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レイテ海戦の後編です。この戦いで日本は事実上、米軍に抵抗するだけの戦力を失ってしまいました。
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10月25日未明、戦艦武蔵の沈没に続き、更なる殺戮がレイテ湾直前で起こった。
栗田艦隊とは別働隊として動いていた西村祥治中将率いる戦艦「山城」「扶桑」巡洋艦「最上」と駆逐艦5隻を含めた艦隊がレイテ湾間近のスリガオ海峡で幾重にも張り巡らされた敵艦隊と交戦した。魚雷艇、駆逐艦は追い払ったものの、元が旧式戦艦であり、防御力に問題を抱えており、それが改善されることがなかった山城と扶桑という本来なら第一線を退いていた筈の旧式艦も出さざるを得なかった。
そんな一行を待ち受けていたのはオーデンドルフ少将率いる戦艦部隊だった。その戦艦群の中には真珠湾で沈められ、後に浮揚して復帰した「ペンシルバニア」「ウェストバージニア」も含まれていて、扶桑と山城を初めとする西村艦隊にレーダー射撃によって容赦なく砲弾が撃ち込まれ、山城はたった10名の生存者しか出さなかった。扶桑に到っては生存者がただの一名もいなかったという。
スリガオ海峡で戦没した「最上」(手前)
駆逐艦「朝潮」「満潮」「山雲」も沈み、残った最上も炎上し、後から合流しようとしていた志摩艦隊と合流した時には既に手遅れで、最上は志摩艦隊によって生存者救出の後、駆逐艦の魚雷で処分され、結局西村艦隊の生き残りは駆逐艦「時雨」只一隻だった。
武蔵を失った栗田艦隊はフィリピン東方のサマール沖で思いがけず、敵艦隊に遭遇した。スプレイグ少将率いる空母艦隊である。ここに至って、遂に大和の史上空前の46センチ砲と、長門の41センチ砲が火を噴く時がきたのだ。

サマール海戦での戦艦群。大和、長門、榛名、金剛
轟音と共に大和と長門から主砲弾が放たれ、続いて金剛と榛名、更に駆逐艦隊と巡洋艦隊も敵艦隊に肉迫する。しかし、その戦いは思うようにはいかなかった。
敵空母は正規空母ではなく、タンカー改造の護衛空母であり、戦艦の砲弾に耐える装甲など元から持ち合わせていなかったとはいえ、命中しても砲弾が艦を破壊することはなく、穴だらけにして突き抜けてしまうだけであった。その上、空母からの艦載機の攻撃と、攻撃の足並みが揃わなかった事で巡洋艦と駆逐艦の歩調が乱れ、敵の必死の反撃と、敵機動部隊を引っかけたはずの小沢艦隊は何をしているのかという栗田中将の迷いもあったといえるのかも知れない。
結果、指揮にも精彩を欠き、巡洋艦鳥海と鈴谷、筑摩を失ってしまう。栗田艦隊が与えた損害は護衛空母「ガンビア・ベイ 」と駆逐艦「ホール」「サミエル・B・ロバーツ」を撃沈した後は、さして目立った損害を敵に与えることは出来ず、大和生涯唯一の砲撃戦もちぐはぐな形で終わってしまった。
大和の巨砲はその威力を発揮することはなかった。
小沢機動部隊の動向を気にしていたハルゼー大将は、エンガノ沖に現れた空母艦隊に目をつけ、レイテの守備を主力ではない部隊に任せ、自ら主力部隊を伴って小沢艦隊を迎撃に出た。その陣容はエセックス級空母4隻にエンタープライズ、さらにアイオワ級戦艦二隻(ハルゼーはニュージャージーに座乗)が主力という堂々たるものであった。
対する日本側機動部隊は既に空母の格納庫を満たすだけの航空機はなく、歴戦の空母瑞鶴と、小型空母「千代田」「千歳」「瑞鳳」に航空戦艦「伊勢」「日向」、そして軽巡洋艦「大淀」と防空駆逐艦「秋月」「初月」「若月」「霜月」、そして二等駆逐艦4隻が囮作戦として敵機を迎え撃った。
機動部隊の死に水を取る形となった航空母艦「瑞鶴」
少ない機数と押し寄せる敵機を前に機動部隊は最後の戦いを展開した。マリアナ沖で沈んだ翔鶴と大鵬、ミッドウェーでの4空母の後釜を一身に受けた瑞鶴は阿修羅の如く戦った。少ない機数からなる防御力の弱さを対空砲火と、護衛駆逐艦隊の援護で敵機の猛攻に耐え続けた。多くの艦載機が襲いかかる中、瑞鶴は奮闘し、航空戦艦となった伊勢と日向も米軍にして「あのキメラ(戦艦と空母の融合による)艦に何も出来なかったとは!」と言わしめる奮闘振りであった。

航空戦艦となった伊勢(左)と日向も奮闘した。
しかし、僚艦は次々と傷つき、力尽き、6発の爆弾と7発の魚雷を受けた瑞鶴も遂に最期の時を迎え、午後2時14分、瑞鶴はエンガノ沖の海中に引きずり込まれていった。
開戦初頭から参加し、真珠湾から多くの戦いに参加し、縁起担ぎで"幸運艦"と呼ばれた瑞鶴の最期、それは日本機動部隊が完全に消滅したことを意味していた。
そしてこの日、大西瀧治郎中将が、自ら「統率の外道」と自嘲気味に話していた作戦を実行することになった。即ち、特攻作戦である。
500kg爆弾を抱えたまま敵空母に体当たりし、飛行甲板を使用不能にしてしまうというのが特攻作戦であった。この案を出さざるを得ない背景には既に日本にはこれ以外の方法でないと押し寄せる米軍に対抗しきれないという思いがあったのだろう。
大西中将は自ら「愚将」「暴将」と非難されることは覚悟の上だった。自ら誰もやりたがらない十字架を背負う役を引き受けた大西中将はアメリカとの戦争を声高に反対していた人物の急先鋒であり、航空機に未来を見いだしていた人物だった。それが戦争という中で自らを貶める作戦の指揮者となったのも、日本の逼迫した状況を映し出している。
結果、この作戦は護衛空母「セント・ロー」と軽空母「インディペンデンス」を撃沈に追い込むが、この戦果が「お国のために命を捨てる」という思想にも繋がっていき、それをよしとは思わなかった大西中将は終戦時の割腹自殺の際も、自分の指揮した作戦を統率の外道だという自覚と自責を捨てることはなかった。
肝心の栗田艦隊は小沢艦隊が敵を引き付けることに成功した!という打電を受け取り、フィリピン司令官のダグラス・マッカーサー元帥の心胆を震え上がらせるチャンスを掴みつつあったものの、何故か反転し、西村艦隊に過剰に戦力を使い過ぎたオーデンドルフ艦隊を撃破することもなく、そのまま戦場を去り、有名なマッカーサーの「I SHALL RETURN!!」と栗田の「謎の反転」という結果を残した。
この事について、栗田本人は戦後、何も語らなかったものの、個人的に言えば栗田健夫という人物は「もともと実戦向きではなかった指揮官」と言えばいいのだろうか、とも思う。実戦向きだったら、迷ったような、躊躇するような戦いはせずにレイテ湾に突き進んだのだろうし、西村艦隊がレイテの入り口に着いた時には、栗田艦隊は武蔵が・・・・・・という状態だったのだ。歩調を合わせることも苦手な人物だったと思えるし、元々航空戦向きではなかった南雲忠一が機動部隊司令官となり、慣れない仕事でミッドウェーで大失敗というのとは異なる意味で、栗田はこういった実戦向きでは無かったようなイメージもある。しかし、その実戦向きではない指揮官を序列を理由に前線に送り出し、無謀な作戦を立てた軍部に一番の問題があるのだが・・・・・・。
こうして日本は航空戦力だけではなく、海上戦力も無くし、戦う力を失っていく一方になった。
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レイテ海戦で事実上、日本は戦闘力を失い、本土を空襲の範囲内に入れてしまい、作戦も統一を欠き、足並みが乱れた作戦となってしまい、結局は無駄に巨額の費用を投げ打った巨艦や兵器群と、それをコントロールする人命を無為に散らせた結果となってしまいました。
よく、「栗田艦隊がUターンしなければどうなったか?」と言われていますが、元々実戦向きでは無かった指揮官に任せて突撃しても上手くいったかどうかという疑問はあるし、また、結果的に日本が戦闘力を失ってしまい、大勢の日本兵達が・・・という部分ものしかかってきます。そう思うと、やはり、「戦争すべきではなかった」「戦争回避の努力をしなければならなかった」という結論に行き着いてしまうし、日本だけではなく、今のアメリカにしても北朝鮮にしても、こうした日本軍のような迷走をイラクや自国で繰り返しているのでは?と思うのです。
航空母艦瑞鶴(最終時)
全長:257メートル
全幅:26メートル
排水量:25700トン
機関出力:160000馬力
速力:34・2ノット
武装
対空砲:40口径12・7センチ砲12門
機銃:25ミリ機銃51門
噴進砲:12センチ28センチ噴進砲6基
搭載機
戦闘機:零式艦上戦闘機21型
爆撃機:97式艦上爆撃機:99式艦上爆撃機:天山21型:彗星12型
84機
1938年5月25日:川崎重工神戸造船所で起工。
1939年11月27日:進水
1941年9月25日:呉鎮守部所属、第一航空戦隊第五航空戦隊配属。
1941年11月22日:真珠湾攻撃の為に単冠湾に入港。
1941年12月8日:ハワイ攻撃参加。
1942年1月20日:ラバウル攻撃に参加。
1942年4月9日:インド洋海戦に参加、英艦隊空母「ハーミーズ」撃沈。
1942年5月7日:珊瑚海海戦に参加、翌8日、米空母「レキシントン」を撃沈。
1942年10月26日:南太平洋海戦に参加、米空母「ホーネット」を撃沈。
1944年6月19日:マリアナ沖海戦に参加、初めて損傷を受け、僚艦「翔鶴」と機動部隊旗艦「大鳳」を失う。
1944年7月14日:呉で改修、修復。
1944年10月25日:レイテ沖海戦に参加し、魚雷7本、爆弾8発を受け沈没。乗組員1700名中、970名が救助される。
1945年8月26日:除籍。
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