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| [推薦数:5] 2011/12/28 最高(+3 pnt) [編集・削除/削除・改善提案/] by motorhead (表示スキップ) 評価履歴[良い:30(94%) 普通:1(3%) 悪い:1(3%)] / プロバイダ: 27109 ホスト:26990 ブラウザ: 7368 2周目見終わってかなり見方が変わったので再評価。 今回はさらに強烈なネタばれがあるので未見の人は要注意です。 実は自分はこの作品をまったく誤解していた。 結論から言えば、この作品は運命の存在を認め、尚且つ、残酷なまでに肯定的に描き切った壮大極まりない作品である。 不覚にも、最初の一周目は「運命の乗り換え」という強烈な目くらましをくらってそのことにまったく気付かなかった。 しかし、よく見ると「運命の乗り換え」とは「運命を変える」ということではなく、「運命の乗り換え」自体もまた運命の中に組み込まれているイベントのひとつに過ぎないことがわかる。 それは最終話を見れば明らかなのだが、要するにこれは幾原版「ファイブスター物語」だ。 作品世界の中で起こることは最初から最後まであらかじめすべて決められている。 そして、ファイブスター物語の世界でも、ときに奇跡のような出来事が起こり、それにはやはり高い代償が求められるが、 ピンドラでそれに相当するのが「運命の乗り換え」であり、ヒロインの陽毬の命を救うことだった。 では、なぜ冠葉、晶馬は消え去り、陽毬は一人だけ助かったのか? 実はこのことは、この作品の主旨と密接な関係があるのだが、 それにはまず、あの「生存戦略」というキーワードの意味を理解する必要がある。 「生存戦略」。わけがわからないという人も多いが、なんのことはない、そのまま素直に解釈すればいい。 つまり、人をはじめとする生命が取る、生き残るための戦略のことだ。 それは、わかりやすくいうと「間引き」である。 そして「間引き」をメタファーで端的に表しているのが例の「こどもブロイラー」だ。 陽毬のいう「選ばれないことは死ぬこと」というのは、つまりは「間引き」のことで、このことは多蕗やゆりなどの過去のエピソードでも描かれている。 優れた者、美しい者、あるいは親の愛情を勝ち得た者だけが生き残り、そうでないものは淘汰される。悲しいかな、これが冠葉も言っていた、この世界の「ルール」である。 そして「選ばれなかった」陽毬は、このルールに則り、世界から淘汰されるはずだったが、 のちに兄となる晶馬に「運命の果実」を分け与えられ、「選ばれた」ことにより「間引き」を逃れた。 しかし、晶馬は「運命」により原罪ともいうべき罪を背負っていて、アダムとイブのごとく、 陽毬も晶馬と生きることを願ったことで罪を分け合うこととなる。 また、三兄弟の長兄、冠葉も同じような経緯で、陽毬に救われることになる。 そして、のちに晶馬もまた、過去に冠葉に救われていたことが明かされる。 そう、三人の出会いはすべて運命によって決められていたのだった。 そして、最終話で三人はそれぞれの罪と罰、そして愛を分け合い、冠葉、晶馬は自己犠牲の死という代償を払って、「運命の乗り換え」を実現させ、陽毬の命を救う。 圧倒的な演出力で描かれた実に美しいラストだが、ここでひとつ疑問が浮上してくる。 それが最初に書いた、陽毬だけがなぜ生きているかということ。 罰を分け合ったのなら、一人だけ生き残るのは一見、おかしいように見える。 しかし、上に書いたように、これは生存戦略の結果であり、誰かが生き残ることは必然であるから、仕方のないことと言える。 そして、もう一つ、罰というのはなにも「死ぬ」ことだけとは限らない。 陽毬が何度も言っていたように、「生きる」ということもまた罰なのである。 生存戦略で生き残った者は、他の多大なる生命の犠牲の上に生きているということであり、それは現実を 生きる我々も同じである。 災害で命を落とす人、自殺した人、犯罪事件に巻き込まれて亡くなった人。 それら数え切れない人々の犠牲によって、今、自分が生かされている。 そう思うと、胸が苦しくなる。 しかも、自分もいつ不幸なペンギンとなって崖から落とされるかわからないという不安から人は生きている限り逃れられない。 そう考えれば、人は生きているだけで罰を受けている存在だと言える。 しかし、この作品はそんな残酷な「運命」を否定したりはしない。 あくまでも運命を肯定し、どんな悲しいことや辛いことにも必ず意味があると信じ、(ラストの多蕗とゆりのように)大切な人と愛を分け合って生きていこうと主張している。 最後に最終話の陽毬のモノローグを引用して、このレビューの結びとしたい。 "私は「運命」って言葉が好き。 信じてるよ。いつだって、一人なんかじゃない。" 追記 本当にすごい作品だった。 間違いなくTVアニメ史上最高傑作と自信を持って言える作品だ。 個人的には人生観を変えられたと言っても過言ではない。 この作品にもう少し早く出会っていたら、間違いなく自分の人生は今とは変わったものになっていただろう。 それがこの作品に対する唯一の不満だが、致し方ない。 これも運命だと思って受け入れ、残りの人生を意味あるものにしていくしかない。 評価は無論、「最高」以外ありえない。 3周目視聴。 評価は変わらないけど、ちょっと追加。 結局、この「輪るピングドラム」という作品はなんだったのだろうか? 遺伝子が利己的か、利他的か、つまりこの世界が「利己的なルール」に支配されているか、 逆に利他的な「愛」によって成り立っているかとか、運命は存在するか、しないかとか、 この作品からは色々なことが読み取れるし、それらについて考えるのは面白いけど、 作品の一番大元にあるのは人間の幸福とは何なのか?という永遠のアポリアのような気がしてならない。 わけもわからず、いきなり「世界」に投げ込まれて、意味もわからないまま生きさせられ、 結局最後に待ってるのは惨めな死。 確かに「生きることは罰」と言っていいかもしれない。 本作はそういう結局「何者にもなれない」(どうせ皆最後には死んでしまうのだから) 悲惨な「人生」というものにどうにかして救いを与えようという思いが伝わってくる。 そして、その答えは最終話のサネトシと冠葉の、あの擦れ違いのシーンにあると思う。 結局「答え」は自分の外側にはなく、自分の中にある。「本当の光(幸福)」は自分で「見つける」しかない。 あのシーンはそういう事が言いたいんじゃないだろうか? そう考えると、これは主体性を失くした冠葉という一人の少年が「自分」を取り戻す物語であるようにも思える。 他者のために身を削ってどんなに頑張っても彼は救われなかった。 それどころか広い世界の中で一人ぼっちになってしまった。 そんな彼を最後に救ったのが、かつて晶馬に分け与えた「ピングドラム」だった。 それは元々彼が持っていたもので、つまり冠葉を本当に救ったのは晶馬や陽毬ではなく、彼自身だったということになる。 サネトシの言うように人は自ら入った「箱」から死ぬまで出られないし、誰かがすぐ傍にいても精神的に繋がることもできない。 しかし、それはよく考えれば当然のことだ。他者はどこまで行っても他者(自分とは独立した存在)に過ぎない。 それなのに他者を自らの延長線上の存在のように考え、他者(との関係性)の中に答えを見出そうとするから、「僕を必要としてくれなかった」などと思い、自分を見失う。 それは自己の否定であると同時に他者の否定でもある。 それに気付けない人間は他者に本当の意味で「愛してる」とは言えないだろう。 最期にそのことに気付けた冠葉は、むしろ「選ばれた人間」と言えると思うし、 それこそが人間の幸福というものではないかと思う。 ここまで書いて、じゃあ、晶馬って何?と自分で思ってしまったが、それはまた今度ということで(汗 「ピングドラム」というのも愛とか生命とか、そういう固定的な事物、概念じゃなくて、人それぞれの中で自在に形を変えるものとして設定されたものだろうけど、作り手が作ったものが作品ではなく、見た人が受け取って感じたもの、それこそが「作品」だということを改めて認識させてくれたし、本当にいろいろな見方が出来る面白い作品だと思う。
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