいたので「緋弾」については触れられないことは
ある程度予測できていたのですが、アニメだけ見ていた方にとっては、なるほど、
気になってしょうがないことなのか・・・と改めて再認識しました。(^^;)
ゼロの使い魔の原作小説は、実は1巻と「タバサの冒険(小説・コミック)」しか読んでません(^^;)。
タバサは大好きです(^^)/。

>「リアル志向」 と言う言葉に踊らされて、作品内のリアリティとリアルとを混同しているからではないでしょうか。

「リアル」と「リアリティ」を混同している、というのは全く同感です。
映像作品などフィクションでは現実をそのままカメラで撮影してもリアルじゃないんですよね。
リアルに見えるように、見て自然に感じるように、映像作品では全てを作っているのです。
「映画に愛を込めて アメリカの夜」という映画作品があるのですが、最初のシーンで
映画のワンシーンが映し出されますが、そのあとカメラが引いていくとそのシーンを撮影している
カメラやスタッフが映し出されるという演出にアッと驚かされます。
しかし、さらにそのスタッフたちを撮影しているスタッフがその後ろにいる、ということを
視聴者はすぐに気付くのです。まるで映し鏡のような多重性、そこの驚きを感じるのですよね。
映画という嘘をリアルに感じさせるリアリティ、それが大切なのだと思います。
もっというと、リアルに見えれば良いわけで、カメラの後ろは張りぼてでもなんでもいいのです。
大切なのはその嘘(フィクション)をうまくつき続け、視聴者の想像力を遮らないことだ思います。

わたしもストーリーが読める、想像できる、というのは悪いことではないと思います。
「物語」っていうものは昔からそんなに大きく変わってないと思うのですよ。
斬新的とか革新的なものにみえても、実は根本的にはどこかにあったお話しだと思います。
ところが、知識だけで「どこかで見た話」というだけで、もう作品そのものを見ようとせず、
自分の知識の「型」に作品を当てはめて理解しようとするからおかしくなると思います。
言ってみれば、料理を食べずに材料と調理法という知識だけで理解しようとして、視覚、
味覚、嗅覚、感覚、などを料理から感じようとしないのだと思います。
食べずに評価するようなものですね。作品もそうだと思います。
どんな作品にもオリジナルの味がある、それをちゃんと味わうことが大切だと思います。

ついでに言うと、感動って頭で理解して分かったから心が動いたわけじゃないと思います。
映像を見て心が動いた・感動したものを言葉という記号で標準化して表現しようとしても
できなくて当り前なのです。言葉や記号で伝えられないものを映像は表せると言うことです。
あるものを見て感じたけれどそれが何なのかわからない、ということってないですか?。
その曖昧な何かのために映像作品があるのだと思います。
だから、頭(言葉や知識)だけで理解しようとしない子供の方が作品を豊かに見ていると思います。

IS(インフィニット・ストラトス)はアニメ第2話時点で設定を覆す事実がでたことで、
第1話で説明されたISの設定は、あくまでもその作品世界の表向きの公的な見解であって
わたしは「あ、この作品には裏があるな」と想像しました。ISを悪用したり、影で
何かやっている組織や人物が裏にいると、普通、そう想像すると思いました。
ところが、第1話の設定の説明を額面通りにいつまで引きずっている人が多いのに
逆に驚きました。
また、インフィニット・ストラトスのキャラクターの描き方については原作より
かなり、大きく削除されています(^^;)。それでも12話使っちゃったんです。
kirin 様の仰るようにキャラクターの行動が唐突になるところが多かったと思います。

この作品に限らずアニメではどこまで丁寧に描いていくか、という部分は非常に
難しいところだと思います。シチュエーションのステップ・プロットが大切ということ、
しかし大多数の視聴者が、その丁寧なシチュエーションを必ずしも必要としていない?、
それにより、そういう部分を見逃してしまうという点には大いに賛同します。
製作者も視聴者もそのジレンマというかギャップになにか作品を通してのコンセンサスが
失われているのかもしれません。そのコンセンサスというのも「お約束事」だったのかも
しれませんね。
kirin さんのコメント (2011/09/07) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
こんばんは、kirin です。

緋弾のアリアの「緋弾」は、あくまでも 1 クールのアニメ作品として視聴後に、作品内では触れられなかったが、作品タイトルになっているのだから、物語の根幹に関わることではないのか ? と感じてしまったからです。 原作を読み進めていれば済んだことですが、放送された内容はプロローグと言って差し支えないものだと感じてしまいました。 同じラノベでしたら 「ゼロの使い魔」 を好んで読み続けているのですが、魔法が使えないルイズの二つ名 「ゼロ」 と言うキーワードがすぐに提示され、だから 「ゼロの使い魔」 と言うタイトルなのかと読み進めていくと、ルイズの属性 「虚無 (ゼロ) 」 も引っ掛けられていることが三巻で解り、巧いなと感じました。 原作が完結していない作品をアニメ化するのだから、全てが解決しないのは当然ではありますが、一つのアニメ作品として、物語の方向性と言いますか、作品タイトルである 「緋弾」 を作中で触れずに終わるのではなく、大々的に伏線を張るように謎として提示するなどして欲しかったと思っていたのです。 安易に情報に頼ってしまったこと、誤解を招くような表現をしてしまったことを、ここに謝罪します。 申し訳ありませんでした。

私がとやかく言えることではないのですが…。
「お約束事」 だと割り切れないと言うより、割り切ろうとしない、許容出来ないのではなく、許容しようとしない、作品に入り込めないのではなく、入り込もうとしないなどと言うのは、勿論 「想像力の欠如」 だと思いますが、「リアル志向」 と言う言葉に踊らされて、作品内のリアリティとリアルとを混同しているからではないでしょうか。 私は結末に至る過程が大事だと勝手に思っており、割と王道的なストーリーを好んでいるのですが、このサイトに限らず、先が読める = 駄作と言うような見解も散見されますので、斬新さばかりに囚われているのではないでしょうか。 何度も見たような内容だったとしても、登場人物が生き生きと描かれている作品は、何度見ても個人的には十分楽しめます。

IS と言う作品の設定については、競技用のはずが武器を搭載した兵器で、数に限りがあるはずなのに専用機が登場すると言ったところに矛盾を感じていますが、IS の動力源や、一人の人間が何時、どれだけの期間で制作したとか、何故、飛行出来るのかなどと言ったところは、疑問に感じるところではないと思っています。 また、この作品の設定は、ラブコメの為の舞台装置だとも思っていますが、取っ掛かりの部分で、年頃の男女を何故、同じ部屋に住まわせるのか、男性が一人しか居ないのだから注目を集めるのは当然だと思うのですが、それにしても周りにいる女性の行動が軽率過ぎないかと感じてしまったのです。 それらも含めて許容出来る器量が私にあれば、もっと作品に入り込めたはずだとは思っています。

この作品だけではないのですが、「何故、その人に好意を寄せたのか」 と言う部分を疎かにし過ぎではないかと思っています。 ぶつかった拍子に一目惚れだろうが、何でも良いと思うんです。 一目惚れならワンカット挿れるだけで済むようなことさえも疎かにされているように感じます。 勿論、それを読み解く行為を怠ってはいけないとは思うのですが…、映像作品ですから、そう言うシーンやカットは挿れて欲しいと思ってしまいます。 ラブコメ作品などで、これらが表現されていない場合など、(登場人物の心境が) 理解し難いと書いてしまうことがあります…。 しかし、制作側はビジネスとして、受け手側のニーズに合わせた作品を制作しているはずですから、大多数の視聴者、消費者と言う受け手側が、それを求めていないのだと思います。 だからと言うのは適切ではないかもしれませんが、作品の中でキャラが、どう考え、どう行動し、どのように間違い、どう感じ、どのように愛し、どのように生きたか、と言う部分を見逃してしまい、おきゃん様が例を挙げたような感想が出てくるのではないでしょうか。
おきゃん さんのコメント (2011/09/06) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
>>kirin 様 日記でははじめまして。また推薦ありがとうございました。
レスが遅れてすみませんでした。m(_ _)m
厳しい内容の記事だから、まさかコメントいただけるとは思いませんでした。(^^;)

でも、よかったです。
kirin 様のアニメ「緋弾のアリア」評価が、この記事のきっかけの一つだったからです。
この場をかりて感謝いたします。m(_ _)m。どうもありがとうございます。
また、kirin 様の正直な姿勢、真摯な態度と、勇気あるコメントは頭が下がる思いです。

さて、ここからは Kirin 様に対してではなく、評価サイト全体に向けての内容になります。
最初は記事にして書く内容でしたが、あながち関係のないことでもないのでレスにします。

よく、アニメでも作品批判に「こんなのばかり作っていては日本のアニメ業界はダメになる」と
おっしゃる業界通?の方がこのサイトには多く居られます。
しかし、わたしは、今のアニメが劣化したのではなく、視聴者が劣化しているのだと思います。
劣化した視聴者にあわせて作るのだから、劣化していて当り前なのです。理由は以下に。

ひとつ大きい要因としては、いまの視聴者の「想像力」の欠落だと思います。

例えば、インフィニット・ストラトスでよく設定や世界観が説明不足だと酷評されていますが、
それって、製作者がいちいち一から十まで説明しなければいけないことなのでしょうか?。
飛行機が飛ぶのに、どこの誰が設計して動力・エンジン出力はこうで、翼の揚力はどうのこうのと
説明しないと飛ばないのですか?。ウルトラマンが飛ぶ説明が何か作中でされていましたか?。
「光の国」ってなんだろう?、それは子ども・視聴者が想像の翼を広げれば良いだけの話です。
そんなことは製作者が説明することではなく映像やアニメや絵として見せれば済むことなのです。
いってみれば、そういう部分というのは「お約束事」なのです。
映像や絵に込めたイメージや表現、それを想像し楽しむのは視聴者に託された部分だと思います。

ところが、どうでしょう。
「小学生・中学生やそこらの子どもが、世界を救う行動なんて出来るわけがない」
「そんな不条理なことありえない」「そんな理不尽なことは許せない」
「あんな高度なメカをたった一人で開発できるわけがない」
「こんなヒーローいるわけない」「こんなの仮面ライダーじゃない」
「また、この声優さんなの?」「また、キムタクかよ」
作品に対してそんな批判が多くありませんか?。
究極は「作品を理解できない」なんてのもあります。理解できないのに評価するのか?と言いたいが(笑)。
声優さんなんて無限にいるわけじゃないし同じようなキャスティングが同時期にかぶることも多い。
それなのに、よく知る同じ役者や声優さんがでるだけで作品に入り込めなくなる、演技を見てないのです。
製作者の意図に対して、フレッシュな気持ちでイメージを想像することができなくなっているのです。
それは翻って視聴者の想像力の欠如にあります。多いとか少ないじゃなく、もう無いんだね。
映像や台詞の意味ばかり頭で考えて、映像からイメージを拡げ想像しながら見ることができない、
最初から、作品を受け入れる、作品に乗る、入り込むことができない人たちなのです。

心が不自由な人たちです。自由だと思い込んでいる故に、不自由なことに気がつかないのです。

つまり、今時の視聴者には「お約束事」というものが通じなくなってきていると言うことなのです。
これは製作者・クリエイターにとっては本当に困った時代・事態だと思います。
何から何まで説明しないと納得できないような想像力を失った視聴者にどう作品を提示すれば
いいのでしょうか?、どういう作品なら満足できるのか?、切に、誰か教えて欲しいです。

さらに、自分で想像やイメージを膨らますことが出来ないから、知識や情報に頼ろうとする。
なんでもかんでも頭で理解しようとするから、自分自身より客観的な外部や他人の情報が気になる。
そして情報ばかり頼りにするから、自分で考えること、想像することが出来なくなる、
という悪い循環に陥ってしまうのです。
wikiは確かに便利です。しかし、間違いも多い。根拠のない不確かな情報も含まれている。
これはwikiの責任ではなく、ネットワークの性質・特性を反映しているに過ぎません。
そんな情報を生で信じていいのですか?。自分で検証しなくていいのですか?。

それより、なんでwikiより先に原典や原作を読まないのですか?。原作を読めば済むことです。
YouTubeの視聴やwikiで調べるのはお金がかからないけど、原作への出費は惜しいのですか?。
作品の価値を認めないのに、作品の情報・ネタ・知識だけは欲しい。それってどうなの?。

「緋弾のアリア」の緋弾やイ・ウーのネタバレだけを調べて知ってなんになるのですか?。
アリアやキャラクターたちの気持ちや感情の変化、愛情や友情、葛藤などが分かるのですか?。
情報のネタだけを取り上げて揚げ足を取っても、作品の実体と懸け離れていることに気が
つかないのではないですか。それをもとに評価をしたらどうなるか、想像もできないのですか?。
そういう想像力さえも失ってしまっているのかもしれません。

もはや、そうなっては作品にとって実体が伴わない風評被害ともいえる事態だと思います。
そういう風評を呼んでしまうのも、コピペや捏造が減らないのもまたネットワークの悪い部分。
ネットワークの匿名性に甘えてしまうとどんどん歯止めが利かなくなります。

この原因のひとつにはこの評価サイトの成果ポイント制もあると思います。
階位が上がり推薦が増えることに快感を覚えてしまうと、ポイントをあげることに執心してしまう。
しかし、個人が作品を見たり読んだり理解するにはどうしても数にも時間にも限界があります。
評価する作品と普段の自分の好みの作品とは違う場合も多い。ここに矛盾があるのです。
それを何で補うか、wikiやYouTubeや他人などの情報に安易に手を出してしまう。だってロハ(只)だから。
情報のコピペ、盗用、捏造などなど嘘を嘘で固めてしまうことにもなりかねないのです。
それが出来るのは、ネットワークの人格と、リアルの人格とを都合よく区別してしまうからです。
自分が人に嘘をつくのは呵責があるが、仮想人格なら千の嘘は簡単つける、ということです。
いつまでも不正がなくならないのは、悲しいかなそれも人間なのです。

「ベル研究所のヤン・ヘンドリック・シェーンの論文捏造」などはその例のひとつ。
名声・成果至上にとらわれ、科学者としての倫理観、本質を見失った結果であると思います。
成果は意欲の源ではありますが、意欲が欲や保身に変質した時、大きな歪みを持つのだと思います。
そして、公徳心、倫理観というものは、自分自身の心のなかで保つのはとても難しい。

kirin 様が仰るように「より慎重にならなければいけないのだと痛感させられました。」という
気持ちを、わたしもいつまでも持ち続けていたいと思います。
kirin さんのコメント (2011/09/05) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
初めまして kirin と申します。

このサイトを知って評価を書き込むようになってからまだ日が浅く、日記を読む習慣がなかったのですが、先程、日記を拝見させて頂き、正直考えさせられました。

私は漫画を一作品だけ評価していますが、当分はアニメ作品だけに拘ろうと思っています。
これは言い訳になりますが、原作については、原作の方の評価欄に書き込むべきだと思っており、既読、未読については、その立場でアニメを見て評価していることを表明するべきだと思ったので敢えて書き込んでいます。
また、予備知識などない状態でアニメを見ることが多く、この作品には原作があるのかないのか、漫画なのか小説なのかなど、恥ずかしながら評価する前に Wiki で見たりもします。
アニメが面白いと思えば、読んでいない原作などは後から読んだりしています。
そう言う作品や、全話視聴せずに評価した作品は、日を置いて視聴した後にこっそり修正したりもしていますが、不特定多数の人間が観覧可能な評価サイトですから、おきゃん様の仰られることも尤もだと思います。
より慎重にならなければいけないのだと痛感させられました。


3. 2011/05/25 「原作未読って」 分類: その他
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最近、特に気になるのが「原作未読」という前書き。

わたしも「原作は未読です。」と書くことがありますが、これは、
「恥ずかしながら、まだ原作を読んでおりません。後日、読みます。」ということです。

ところが、色々な評価を読んでいると、何も考えずに「前書き」に使っているような気がします。
だから、原作の存在しないオリジナル作品に対しても、平気で無神経に「原作未読」などと
書かれています。トホホ。

大抵の映画は原作小説が存在しています。もともとヒットした小説を原作に映画化するという
流れが多いからです。また、オリジナルの映画の場合は作品紹介のために映画のシナリオを
小説化したもの、いわゆるノベライズの小説が出版され映画の公開にあわせて書店に並ぶのが
一般的になっています。読み応えのあるロボコップ、ザ・ロックやステルスなどはそうですね。
デイ・アフター・トゥモローのように原作小説とノベライズの2種類が存在するものも多いです。
これは原作小説が大作で長い場合、映画のノベライズのほうが短く読みやすいこともあります。

ふつうは、原作(ノベライズ)を読んでいて「面白そうだ」「どう映像化するか?」という興味から
映画館にいくと思います。わたしも映画を見る前にできるだけ原作を読むようにしています。

特に評価するからとか、感想文を書かなければいけないから「原作を読む」というわけではなく、
原作を知っていた方がより映画や映像作品が楽しめる、面白くなる、からです。

しかし、かりにも「評価」をするなら、原作くらい読んでいていいのではないでしょうか?。
原作とまではいかなくとも少なくとも公式な情報はいくらでも手に入るはずです。
評価をするのに、なにも予備知識・情報を知ろうともしないのは、どうなのでしょうか?。

原作や公開されている作品情報をなにも知らずに、作品のなにを見ようというのでしょうか?。
作品のなにが分かると言うのでしょうか?。何をどう「評価」しようというのでしょうか?。
映像化における翻案の意図や、オリジナルの要素、改変など、気が付かないのではないでしょうか。

「作品を先入観を持たずに判断したいから」と、もっともらしい言い訳もあるでしょうが、
「評価」をするなら先入観を払拭するためにも原作などを読む必要があるのではないでしょうか。

例えば、「そふてにっ」がアニメ化され放映中ですが、この原作コミックを読んでいれば、
アニメ化された内容は、特に極端な改変や改悪はされていません。むしろ良くなっています。
※「そふてにっ」アニメ公式サイトでは原作コミックの「おためし(第1話分)」が読めますよ。
「まじめに練習していない」という根拠はどこにあるのでしょうか?。ギャグコメディがメインの
この原作コミックで「エースをねらえ!」のようなスポ根アニメができたらそれこそ詐欺です(笑)。
「エロが多い」という根拠はどこにあるのでしょうか?。別に原作コミックから増えてません。
少しでも原作を読んでいればこんな誤解も偏見も生まれないと思います。

原作未読を「知らなかったから」という言い訳や盾にして、内容判断の基準を何ももたずに、
個人の見当違いの価値観を作品に押し付けているだけではないだろうか?。

可哀相なのは「誤解」され価値を歪められた作品たちです。

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おきゃん さんのコメント (2011/06/02) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
>ペク 様へ
はじめまして コメントありがとうございます。

この「原作未読」の書き込みは自分自身にも重くのしかかっています。ひとつの縛りですからね。
だから、みなさん、深く触れてこなかったのだと思います。
でも、「評価」というものである限り、逃げられない問題でもあると思います。

まず、言い訳として、みなさん、時間がないと思いますよ(笑)。
もっと言ってしまうと、評価なんか熟考して書く暇があれば、もっと本を読んだりや映画を
見たり、趣味に時間をとりたい、と、そう思います。
それぞれのひとのプライオリティはあると思います。
それなら、それに応じて評価すればいいだけのことだと思います。

「時間の無駄だから第1話で切って評価する」というのはそのひとにとっては正しいことですが、
果たして、「評価」する姿勢として正しいことなのでしょうか?。

仰るように「作品を読み解こうとする最低限の情報」に対して客観性が乏しすぎるように思います。

安易に「エロが多い」とよく書いてありますが、「あんたらの頭はエロしか反応しないのか?」
「エロしかチェックして見ていないのか?」と思いませんか?。
「作品の中味がない」と書いてある評価そのものに中味がないことに気が付いていない、と思いませんか?。
作品の中味を理解しようとしないことを棚に上げ、中味がないと逃げているのです。
アンフェア、卑怯だと思います。

そもそもエロが多いとか、中味がない基準というのはどこにあるのでしょうか?。

ここら辺の「評価」に使われる文言がパターン化してきて、それがおかしいことに
気がつかなくなっているような気がします。

少なくとも原作や事前情報を理解していれば、このようなことはおきないのではないかと
思った次第です。

「そふてにっ」は、見る人を選びます(笑)。まずは、公式HPでオンラインで読める原作が
あります(10分もあれば読めます)のでそれを見て、視聴の判断をしてみてはどうでしょうか。
ペク さんのコメント (2011/05/31) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
おきゃん様はじめまして。いつも楽しく評価拝見させていただいています。

あまり、原作を読まない自分としては、かなり耳の痛い話でした。
原作を熟読しておりその作品を熟知しておられる方から内容の理解が浅いと言われたら、
正直ごめんなさいと言うしかないです。
ただ、一つ言い訳させていただければ、本当に時間がないんです。時間は作ればあると良く言いますが、一日が24時間と決まってる以上、それにも限界があります。アニメも見たいし、映画も見たいし、スポーツ観戦もしたいし、小説も読みたいし、友人とも遊びたい。もちろん仕事もしてる…。今でも寝る間を惜しんで時間を作ってはいますが、正直全然足りていません。時間があれば是非読みたい原作は多いんですが、もう既に何十巻も続いてる漫画とか何巻もある小説とかだとやっぱり手が出しにくいです。

ただ、そんな中でも作品を読み解く努力は一応自分なりにはしているつもりです。
おきゃん様が書いておられた「読んでいただきたい人」というのは、この努力すら怠っている人たちの事かなぁと思いました。
例えば、原作未読と謳っているのにもかかわらず、続き物の作品なのに一話目が終わった時点で最悪評価を付けているのを見ると、お前はエスパーなのか?と聞きたくなりますし(今期で言えば電波女と青春男なんて一話目と今では最早別の作品です)、「よい点 ない」というのを書かれているのを見たって、「あっそ」としか思いません。

作品を読み解こうとするのは、こうやって評価を書こうとするものの最低限の心構えだと思います。不評系の意見を書く時も肯定派の人たちに納得してもらえるような文章を書きたいものです。

―「そふてに」かなり推してらっしゃいますね。個人的に絵柄が合わなくて未チェックの作品なんですが、どうやら一話完結の作品のようなので見てみようかな(^^)-
おきゃん さんのコメント (2011/05/30) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
>古代米ダブル 様へ

仰ることは良く分かります。

でも、個人個人の原作の理解度まで問う気はまったくありません。
一度や二度、原作を読んだからといって全て理解できるわけはないと思います。

例えば、「ザ・シューター 極大射程」という映画がありますが、これは映画の原作だけ読んでも
ダメなんですよ。なぜかといえば、この作品は作家スティーブン・ハンターの一連の作品の
スナイパーのボブ・リー・スワガーを主人公としたシリーズ物の一作に過ぎないからです。
もっとも、原作を知らない人は連作・シリーズ物であることすら分からないでしょうね。
でも、私自身、そこまで全部読めとは言えません。読めば面白いことはお約束しますが。

トトロの例については、わたしは「映像作家」と「読者」の想像力の違いだと思います。
映像作家は原作の文章の意味を忠実に映像化しているわけではないと思います。
原作からどう想像力を働かせて映像化するか、それが映像作家の力量だと思います。
映像作品は「そこ(映像作家の想像力)」を見るのではないでしょうか。
その想像の原点にある原作というものは作品を評価する上でとても大切だと思います。

評価するうえのルールとして原作を読むことを「義務化」することは無理だと思います。
それは本人の「意識」の問題だからです。

この日記にコメントをいただいた方は、いずれも、評価するときにちゃんと原作を意識している、
ということです。これが大切なことではないでしょうか。
「原作なんて知らない」なんて当り前に宣言する姿勢は恥ずかしいことだと思います。
それを恥とも思わない、誰にも教えてもらわなかったことは、不幸なことかもしれません。
古代米ダブル さんのコメント (2011/05/28) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
失礼致します。

自分の場合は逆に「原作既読です」と書く癖があります。それは「原作には触れています」という意思表示のようなものですが、この記事を読んで考えさせられるものがありました。

正直申し上げますと、原作未読が問題じゃないと思います。
問題なのはむしろ、原作既読を謳いながらも原作が何なのかを理解しないことでしょう。

極端な例ですが、『となりのトトロ』を評価するとしまして
「原作版『隣のトトロ』は既読です。原作と比べるとアニメの内容は云々……」
などと断言するようではいけないということです。『隣のトトロ』などただの都市伝説に過ぎないのですからホラ吹き以外に何もありません。

原作を知ったほうがいいというのは、自分にとっては「推奨」であって「義務」ではありません。原作を知っていた場合のほうが作品に対する理解を深められるからこそ、原作を読んだほうがいいという考え方です。
けれども、そうであるならば「原作未読(または原作既読)です」という前書きなど不要かもしれませんね。原作を知らないならば原作を知らないなりに、ただ「面白かった」「合わなかった」の一言で済めばいい話ですから……余計なこと書いて顰蹙を買うくらいならばそうしたほうがマシでしょう(もっとも、これでは評価にもなっていませんが)。

“本気で作品と向かい合う"ならば、原作に触れるのが大前提かもしれません。(今現在の)自分が評価を書くならばそうします。まぁ、こういう言葉は自己保身のために使う言葉ではないかもしれませんね。意識はしておこうかと思います。

追記
この記事が提示した問題の対策として評価に参考文献を載せることをルールとする手もありますが、自由な発言がしづらくなる関係から難しいものがありますね。
おきゃん さんのコメント (2011/05/28) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
多くのコメントありがとうございます。m(_ _)m

>アマンドの木 様へ
仰るように、「現実的」ではないですね。あまりに多いし、当り前になってしまっています。
だから、ひとこと言いたかったのですが、読んで欲しい人は多分、この日記を読まないと思います(笑)。
このサイトは「評価」書き込みを編集できますので、個人個人が気が付いて修正するのが
一番良いと思います。

>青い羊 様へ
ロボコップのノベライズはSF小説としても良く出来ていましたね。
マーフィが記憶を辿る場面などこの映画の見るべきところをしっかり描いているんですよね。
しかし、この映画を一緒に鑑賞した友人は原作を読んでいなかったため、ロボコップを
アメコミヒーロー物と思っていて過激なシーンの連続にショックを受けていました(^^;)。
「こんな残酷な映画だとは思わなかった」と・・・落ち込んでました。
ラストシーンで「マーフィ」と答えたことの意味と感動と爽快感を味わえたのだろうか?。

>Merci 様へ
仰るように「自分が何を見ているのか?」を自覚して欲しいと思います。
仮にも「評価する」という行為には正しい情報を理解して伝える責任があります。
ぶっちゃけ「原作未読」なんて無責任なだけだと思います。

>雪霞 様へ
すみません、「ふつう」という表現は不適切でしたね。個人的な感覚ですね。
これは知人から「おまえは原作も読まないで映画の何を見るのだ」と言われてからです。
それ以来、原作を読んでから見るのはリアルタイムに公開される作品では「普通」になりました。
テレビっこじゃないんでCMや映画紹介より書店で本を物色していて原作本を手に取る感じです。
生まれる前の映画作品などは、映画を見てから古書店で原作を探して読みます。

>「必要がある」 かどうかはその人自身の考え方で、人それぞれですし、状況によっても違うでしょう。
そのとおりだと思います。しかし、このサイトは評価をするサイトです。
芥川龍之介の 『藪の中』 を読む手間って、それほど大変なことなのでしょうか?。
学生さんなら読んだことがあるひとも多いのではないでしょうか?。
努力をして読むことが出来ないなら、それはしょうがないことではないでしょうか。
古い映画作品だと原作を入手するのは困難なものもあります。「5月の7日間」とか。
わたしが気になるのは、「調べる手間も読むことも最初から放棄している」態度・姿勢です。
安易に使う「原作未読」というのは、その無責任な態度や姿勢の表れではないでしょうか。
自分に合わない作品かどうかちょっと調べれば分かる深夜アニメの内容を調べず、
「作品が悪い」と相変わらず同じことを繰り返していることです。
ただの責任転嫁で、最初に調べないから愚かなことを繰り返すのだといいたいです。

>スペ9 様
仰るとおりだと思います。

原作を読んでから映画を見るのか、映画を見てから原作を読むのか、それぞれだと思います。
「ソラリスの海」などは原作を読んでいてもラストシーンは衝撃です。

>herba 様
わたしもけっこー「原作未読」を使ってますね(^^;)。
でも大抵、原作は後から読んでます。で、人知れず評価の文章をちょこちょこ編集したりして。

仰るように、原作を読んでいない人の評価と、原作を読んでいる人の評価との違い、というのは
興味深い比較ができると思います。その「立場表明」としては意味があると思います。
ただ、先にも書きましたが、「原作を読まなくて当り前」という姿勢は評価サイトではどうかと。

原作が長編だと読むのが大変です。わたしも映画「パピヨン」の原作は映画を見てから
かなり後に読みました。優先順位はありますからね。原作はいつ読んでも良いと思います。
そして気が付いたり、思いついたことがあれば、編集して追加したり、書き直したり
すれば良いと思います。
herba さんのコメント (2011/05/27) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
こんばんは、お邪魔します。

日記のタイトルを見てギクリとしてしまった(←たぶんこの文言を流行らせた張本人の一人のような気がする…つい最近も「レベルE」の評価に使ってしまいました。その前にも何度か使ったような記憶が。)

私の場合、原作既読者としての評価コメントが多い場合に立場を明らかにする意図で断り書きを入れることがあります…既読者の方が得ている情報が多い意味でその意見は尊重したい所もあるので(「レベルE」はそうです。これは「良い」にしましたが既読者の評価にもなーんとなくですが感じる部分はあったので)。
思うに「未読の立場からどう見えたか書いておくのにも意味が無いわけではないだろう」といった「多数派」を代弁しようとする意識が働くのも理由の一つに挙げられる気がします。

…もっとも、単純に原作読むのが面倒だったり他に優先したいものがあったりします…おきゃんさんからすればずいぶんと勿体ないように見えるかもしれません。
スペ9 さんのコメント (2011/05/26) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
原作がないのに「原作未読」とか言うのは「痴れ者」決定でOKでしょう。
まぁ、原作があって「原作未読」と言うのも、評価・解析としてそれだけ底が浅くなる
のは間違いない。

>わたしも映画を見る前にできるだけ原作を読むようにしています。
私は段取りが逆です。映画やアニメを見るまでその作品を知らなかった場合、予備知識
があると「びっくり」が減退しちゃうのであえて事前に原作を読みません。映像を見た
後で「これは原作も見なくっちゃ」と思ったらはじめて読みます。TVシリーズで
一話を見て、原作が完結してる場合で顛末が気になってもTVシリーズが終わるまで
我慢しますね。
雪霞 さんのコメント (2011/05/26) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
こんにちは。お邪魔します。

原作がないのに 『原作未読』 だの 『原作は知りません』 だのと書く
人がいるのは困ったもんだと私も思います。
オリジナルアニメでも、ストーリー考案者グループを 「原作:○○」 という形にして
作品クレジットに書いてあると、原作が別にあると思っちゃうんでしょうね。
そのいい例が 『魔法少女まどか☆マギカ』。


それはそうとして、

> ふつうは、原作(ノベライズ)を読んでいて「面白そうだ」「どう映像化するか?」という興味から
> 映画館にいくと思います。

これ、「ふつうは」 そうなんですか? 私自身はそうじゃないんで戸惑いました。
映画紹介で興味をひかれれば、あるいは映画評を読んで好みにあっていそうなら見に行きます。
原作は関係ないです。映画が面白かったから原作も読んでみようか、という逆の順序のことはありますが。
もっとも 「雪霞は変な奴」 というのがたいていの人の意見らしいから、
世の中的には原作読んでから見に行くのがふつうなのかな。

それから、

> 「評価」をするなら先入観を払拭するためにも原作などを読む必要があるのではないでしょうか。

「必要がある」 かどうかはその人自身の考え方で、人それぞれですし、状況によっても違うでしょう。
これを厳密に適用すると、日本人も外国人も、芥川龍之介の 『藪の中』 を読まずに黒澤明の 『羅生門』 を
評価してはいけないということになってしまいますよ? (「藪の中」 の翻訳がない言語圏の人は
もうどうしたらいいのか。)
Merci さんのコメント (2011/05/26) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
まあ、個人的には、原作を絶対読めとまでは言いませんが・・・原作がないのに「原作を知りません」はないよなーと思って見ています。
オリジナル作品でそれを見た瞬間、速攻で削除提案をしたいところですけど・・・すぐに削除提案が満タンになる私(汗)。
1番どうしようと思ってしまうのは、「アニメorドラマ原作」→「コミカライズorノベライズ」の作品で、映像作品の方に「原作は知りません」とあるのを見た瞬間ですね。
調べたら数秒でわかることくらいは調べて欲しいと思います。
青い羊 さんのコメント (2011/05/26) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
度々お邪魔します。青い羊です。
「原作未読です」と前置きというか先制防衛して作品をけなし回る人は、鬱憤を晴らす場所も方法も見付けられない、人生損してる可哀想な人なんですよ。

そっとしておいてあげましょう。

(ロボコップのノベライズなんて、三回くらい繰り返し読みに耐えられるほど面白いのに。いやはや気の毒な方がいるものですねぇ)
アマンドの木 さんのコメント (2011/05/26) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
原作が無いのにそうやって書いてあったら、重大な事実誤認として削除提案してもいいんじゃないでしょうか。

まぁ、そうすると相当量の削除提案が必要で、作業を考えると現実的じゃないけど。


4. 2011/05/17 「ロストテクノロジー」 分類: ミニコラム
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ロストテクノロジーはなにも古代文明の話だけではありません。

現代においても、失われつつあるテクノロジー、技術があります。
最近では、NHKの時論公論 「未来技術の育て方」でも放映されたの「超高純度鉄」など。
そして、朝日新聞の記事でも取上げられていた「原子力防災支援ロボット」もそうでした。

「原子力防災支援ロボット」は、いわゆる、極限作業ロボットのひとつです。
極限作業ロボットとは1990年代までに人間が作業できない過酷な環境下、例えば、真空(宇宙)、
深海、高温、高電圧、放射線、ガス、などで作業できるように開発されたロボットのことです。
日本のロボットを支えるサーボ技術は世界トップクラスで、温度を逃がせない真空中で
動くことが出来る真空モータやアクチュエータなどは世界に先駆けて開発しています。
その最先端の応用技術が、「原子力防災支援ロボット」で原子炉内で作業するロボットです。
JCOの臨界事故の経験から国費30億円をかけて1年後には各電機メーカーの試作機6機が
開発されています。
そこまではわたしはサラリーマンで、産業の広告にも携わっていた関係で知っていました。
しかし、その後、どうなったのか、知りませんでした。

そして、今回の福島原発の事故ではアメリカのロボットが投入されました。

そのときわたしは「あれ?、日本のロボットはどうしたの?」と不思議に思いました。
危険な環境下で作業できる「極限作業ロボットは何台もあるはずだ」と思っていたからです。
新聞をみて、その理由がわかりました。10年前に開発された「原子力防災支援ロボット」は
電力会社から「不要」ということで、5台がスクラップに、1台が展示用にされていたのでした。
理由はこうです、「原発で事故がおきるわけがない。」、動きの遅いロボットより、
「いざとなったら人間が突っ込めばいい。」などという「高慢なおごり」でした。
国費を投じて開発されたロボットは国内どの電力会社からも見向きもされなかったのです。

なぜ、こうなってしまったのか。ここが大切なところです。

原子力産業のみならず、先端技術は高度化と細分化が進み、他の技術との交流が減ってしまう。
自らに都合の良い考えを持つ人たちが集まり村を作る。世界から隔絶され誰も近づけない。
都合の悪い声は届かなくなり、狭いコミュニティのなかで自己満足している、井の中の蛙。
そんな、孤立したコミュニティ(村)がいまの日本に蔓延しているのではないだろうか。

いや、日本そのものに、なにか「ひとごと」という意識がないだろうか。
震災当初、某都知事が「天罰だ」などと呆けたことをいうのはその典型です。
歪んだ個人主義が地域や社会や国まで犯し始めていると言うことです。

「原発なんて作るからだ」とか、「最初から原発に反対していた」とか、本当に「ひとごと」です。

交通事故を起こしたら「車なんて作るから悪いのだ」などと無意味なことを言うのと同じです。
車と社会は切り離せないのと同じで、今の原発もわたしたちの生活から切り離せない。
その「共存意識」が、まったくなくなってしまっていたのです。

私自身もそうでした。
書籍
子どもの頃、映画「チャイナ・シンドローム」でメルトダウンを知り、その時に原子力関係の
本をかなり読み漁りました。パニック映画の影響は強いですね(^^;)。
その時に思ったのが、「もう引き返せないのだ」ということです。

わたしたちは原子力と共に歩むしかないのです。今回、その共存意識を強く思い起こしました。

今、ただ原発を否定しても失われるのは電力と積み重ねられた高度な原子力技術です。
原子力技術までロストテクノロジーにしていいのでしょうか?。

アメリカが福島原発事故の収束に協力しているのは、日本の原子力技術を間近で確認することも
あるそうです。アメリカはスリーマイル島での事故以来、新しい原発は作られず技術が止まっている。
また、今回の福島原発の事故は、全世界がその動向に大きな関心をもっています。
そして、もう世界は分かってしまったのです。その国のどこを攻撃すれば有効なのかを。
クレーン船が送電線を切っただけで都市機能は麻痺してしまうほど脆弱なのです。
アーサー・ヘイリーの「エネルギー(原題:OVERLOAD)」と映画「チャイナ・シンドローム」は
1979年とほぼ同時期の作品。「エネルギー」では原発が過激派(テロ)の標的となっていた。
30年前に描かれたこれらの作品はいま重く我々に問いかけている。

福島原発の緊急炉心停止から事故当初、東電はなにをどうしていいのかわからなかった
のではないでしょうか。誰に相談していいのか分からなかったのではないでしょうか。
そういう緊急時における相談や対策の仕組みや協力体制が全くできていなかったということです。
おそらく、原発事故はおきないと主張した手前、事故がおきたことを想定した対策や準備を
するという発想そのものを閉ざしてしまったのではないでしょうか。

日本のマスコミも当初は、放射能も放射線も放射性物質も区別がつかないような記事を
平気で書いていました。まったく情けない限りですが、これが現実です。
それだけ原子力技術というものが一般の手に届かないものになっていたのです。

日本の原子力技術をそんな「孤立」に追いやってしまったのは、まぎれもなく我々の責任です。

特に今、原発は日本人の原爆の記憶と混同されヒステリックな非難の対象になっている。
原発反対運動、デモ、けっこう、でも、その後はどうするの?。
浜岡原発も冷温停止状態なった、再稼働は難しい。今後の廃炉へ、放射性物質の処理・撤去、
核燃料の移送・再処理、環境再生、地域・原発にかかわる人たちの再就職など、問題は山積みです。

これでいいのだろうか?。

そして、まず先に原子炉内でいまも被曝しつづけている作業員の命と健康を最優先に考えるなら、
原子炉内作業ロボットの国内開発/実用化は、長期化する原子炉内作業には早急に必要です。
いまも放射線にさらされている人がいるのです。積算した放射線量が一定量を超えると
作業することができなくなり、仕事を失う人もでるのです。作業できる人員もいなくなる。
原発事故で作業員の方が一人亡くなられました。被曝が直接の原因ではないかもしれませんが、
もし、「原子力防災支援ロボット」があったなら、と考えずにはおられません。

現在、今後ガレキ撤去などに導入されるロボットはスウェーデン製などいずれも海外製。
ロボット王国・日本、メイド・イン・ジャパンのロボットはどうなってしまったのだろうか。

技術の「灯(ともしび)」は絶やしてはいけない、どんな技術も研究も大切にしなけれないけない。
技術を差別してはいけない。孤立させてはいけない。無駄な技術などない。

国家が優先すべきは経済効果だけではないと思う。営利団体ではできない非効率の公益の事業を
広く分け隔てなく支援することは将来、大切な国の資産になるのではないだろうか。
目に見えること(成果)だけが全てではないと思います。

そのためには、様々な分野の人たちが交流し、親交を深め、お互いになんでも言える関係、
開かれた情報と環境を作り出していくこと、専門家も技術者も素人も含めたシームレスな
コミュニケーション、これが大切なのだ、そう、痛感しています。

いま大切なのは、どんな立場であろうとお互いに理解しあい、歩み寄り協力することだと思います。

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おきゃん さんのコメント (2011/05/19) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
>>青い羊 様、アマンドの木 様 コメントありがとうございます。m(_ _)m

わたしはそれが「ひとごと」だと思います。

今後、日本各地でブラックアウト=大規模停電が起きるリスクをどう考えているのでしょうか?。

小説『エネルギー』では『u』をUNEXPECTED(予期せざる要素)想定外の事柄として記しています。
この作品で過激派・テロリストが実際に爆破攻撃したのは「石油火力発電所」や「変電所」でした。
小説『エネルギー』ではさまざまな『u』が重なり火力発電所が緊急停止し大都市でオーバーロード、
予測しない大規模停電がいきなり起こる様がリアルに描かれています。
人工呼吸器が止まり死んでいく優しき才人、電力があれば助かる命に、なんと言い訳をするのでしょうか。
病気の人ばかりでなく介護や体の不自由なお年寄り、熱中症や脱水症状になりやすい冷房が必要な方に、
もう原発はないから諦めろ・・・、想定外だった、と、わたしにはそんなことは言えません。

いますぐにすべての原発を止めることが正しいことだとはわたしには思えません。

いずれ、原子力発電はなくなります。核燃料も枯渇する。核廃棄物処理も長期にわたります。
「原子炉内作業ロボット」なども原発が無くなったら即不要、ではないと思います。これからです。
どこの原発も事故が起こらなくても、そこで働く人たちは多かれ少なかれ必ず被曝しています。
原子力関連産業では全て被曝のリスクを覚悟して日本のエネルギーを支えているのです。
さらに、全ての核廃棄物処理を海外に依存し、自分の国だけ安全であればそれでいいのでしょうか。
最後の核の火が消え、全ての放射性廃棄物の処理が終わるまで、原子力から逃げることできません。
いままで、安全神話に依存し、みんなその現実から目をそむけていたのです。

もう、パンドラの箱は開いている、引き返せません。最後に残った希望・・・・・、
いま、高度な原子力テクノロジーを捨て去ることは大きな技術的損失ばかりでなく、国際的にも
また、「未来への責任」も果せません。世界が日本に注目し期待しているのはそこではないでしょうか。

原子力(原発)との共存についても誤解されていると思います。
なにも放射性物質で汚染された環境で暮らすことが「共存」と言っているわけではありません。

むしろ逆です。

もちろん今回の事故のように重大な環境汚染に繋がるリスクがあります。それは昔からです。
それを今回の事故で、はじめて多くの人が身近に感じ強く意識したのだと思います。
どんなものにでもリスクがある、それを限りなく少なくするのは技術であり人間です。

だからこそ、
原発を安全に稼働させるなら「もっとしっかり事故対策をしろ」と正々堂々と要求することです。
電力を供給してもらっているから黙っている、とか、地域の振興に協力してもらっているから
黙っている、というのはただの「依存」であり「共存」ではありません。

もっと安全性を高め事故が起きた時にどうするか考え、対策をたて準備するように
もっと大きな「声」を上げるべきだと思います。

言うべきことは言う、要求するべきことは要求する、それができることが「共存」だと思います。
いままではそれができていなかったということを言いたかったのです。

昨日から、NHKの海外ドキュメンタリーで「放射性廃棄物はどこへ?」が再放映されました。
再処理施設をたらいまわしにされ海洋投棄される核廃棄物、今に始まったことではありません。
いまも、あなたの住む街の普通の道路を核関連材料(核燃料または核廃棄物)をつんだトラックが
なんの放射線対策もせずにもう40年近くも日本国中を走っている。そのことを意識していますか?。
原発が近くにないから安全だ、というのは大間違いで意識しようがしまいがもう「共存」しているのです。

いま、全ての原発を止めるための議論やリスクの検証、安全対策、事故対策、費用、時期、
包括的なエネルギー対策などなど、立場や分野を超えた多くの官民問わず専門、研究者や地元住民、
多くの国民の意見交換、それらが尽くされていると、いえますか?。

「原発を止めない」という選択肢・意見が言えない、言い難い状況、それこそ間違っていると思います。

すべての原発のリスクを検証し、さまざまな対応を考えた末、原発を止める結論に至るなら、
それを受け入れる。稼働させ続けるなら、とことん安全と事故対策を追求させる。

それが共存するための意識・覚悟だと、わたしは思います。
青い羊 さんのコメント (2011/05/17) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
アマンドの木さんの意見に乗っかる形になってしまって何ですが、私も技術に対する御意見全般では頷けるところがあるものの、「原発」のくだりについては、賛同しかねます。
現在日本にある「原発」五十数基中、35基程度止まっていますが、低回転ながら日本は回っています。
我々はまだ引き返せる、というより引き返せるギリギリのところにいるのではないでしょうか?
私は電機メーカー勤務時代、主に電気融解炉の製造、設置、メンテナンスに従事させてもらっていましたが、そこで感じたことは「ある程度の規模を超えた製品は全て一品ものの試作品である」ということです。
(同型と言えど、現場で細かい仕様変更が入ったりするので、一つ一つ異なります)
原子力発電システムも同様です。
いかにそれらしく見せても、極端に製造台数が少ない最新技術の「試作実用品」なのです。
内部の気密性が失われたらアウト、使用済み燃料の廃棄または再利用技術が未確立、そんな「試作実用品」が、狭い地震多発国に50以上あるというのは異常を通り越して滑稽ですらあります。
技術立国日本(この看板も大分傷つきましたが)としては、勇気を持って引き返し、別の道(技術)を模索するべきだと考えます。
長文失礼しました。
アマンドの木 さんのコメント (2011/05/17) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
原発事故によって放出される放射能と人間の共存は不可能であり、事故を起こさない原発は存在しえません。よって、原発と人間の共存もありえません。国民と国土を放射能にさらしてまで維持すべき経済などありえませんし、来期のGDPと百年先の人間の健康を比べれば優先すべきは後者です。

通産省と自民党と東電と東大工学部によって形成されていた日本の原子力業界の閉鎖性は唾棄すべきものですが、それをのさばらしてきたのは「何が何でも経済優先」という思考停止だと思います。
あの福島の惨状を見てなお「電気が無きゃ経済が持たない」と言える人は、現実の世界に住んでいる人ではなく、絶対安全(笑)の世界に住んでいる人なのでしょう。

書かれている事に関して頷ける部分は多々ありますが、原子力発電所に関する部分だけは上で書いたように考えています。


5. 2011/02/20 「『桜桃の味』」 分類: ミニコラム
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映画なんて単純なものです。
見た人がなにを感じたか、何を発見できるか、それだけです。
ぱっと見た人がぱっと言ったひとこと、それが本質を鋭く突いていたりしますよね。
「なにをどう描いたのか?」「作者が何を考えたのか」「どうして作者はそこに至ったのか」。
そういった「なぜ?」を突き詰めて考えていけば、なにも映画論なんて知らなくても
作品を楽しむことはできると思います。むしろ新しい発見があるかもしれません。

それには常に「なぜ」と問う心構えが必要だと思います。
わたしの人生の師は映画や小説を読んだから必ず4回は「なぜ」と考えろ、と言いました。
同じ作品に対して最低4回は「なぜ」を問うとその作品の本質に近づけるのです。

例えば、ご存知かもしれませんがイランの映画で「桜桃の味」という作品があるんですが、
最初にこの作品を見始めたときはだらだらとつまらん映画だな〜と思って見ていました。
一種のドキュメンタリータッチのロードムービーのような感じで主人公が自分の自殺を
手伝ってくれる人を探しに車で荒涼とした砂漠の丘陵地帯を1日走るだけなんですよ。
でも、この感じ方は間違っていません。主人公はインテリ崩れの詰まらん人間なんです。
家は立派で裕福そうで、なに自由ない生活をしているようにみえる。
なんで自殺したいのかなんてさっぱり分からないのです。

しかも、この主人公は自分の自殺に他人を巻き込むようなことをしてるんです。
いわば、共犯者(協力者)を探しているのです。
人生の最後の判断を人任せにするのは、自分の責任から逃げているだけなのかもしれません。
この映画の主人公は自殺の言い訳を協力者に求めているようにすらみえるのです。

最初は主人公が「なぜ自殺したいのか」ばかり考えて見ていたのですが、この映画では
その自殺の理由ってのは一切描かれません。つまり自分は見当違いの見方をしていたのです。
あるシーンでやっと気が付いたのですが、考えてみればイスラム社会では自殺はご法度、
手伝ってくれる人なんているわけないんですよね。話を切り出すとみんな逃げ出す(笑)。
最初は気が付かなかったけど主人公は「なぜ」自殺の手伝いをすることができるひとが居ないのに
探しているのか?と考えると、色々な状況での主人公の考えに近づいていけるのです。
だんだんと主人公が「なにを探しているのか」「なにを求めているのか」と色々と
考えさせられながら見るようになってくるわけです。
すると、殺伐とした砂漠地帯の退屈なシーンが実に色めきたってみえてくるんですよ。
最初はただ「退屈な映像」だったのが「なぜ製作者はこのシーン(カット)を入れたのか?」を
考えることによって観察する目というものが開かれるんですよね。
つまり、それまでちゃんと映画を見てなかったことに気が付くのです。

さぁ、こういったひとつのことに気づくと、あとは俄然、映画が面白くなってきます。
作品を見ながら「なぜ」「なぜ」を自分自身で考えることによって色々なことが発見できるんです。
見るというのは観察することなんです。観察するということは考えることなんです。
考えながら見ると様々な発見ができるのです。発見するのは喜びなんです。
映画に限らずなにか作品を見て楽しいと感じるのは自分に新たな発見を見出せた喜びだと思います。

この映画では「状況(人生や運命)は変えられないが、考え方が変わると世界が変わる」という
これだけの話です。自殺願望の主人公の状況はなんにも変わってないし改善もされてもいない。
でも、老人の人生話のなかで「桑の実の味で生まれ変わった」というたったひとことによって
主人公の自殺しようなんて考えはラストでは消え、希望に満ち世界の美しさを感じている。
この映画がなぜ素晴らしいのか、と言われたらといわれたら「人の心を一瞬に変える力を
人間は誰も持っている」ということ、これに尽きます。

老人は自分の自殺の理由を苦痛からの解放だといっていましたが、では主人公の自殺の理由は
なんだったのか?。この映画ではさっぱりわかりません。
主人公は生きる理由を見出せなかったが、実は死ぬ理由もまた見出せていなかったのです。
他人の力を借りて死ぬなんて他力本願なことをするのは生きる理由も死ぬ理由も自分には
確固たるものをなにも持って無かったってことなんですよね。
自殺なんてそんなものなのかもしれませんね。自殺の理由は本人には相当に切実だけど
ちょっと心のスイッチを切り替えるだけでそんなものから簡単に開放できるのかもしれない。
ここで思うのです、自殺する寸前に桜桃の味を発見できるのか否か、それは誰にもわからない。

老人に自殺の手伝いについて念を押したその夜、主人公は自分の掘った穴に寝そべる。
しかし、老人が来ないことは分かっている。夜空には月と雲、そして雷鳴、雨音・・・。

そして主人公は目覚めるのです、それまでのくだらない自分は死に新しく生まれ変わって。

裕福だろうが貧乏だろうが環境や障害が厳しかろうが苦しかろうが「死ぬ」理由にはならない。
つまり、生きることも死ぬことも、状況や立場ではなく、心の持ちようなのです。
そんな単純なことにまっすぐに気付かせてくれる。

そして問題?のラストシーン(カット)、唐突にこの映画の撮影シーンの現場になります。
最初はびっくりしますが、ぁあ、これは「映画」だったんだ、なるほど「こういう映画なんだ」、
そう納得すると思います。明るく、安堵しなにか元気がでてくるような気持ちになります。
いままでは意識していなかったのですが「生きるってこういうことなんだ」ということなんです。

つまり、同じ場所、舞台なのにこんなに違って見えるということなんです。

この映画をみて心の中の何かのスイッチが切り替わったと言うことなんですよね。
視聴者にとっては、この映画そのものが『桜桃の味』だった、ということなのです。

自分にとっての評価とは、映画をみて考えた過程の記録に過ぎません。
自分の頭の中に作品を記憶から再現するための手がかり。トリガーです。
そういう自分が発見できた何かを伝えるために評価を書いているのかもしれません。

「桜桃(桑の実)の味」を手にし、味わってみたいと思いませんか。

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おきゃん さんのコメント (2011/02/22) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
>青い羊 様 コメントありがとうございます。m(_ _)m
>『桜桃の味』は確か大学4年の頃に見たと記憶しています。
>(『大地と自由』や『コーリャ・愛のプラハ』

こういう映画作品はなかなか見る場所と機会がないかもしれませんね。
『桜桃の味』は一昨年、NHK-BSでアジア映画特集があった折に見直す機会がありましたが、
よほど好きか、興味がないと積極的に見る気にはならないかもしれません(^^;)。
実際、わたしも賞を取ったと聞き及ばなければ見てなかったかもしれません。

こういう映画は、なにか惹かれて心に残るものなのですが、それがいったい何なのか?、
といわれたら、なかなか答えに窮する作品なのかもしれません。
面白いかといえば面白いし、面白くないといえば面白くない。
何かひとつ、気が付くととても面白く楽しくなるんですが。
すぐにそれが何なのか、わからないのですよね。
しばらく時間をおいて見直すと、また違った感情が心の中に沸き起こったりします。

>今考えると随分贅沢な時間の過ごし方をしていたものだと思いますが、

それは贅沢な時間ですよね。学生のころって、そういう時間が取れるのですよね。

わたしは学生のころ50人ぐらいの小さな映画館で「ウッドストック(リバイバル)」を見たのですが、
知人とふたりだけでした(笑)。劇場独占。当時はギターも始めていたので
「いっちょ見てやるか」なんて知人と軽い気持ちでオールナイトで見たのです。
だらだらとしたドキュメンタリーなんですが、あるワンシーンで凍りつきました。
ジミ・ヘンドリックスの強烈に悲痛な響きのアメリカ国歌「星条旗」です。
あの衝撃は今も忘れられません。若い頃になんとなく見ていたのが良かったです。
たぶん、いまこの曲のシーンだけ見ても、それほど心に響かないかもしれません。
映画全体を通してその空気の中ではじめて感じることができるのかもしれませんね。
今年『ウッドストックがやってくる!』も公開されましたが、見るのが楽しみです。

>脊髄反射的に反応してイキナリ書き殴るのではなく、一呼吸おいて、考えて、書くという所作って大事ですよね。

そう思います。一呼吸、深呼吸して頭の中を整理しながらまた考え直して、
それでもやっぱり確信がもてなくて、そういうことをすることがまた大切だと思います。
決して無駄なことじゃないんですよね。
青い羊 さんのコメント (2011/02/20) [編集/削除(書込み者/所有者が可能)]
おきゃんさん、おはようございます&お邪魔いたします。青い羊と名乗る者です。

『桜桃の味』は確か大学4年の頃に見たと記憶しています。
(『大地と自由』や『コーリャ・愛のプラハ』など、見たあと「考える気になる」映画が当時は単関係映画館で結構、上映されていたんですよね。それらの映画館はシネコンに葬り去られちゃいましたが。)

見たあと、4時間くらい考えましたね。喫茶店とかガストとかでボーっと。ネット環境なんてなかったし。ヤフー知恵袋なんて頼れないから自分で考えるのがデフォルト。

見たものを噛み締めて、時には牛のように反芻してまた咀嚼して、もう一度飲み込む。
そしてノートに数行自分の解釈を書き留める。

今考えると随分贅沢な時間の過ごし方をしていたものだと思いますが、脊髄反射的に反応してイキナリ書き殴るのではなく、一呼吸おいて、考えて、書くという所作って大事ですよね。


=>古記事6. 2010/06/11 遠い夜明け